生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学のすすめ(01)

2017年01月23日 11時00分18秒 | その場考学のすすめ
私の「その場考学」への原点

 以前のブログに示したように、私の「その場考学」への原点は1979年に始まったRolls Royce社とのエンジンの共同開発開始の直後だった。それから延々40年近くの月日が流れた。そして昨年の5月に突然にこんなことがあった。

 既に6年前に退会した日本ガスタービン学会から、突然の執筆依頼を受けた。「ガスタービン技術および産業の将来への提言」特集号で、『ムーンライト・高効率ガスタービン開発,FJRジェットエンジン開発等大型プロジェクト経験者に,当時の研究開発状況を振り返って紹介いただくとともに,プロジェクト終了後の技術開発,実用化への経験を踏まえて,ガスタービン技術と関連産業の将来の発展のための提言を頂く。』そうだ。そこで、聊か迷ったうえでお受けすることにした。そして、原稿は一部の修正要求を受け入れたのち、11月号(2016)として発行された。

 具体的には、12の教訓の概要に対して、その背景を少し述べるにとどめたのだが、学会誌のページ数制限で、各々の項目の説明は不十分であり、中には誤解を受けかねないものもある。そこで、ここでは原文をもとに一部を加筆訂正し、更にその背景を明確にするために、あらためてページ数の制約なしに纏めた。文中には固有名詞も含まれているが、すでに半世紀近く前のことであり、むしろ昨今の日本の技術や大学教育の質の低下への懸念から、一部をブログにも載せることにしました。

「通産省の大型プロジェクトFJR710における、ジェットエンジンの研究とV2500エンジンでの実用化の経験を通して得られた教訓」

はじめに

 私が,石川島播磨重工(以下IHI)に就職したのは1970年,FJRジェットエンジンのプロジェクトのスタートと同時であった。大学の研究室では伝熱工学を専攻し学部では、タービン翼の冷却法をテーマにしたが、修士課程では原子炉の極限冷却の研究に変更した。それは、新型ジェットエンジンの開発が、当時の日本では手の届かないところにあるように感じたからであった。しかし、修士2年の夏に、数年間浪人だった通産省大型プロジェクトへの採用が突然決まったとの知らせを聞いて,急遽就職先を変更したことを覚えている。純国内技術で民間航空機用エンジンの開発を国家プロジェクトとしてほぼ10年間続けられると云う企画は,当時としては最高の夢であった。それから40年間,どっぷりと大型航空機用のエンジン開発に携わることができたことは,望外の幸せというほかはない。
 
 このプロジェクトは、当時の大型プロジェクトの中でも、唯一の国家の産業にまで発展した成功例と言われていたが、私は、その後10年、20年とたつうちに、当初の最終目的からは外れていったように感じていた。そのことは、このプロジェクトがきっかけで始まった日本航空機エンジン協会(略称JAEC)の20周年の記念式典での、かつての航空機武器課の課長さんの言葉だった。「多くの苦難を乗り越えて実現したこのプロジェクトが産業としての発展に繋がったことは大変うれしい。しかし、繊維・鉄鋼・自動車と、たて続きにおこった貿易摩擦の問題が一段落を迎えた度に、省内では〝次の問題はどこで起こるのだろうか“との話し合いが持たれた。しかし、航空機用エンジンが候補にあがることはなかった。」
 
 この言葉の受け取り方は、人によって大いに異なったようで、その後話題にする人はいなかった。
それから、また10年以上の月日が流れたが、その状況は変わっていない。そこに、40年間の成功と挫折の中から得られた多くの教訓を語る機会が得られたのであるから、一思いに昔を振り返ってみることにした。

 プロジェクトの最終仕上げとなった英国で行われた高空性能試験の大成功の直後に,Rolls Royce社(以下RR)から50対50の共同開発の提案を受けて,RJ500の国際共同開発がスタートした。このエンジンは、当時欧米で新規開発が計画されていた130人乗り用の新型航空機への搭載が目的であった。

 その時は,まだSTOL機の飛行試験の開始時期であったが,私はこちらの技術作業調整との掛け持ちになった。そこからV2500(日米英独伊の共同開発)での日本の分担部分のChief DesignerやGE90(日米仏の共同開発)でのChief Engineerなどを経験したのだが,ここではこの間に得られた多くの教訓の中からいくつかの本音を述べてみたいと思う。
 
 初期の国際共同作業を通じて得た感想は,「このままゆけば,20年後にはBIC3(General Electric -以下GE,Pratt & Whitney -以下PWA,RR)に追いつき,30年後には日の丸エンジンを搭載する機体が生まれるであろう」ということであった。このことは、当時の日本の高度経済成長社会にあっては、むしろ当然のように思えた。確かに、民間航空機関係、中でもジェットエンジンの開発は戦後の「7年間の空白」のために、第2次世界大戦中のトップランナーから一時脱落をすることになった。しかし、例えば鉄道などは、英国に遅れること50年(世界初の蒸気機関車に牽引された公共用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、1825年に開業)だが、みごとに新幹線で世界一の座を獲得した。他の産業も然りであった。
 ジェットエンジンは精密機械であり、日本の技術が最も得意とする分野でもある。専業メーカーではなく、日本の三大重工業が協力体制を築いたことも、その広い技術基盤や経営基盤において有利に働くと信じていた。しかし、すべては、それらのことは期待とは反対方向に働いてしまったようであった。反対方向については、後に詳述したい。

