人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生5(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

哀歌3章

2020年09月02日 07時34分05秒 | エレミヤ書
3章 主のあわれみは尽きない
おはようございます。後のものを忘れ、今あるいのちの現実に生きていく、打ち破れた人はそこに立ち戻らざるを得ません。神のあわれみが豊かであればこそ、それも可能です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.主の恵みを待ち望む
バビロン捕囚にあって、神の側についたエレミヤやバルクに繰り返し語られたこと、そしてエレミヤも繰り返し警告の中で語ったことは「あなたのいのちは助かる」(38:20、39:18、45:5)「いのちを救え(51:6)」というものでした。そして今や、いのち救われた者として、滅ぼされた悲惨な現実よりも、これから生き延びていかなければならない現実に、詩人は直面しているのです。神のなさった仕打ちに沸き起こる疑問を、小脇に抱えながら、今や、神にいのち守られ、生きながらえて前に進まなければならない、もう一つの現実に心を向けなくてはならないわけです。
しかし、かつてネヘミヤの一行が、エルサレムを再建しようとエルサレムに帰還し、いざその事業に着手し始めた時に、つい口からこぼれたことばは「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない」(ネヘミヤ記4:10)でした。いのちがあってもどうしようもない、この先手も足もでない、と思えることがあるものでしょう。心はとめどなく、過去の記憶に打ちのめされ、沈むばかり、ということがあるものでしょう(20節)。
けれども、いのちある限り希望はあると言うべきなのです。神がいのちを残されたのは、その人に新しい未来を用意されているからです。主のあわれみがあるということは、一度限りのあわれみではなく、何億万倍のあわれみがあると言うべきでしょう。主は善きお方です(22節)。朝目覚めるならば、その日一日の恵みがあることを信ずべきです(23節)。
2.進みつつ祈る
 そこで、大切なのは、まず、十分に恥辱を受けることでしょう。つまり底付きの現状をよく受け止めることです。当時、捕虜は、まず後ろ手を縛られて地面に転がされました。口を土のちりにつける姿勢を取らされたわけです(29節)。そうであるなら、その状況を素直に受け入れることだ、と言います。「主はいつまでも見放しておられない」(31節)「意味もなく、苦しめ悩ませることはない」(33節)という信仰に立つことです。苦難が神からのものであれば、それを取り去るのも神の心次第、神の時によるのです(38節)。
そして、神の哀れみを素直に願い、祈ることでしょう(40節)。つまり、神との関係をしっかり建て直すことです。まさにそのような時にこそ、「恐れるな」と語り近づいてくる神との関係が深められるのです。そして神が人間の不正を決して見過ごされず、人を踏み躙ったり、権利を曲げたりするような者を見逃すことはないことに確信すべきです(34-36節)。そのように神との語り合いの中で、神が正しいことをなさるお方であると信頼が沸き起こるなら、これからの自分の将来についても、何かよき道が開かれると安心できるはずです。自分の心の思いを神と深く語り合う、そこから始めてまいりましょう。

エレミヤ書52章

2020年08月30日 07時19分59秒 | エレミヤ書
52章 愛せる書
おはようございます。エレミヤ書完読です。読み終わって私の心には、エレミヤが、徹底した裁きの預言の中に繰り返し再生の恵み、神の回復の意思を語ったことが残りました。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エルサレムの終焉
エレミヤ書完読です。最後の章は、エレミヤの預言が真実であったことを、史実をもって裏付けるものです。並行箇所である2列王記24:18-25:30と読み比べると、そこにはゼデキヤの終身にわたる幽閉、戦利品(主として祭儀用品)や三度の捕囚の細かな説明など、いくつか補足があります。しかもエホヤキンの恩赦は、ネブカドネツァルの死後のこと、もはやエレミヤが生きていたとは思えない時代の出来事です。というわけで、51:64にも「ここまでが、エレミヤのことばである」とありますから、本章は、エレミヤではない誰かが編集、加筆した部分と言えます。1節、ゼデキヤの母は、リブナの出のエレミヤの娘であるとされていますが、このエレミヤは、預言者エレミヤとは別人でしょう。
ともあれ、「エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによるものであった」(3節)と言います。つまりゼデキヤが反逆したのは、ネブカドネツァルではなく、万物の支配者である神でした。彼は、単に同時代の勢力均衡を崩す暴挙に出たわけではありません。イスラエルを格別に憐れんで、エジプトの奴隷状態から救い出してくださった神を、偶像崇拝によってないがしろにしたためでした。こうしてエルサレムの城壁も神殿も破壊し尽くされ、かつて栄えた都は廃墟と化すのです。ネヘミヤ記やエズラ記を読むなら、それがいかに壊滅的で、絶望的なものであったかがよくわかります。
2.神の回復への意思
31節以降、エホヤキンの恩赦が語られ、イスラエル回復の希望を与える補足があります。考えさせられるのは、神の裁きは、神の支配をわからせるためであった、ということです。ですからイスラエルが約600年かけて積み重ねてきたものが、ことごとく灰燼と化す、徹底した裁きが行われても、神が建て直す意思を持てば、それはまた建て直されていくのです。実際、神は懲らしめよりも悔い改めをよしとするお方です。そのような意味では、エレミヤ書を読み返すならば、そこには、エルサレム滅亡と同時に、回復を語り伝えるメッセージに溢れていることがわかります。滅亡は、もはや神のいかなる警告によっても、人間の愚かさのゆえに妨げられない、しかし滅びてしまったものを再び建て直す神の意思が、熱心に説かれているのです。だからこそエレミヤ書は、エルサレム崩壊後の70年の捕囚期を生き抜いた人たちにとっては、その惨めな過去を思い起こさせるものというよりは、慰めと励まし、また希望を与えるものとして読まれたのでした。今日の私たちがこの書を愛読するのも同じでしょう。悔い改めのある所に、神の恵みも大きい。たとえ、無に帰す人生の大失敗があっても、神がこれを愛する者のために建て直してくださる、その神の慈愛を私たちは本書に読むのです。大切なのは、迷わず、このまことの神ただお一人に心を向けて、献身することです。中途半端な偶像崇拝者であってはいけません。

