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人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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詩篇134編

2013年08月24日 06時44分07秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 都上りの歌、最後の詩篇は短い。1節「主のすべてのしもべたち」は、一般信徒ではなく聖職者たちのことである。つまり、この詩篇は、巡礼を終えた礼拝会衆が聖職者たちに向けて祝福を祈る歌とされている。ことに、2節「夜ごとに主の家で仕える者たちよ」とあるように、それは、ことに神殿業務の夜間シフトの働きを担う者たちに対する、励ましと祝福を祈っている。考えるべきことは、夜通し主の宮を守るために、立てられている者に、巡礼者がこのように祝祷を述べて、宮を後にしていく習慣があったことだろう。
3節は、聖職者たちからの応答の祈りであるとされる。「あなたを祝福されるように」という「あなた」は、一般信徒のことである。最終的には、信徒は再び祝されて送り出されるのであるが、やはり、礼拝会衆が主の宮の働き人のために祈った点に注目したい。
 礼拝は、礼拝に対する主の招きで始まり、祝祷を持って終わる。そんな一連の流れがある。牧師に、祝福を祈られて、世に送り返されていく、それが礼拝の締めくくりであると思っている人は多いはずだ。しかし、この詩篇が描く礼拝のしめくくりは、神殿業務を司る者たちに対する祝祷である。牧師のみならず、礼拝を導く、一人ひとりの奉仕者のために祈る点である。
 牧師や礼拝奉仕者が礼拝に集う会衆の祝福のために祈るのはよいとして、その逆は何のためなのだろうか。それは、これからもその礼拝の場が守られ、再び帰ってくる時まで、神の民に対する祈り、とりなしの祈りが絶やされず、自分たちの霊的な源泉である教会に、いよいよその霊の灯火が燃やされるように、と願う意図からである。実際、牧師も礼拝奉仕者は単なる礼拝の儀式を遂行しているわけではない。奉仕者は集まりあって、霊であられる神を礼拝するのみならず、黙示録7:9にある天的な礼拝へと導く明確なビジョンを持って、礼拝式に携わっている。その霊的な働きのための務めがいよいよ熱心になされるように、いよいよ主に整えてなされるように、という祈りは、重要なことなのである。教会の働きと牧師のために、そのような祈りが忠実になされているならば、どれほど教会は祝福されることであろう。詩篇が語るこのよき習慣が、教会にしっかりと根ざすことが期待されるところである。
<夜のディボーション>
 そもそも日本人にとって礼拝は、よくわかられていない習慣である。日本人は、聖書に、礼拝がどんなものであるのかをゼロから教えられなくてはならないところがある。定められた時に、定められた場所においてお会いしてくださる神の召しに応えて集う礼拝を、私たちは教えられなくてはならないのである。さらに、祈るために集まる、ささげるために集まることを、私たちは知らなくてはならない。教会に来て、毎週何をしているのか。儀式を執り行っているのか。何か自分がしたいことをしているのか。サークル感覚で礼拝に集うというのは、違うのであるし、神が召してくださるその召しに応えて、神の声を聞き、定められた祈りと奉仕をなすために集う。そして、会衆がその奉仕を全うできるように、全てを整え、全てをなす、教会スタッフの働きに感謝し、祝福をする。教会の働き人を祝福しつつ家路につく。そんな文化が私たちのうちにしっかりと形作られる必要があるだろう。クリスチャンになることは、聖書の文化を学ぶことであり、聖書の文化に生きることである。その中心は礼拝である。神を礼拝する民となることである。礼拝を私たちはわからねばならない。今日も、礼拝を学ぶ者として、整えられて出席することとしよう。(しばらくモンゴル出張のため、掲載が不定期になります)

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