 この時に挙げた教訓は、12項目であった。今回はこれらについて、学会誌では紙面と表現の関係で述べられなかったことを「この教訓の背景」とし、さらに割愛した[Lesson12;エンジンの設計は知識と経験が半々[1979]を追加した。

 Lesson1;研究と開発は全く異なる [1979]
 Lesson2;手段の目的化をしてはならない [2000]
 Lesson3;製造技術だけなら勝つことができた [1974]
 Lesson4;特許論争でも勝つことができた [1980]
 Lesson5; 設計技術だけなら勝つことができた[1975]
 Lesson6;実験装置でも勝つことができた [1977]
 Lesson7;品質管理の文化の問題 [1998]
 Lesson8;価値工学の価値は大きい [2002]
 Lesson9;商品としての差はMaintainabilityでつく [1979]
 Lesson10;世界中のエアラインの特徴を把握しなければ勝てない [1980]
 Lesson11;試験用エンジンを早く組み立てる [1982]
 Lesson12;エンジンの設計は知識と経験が半々[1979]
 Lesson13;リベラルアーツは常に重要

 これらの中から、現在でも通用する教訓を選んで、順次紹介をしてゆこうと思う。
 今回は、Lesson 1 です。

【Lesson1】研究と開発は全く異なる(Rolls Royceから最初に言われた言葉 [1979] )

 共同開発を始めるにあたってRRから最初に言われた言葉は,「あなた方は,FJR710エンジンで大成功を収めた。そのことはよく知っている。しかし,あれは研究用であり,これから我々が設計するのは開発用である。その違いを関係者全員で明確に認識してほしい。」であった。
 
 このことは至極当然で,目的が全く異なり,開発用は ①競合機種に勝ち顧客に選ばれること,②材料調達を含めて大量生産が連続して長期間可能なこと,③事業全体での収益をもたらすこと,④中古機も含めて40年間以上性能を保ち続けることなどが要求される。
 
 ちなみに,基本設計によるエンジン全体の断面図が完成された後で,最初に行われたレヴューは,整備技術のベテランチームとの丸2日間の会合であった。従来エンジンの整備上での問題,世界各国のエアラインからよせられた要望が,次々と出されて議論の対象になった。おおむね9割は設計陣により拒否されるのだが,会合の後でも,あきらめきれずに「日本側の設計では是非これだけは盛り込んでほしい」,との要望がいくつか話された。
 
 日本では,「研究開発」という言葉で,ひとくくりに言われることが多いのだが,企業間競争の中ではこの違いを明確に認識することから始めなければならない。研究と開発を同時に進めると,両方ともに中途半端な結果しか得られない。
 
 また,研究陣から研究が完成したと言われても,直ちに開発品に採用することは大いに危険である。どうしてもその成果を必要とする場合には,バックアッププランを常に並行して進めなければならない。生まれながらのグローバルマーケット商品の航空機用エンジンには,必ず競合機種が存在する。勝つためには,最新の成果の導入は不可欠であり,バックアッププランは,その後の経験でも常に実行された。

【この教訓の背景】

 開発用のエンジンで最も重要なことは、世界中のどの国でも採用が可能なことである。国際間には、多くの規定や習慣や文化があるが、どの国でも離着陸とそれに伴う整備が完全に行われなければならない。つまり、典型的な生まれながらのグローバル商品であるということなのだ。日本でも、最近のイノベーション・ブームにのって、多くの新製品の開発が続けられている。しかし、ジェットエンジン設計技術者の眼から見ると、どれもグローバル製品とは程遠いものに見えてしまう。つまり、特定国を相手にした、インターナショナル商品に留まっている。

 整備技術のベテランチームとの丸2日間の会合の後で、Rollsの設計陣の話は決まって、「あの連中の言うことは、毎回決まっている。全部を聞いていたら、とてもまともな設計はできない。」であった。一方で、整備陣はあきらめきれずに「日本側の設計では是非これだけは盛り込んでほしい」,との要望が個人的にいくつか話され、私の眼にはもっともな意見と思えるものが、いくつもあった。私は、そのような会話を楽しむことができた。そのことから、設計理論よりも現場の経験者の話を好む性格が生まれてしまったのかもしれない。

 日本では,「研究開発」という言葉で,ひとくくりに言われることが多い。一時期、「研究・開発」や「研究と開発」などの言葉が用いられたが、また元に戻ってしまった。日本では、様々な場面で「研究開発」という言葉が便利なのだろう。
 しかし、この言葉が日本製品の致命傷になっているように、長らく感じている。この言葉の元は、「技術立国」だろう。そのためには、研究と開発が一体とならなければならないとの、迷信からのように思う。

 世界の先進国は、製造からサービスへ急激に変わったが、日本は明らかに乗り遅れた。サービスも技術の一部なのだが、研究開発という言葉からは、そのイメージが浮かばない。研究者と開発者の考える方向は、いわば正反対なのだから、明確に区別すべきだ。英語では、Research And Developmentであり、この二つを続けた単語は無い。