エレミヤ書51章

2020年08月29日 09時18分45秒 | エレミヤ書
51章 バビロンに対する宣告
おはようございます。バビロンへの裁きのことばが語られ、ユダヤ人には、その裁きから逃れるように、と語られます。神のことばへの注意深さが、日々求められるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の裁きを宣告するセラヤ
 バビロンに対する裁きの宣告は、先の50章から続き2章で締めくくられます。宿営の長であったセラヤに、巻物に書き記された神の裁きのことばが手渡されています。セラヤは、エレミヤの預言を口述筆記して助けたバルクの兄弟です。彼は、神の定めをバビロンで宣告する者となりました(59-64節)。しかし彼が期待されたのは、バビロン政府に、もしくは、バビロン捕囚の民にこの宣言を伝えることではなかったようです。むしろ、彼自身が、この神のことばを行動預言的に朗読し、どう生きるかを問われたのでした。
 ですから、その後書かれたエレミヤのことばは、これを読んだ人々にどう応じるかを問い続けました。その具体例がダニエルでしょう。ダニエルは、エレミヤ書を読み、バビロン捕囚の終わりが近いことを悟っています(ダニエル9:2)。既に神のことばは語られ、それは書物とされている。後は、その書かれたものを手に取り読む者が、それをどう受け止めるかです。
 先日ある方が言いました。玉川の礼拝は、一回で読む聖書朗読箇所が長く、説教は聖書の翻訳であると考え、どちらかと言えば説教よりも聖書朗読に重きを置いている、と。そして、説教も主題説教はほとんどなく、解説的な連続講解説教できている、と。だから今日の説教はよかった、悪かった、そんな議論はほとんど起こらない、と。確かに、ヘブル語、ギリシャ語で書かれた聖書は、わかりやすく翻訳されていますから、それに優る何かが聞けるということはなく、聖書が語るところに注意深く耳を傾け、これにどう応じるかが大事にされなくてはならないのです。
2.自分自身を救え
 そして51章において、ユダヤ人であるセラヤの身において、心に響いてきたであろうことばは、6節、45節に繰り返される「それぞれ自分自身を救え」というものです。神は、明らかにバビロンを滅ぼそうとされていました。神のその意思は確かで、またそれを妨げる者もいません。神は創造主であり、天地万物の支配者であり、鋳た偶像とは異なるのです。彫像を神として崇め、そのために恥を見る結末に至るか、万物の造り主、万軍の主を信じて、闇から光へと入れられる恵みを得るか、私たちは選ばなくてはなりません。
「主は報復の神であり、必ず報復される」(56節)とあるように神は正しいことをなさるお方です。人は世の不正の中にあっても、決して心を腐らせてはなりません。むしろ、正しいことをなさる神の裁きの業に巻き込まれないようにすることも命じられています。一緒に絶ち滅ぼされないように自分自身を救え、と。ダニエルが他の大臣や太守たちに疎まれたのも、決してそのような神の御教えと無関係ではなかったことでしょう。この世と調子を合わせず、神のみこころに生きる歩みを大事にしたいところです。

エレミヤ書50章

2020年08月28日 06時54分18秒 | エレミヤ書
50章 神を恐れ、神の時を待つ
おはようございます。バビロンに対する神のさばきのことば、注意すべきは、この世にあって働く神の意思を認めていくことです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンに対する宣告
46章からイスラエル周辺諸国への預言が続けられてきましたが、いよいよ大国のバビロンに対する預言です。51章までの2章にわたる長い預言となっています。かつて、イスラエルを打つ神の道具として用いられたバビロンが、今度は、打たれる側になるのです。しかも、どうしてこんな事態になったのか?「わたしがおまえに罠をかけ、お前は捕らえられた」(24節)。人ではない、主のご意志があったことが明確に示されています。なぜ神はそのようにしようとされたのか。「主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ」(29節)。神の支配という霊的な現実がある中でこれらが起こってきているのです。まずそこに注目すべきでしょう。
この預言は、しばしば後代のもの、つまりバビロン帝国末期(BC538年頃)に未知の預言者が、エレミヤ風に加筆したもの、と考えられるところがありました。しかし、それはエレミヤの預言的能力も、神がおられる霊的現実をも否定するものです。歴史は力ある人々によって築かれたものではなく、その背後にあって、これを正しく導かれるお方がおられることは、否定しえないところがあります。人間のあり様を評価し、これにご自分の意思をお伝えになる神がおられるのです。
2.まことの神を恐れる
 しかし多くの人間は、そのように正しきことをなさる神を認めようとしません。むしろ自分に都合のよい神をでっちあげるものです。2節「ベル」は、バビロンの守護神、「メロダク」は、マルドゥクとも呼ばれる最高位にある神です。しかしその神々も、バビロンと運命を共にし、北からの敵によって滅ぼされる、と語られます。拝むべき方は、この世界をお創りになり、歴史を支配されるまことの神と言うべきでしょう。
 当時のバビロンの勢いを考えた時に、誰が、その破滅を想像することができたでしょうか。しかし、神の裁きを妨げる者は誰もおりません。同じように、私たちの身近な事柄においても、一体どのようにしてこの勢いを逆転させることができるものか、と思うことがあるものでしょう。圧倒的な勢いに飲み込まれ、倒されてしまった自分の人生がどのように、逆回転するのか、救われるのか、と思うことはあるものです。しかし、神の意思されるところに、救いはあると言うべきでしょう(44節)。目には見えませんが、確かに生きて、正しいことを行われる神がおられるのです。そのお方が語っておられることに注意し、耳を傾けることが大切です。そしてまことの神に対する信仰をもって、自らが神に造られた者であるという謙虚さをもった歩みをすることです。たとえ不本意な境遇に置かれることがあっても、迷うことなく、静かに神の時を待ち、なすべきことをなさせていただく。これを今日の最善であると考えて歩ませていただきましょう。

エレミヤ書49章

2020年08月27日 07時20分39秒 | エレミヤ書
49章 四方が確かであっても
おはようございます。イスラエル近隣の諸民族、全方位に向かうメッセージがあります。そして終末的な内容があります。信仰は、地上に終わらない永遠に連なる歩みなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.アンモンへの裁き
 エレミヤは、近隣のみならず遠方の国々に向かって、いわば当時の全世界に向かって神のことばを語り伝えます。アンモン(1-6節)、エドム(7-22節)、ダマスコ(23-27節)、ケダルとハツォル(28-33節)、エラム(34-39節)と。
まずアンモンはモアブと同様ロトの子孫で、イスラエルとは親族関係にある民族です(創世記19章)。カナン侵入の頃、彼らはラバ(現在のヨルダンの首都アンマン)を首都とし、ミルコムを崇拝していました。ミルコムは、モレクとも呼ばれ、幼児をいけにえとしてささげる民族宗教です。イスラエルにはソロモン王の政略結婚によって入り込み、ヨシヤ王の宗教改革に至るまで存続しました。その忌まわしい宗教に浸る民族に、神は裁きをもたらすと言います。しかし大事な点は、これまでも繰り返されて来たように、その後彼らを「回復される」と約束される神の意思でしょう。神の裁きは、罰というよりも、正しき歩みを引き出すための愛の鞭というべきものなのです。
2.近隣の諸民族に対する裁き
 次にエドム人。エドム人はエサウの子孫であり、これもまたイスラエルとは親族関係にある民族でした。彼らは、パレスチナ南東部に住み、「テマン人エリファズ」に代表されるように、知恵ある人々としても知られていました。また岩に囲まれた自然の要害堅固な土地に住み、先の巨万の富に寄り頼むアンモンと同様、侵略者を恐れることもなく、安心しきって生きていたのです。しかし富も、自然の砦も役に立たない。その滅びは上からやってきたのです。人間の成功などその程度のものでしょう。全ては神の御手に握られ、神の一存で決まるのです。となれば逆もまた真であると言うべきでしょう。袋小路のどん詰まりにあっても、上から助けが来るものです。
23節からはダマスコ、メッセージは南から北へと向けられます。アンモン、モアブ、エドムはパレスチナの南部、「ハマテとアルパデ」は北部に位置する小都市です。ハマテはダマスコの北オロンテス河畔、アルパデはさらに北にあります。28節のケダルはパレスチナの東の町、シリヤ・アラビヤ砂漠に住んでいる遊牧民、つまりベドゥイン族を指します。ハツォルはパレスチナ北部の町。34節のエラムはパレスチナから遠く離れた都市、後にペルシャ帝国の中心地となったスサのことです。エレミヤの預言は当時の世界の全方位に向けて語られました。それは神が、イスラエル民族の神ではなく、全世界の創造主であり、また支配者であるゆえんでしょう。ただ預言どおりに、それらの国々がバビロンに滅ぼされて後、回復されたことはありませんでした。つまりそれらは終末的な預言でした。エレミヤは地上の王国の興亡ではなく、まことの神に連なる新しい天の御国の秩序を語ろうとしたのです。信仰は、永遠の神と共に生きる志を与えるものです。