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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングのすすめ(8) 第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

2013年09月26日 12時56分01秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」梅棹忠夫著、中央公論新社 2000という著書がある。
国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているものだ。第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中で興味深い記述がいくつかあったので、メタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。


 その前に、比較文明学について少し触れておこう。
梅棹は「比較文明学というような学問領域は、純粋に知的な興味の対象になり得ても、どのような意味でも、実用的な、あるいは、実際的なものにはならないであろう」と言い切っておられる。なんと工学と対照をなす領域ではないか。文明と文化の関係についての見かたは「時間的な前後関係をもつものと考えてよいのかどうか、すこし違った見かたをしています。(中略)文化というものは、その全システムとしての文明のなかに生きている人間の側における、価値の体系のことである。」としている。また、システム学とシステム工学の違いを、「システム工学は目的があるけれども、システム学は必ずしも目的を持っていない。「目的なきシステム」というものもあるのではないか」と記している。メタエンジニアリングは勿論目的を持つエンジニアリングであるが、その中に目的のないエンジニアリングを想定することが可能だと思い始めたところだったので、この言葉には深い印象が残った。どんなことになるのであろうか、興味が湧く。

 本論に戻る。従来の技術論の在りていに触れたあとで、「工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。」とある。技術者はそんなことは無いと否定するだろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。一方で21世紀には入ってからの所謂イノベーションと評価されるものには、「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」が深く盛り込まれているのではないだろうか。逆の言い方をすれば、現実の社会に生活している人びととの関係からとらえていない新製は持続性に乏しいと云うことなのだろう。
 
続いて、日本の文明と技術に対する欧米の見かたを批判した後に、日本独特の事情についての評価が続く。そこには、工学者と異なる独特の見かたが存在する。
 現代日本はベンチャービジネスが不得意とされている。その為に色々な政策や方策がとられているのだが、彼の見かたは異なる。「日本の場合、19世紀前半までに小経営体がひじょうに発達していました。(中略)小経営体というのは藩だけではありません。旗本領、寺社領などもあります。ものすごい数です。それによって組織の運営というものがどういうものかということを200年以上にわたって経験してきた。」とある。当時の社会では同じような傾向はドイツに見られるが、その他の国々では顕著ではなかった。現代でも日本の中小企業は健在だが、江戸時期の様な地域の殖産興業にはなかなか結びつかない。これは経営論だけの問題ではなく、文化という視点から見ると、工学と技術の力が昔ほど旨く社会(特に地域社会)に及んでいないということではないだろうか。勿論、現在でも事例は多数あるのだが、それによって一国(今でいえば県だろうか)の財政が豊かになるほどのものは無いようである。
 また、総合技術についても、「日本の技術がうまく展開してきた背後には、総合技術の存在があったということも重要な要素ではないかと考えております。大仏建立や道路網の建設においても、総合技術がすすんでいたのではないかと考えます。」このような人文科学的な見かたからは、通常のイノベーション論とは全く異なった見かたが出てくる。メタエンジニアリングでの考え方に、大いに取り入れるべき方向性ではないだろうか。

 個人主義と集団主義についての見かたは、「欧米と日本では個人主義のありかたがちがうのだと考えています。(中略)欧米の個人主義は豆つぶをあつめたみたいなもの。豆と豆との間には空気しかない。日本の個人主義は粒と粒のあいだを柔軟に拘束するものがあり、全体がゲル状態になっているのではないか。個人と個人をむすびつける文化的、心理的な要素がひじょうにたくさんあるのです。」
この見かたはその通りだと思い当たるふしがあるのだが、必ずしも利点とは言い切れないと思う。論理的な議論を正しく進める為には、マイナスに働くこともある。

 技術の移転については、「部分的技術の導入はできます。しかし、全体の文明システムとして移転しようとおもったら、まずできないのではないでしょうか。」と断言されている。中国は、皇帝と官僚による非常に長い支配体制があり、インドのカーストと女性解放問題、韓国の両班組織の問題など、基本的な社会の伝統を較べて日本が有利であると結論している。「中国のひとは人間操縦術みたいなものにたいへん熱心です。それは中国文化全体をつらぬくひとつのプリンシプルであると思います。人倫の話です。日本は人倫のことはあまり興味を持っていないようです。物をどうするか、これが日本技術の根底にあるのではないかとおもいます。」
 技術の情報化についても示唆に富んでいる。比較文明学の見かたでは「差異化とか付加価値化とかいろいろな表現がありますが、それらをすべてひっくるめて「情報化」ということばでくくれるのではないでしょうか。いまや技術は必要を満足させるという話ではなくなっています。(中略)技術の芸術化、あるいは技術の自己目的化が始まっている。日本技術はそこへきております。」である。1990年代の初頭にすでにこの様に技術のゆく先を見極めておられたことには驚きを感じる。

 大分引用が多くなってしまったが、以上が比較文明学者の日本の技術についての見かただとすると、メタエンジニアリングが取り組むべきいくつかの問題が見えてくる。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
③ 「技術の芸術化が始まっている」
④ 「技術の自己目的化が始まっている」
などのキーワードになると思う。
 
これらをメタエンジニアリング的に捉えるならば、次のようになるであろう。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
⇒人文科学や社会心理学などの見かたを取り込み、これをエンジニアリング的論理性で解釈を進める。

② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
⇒目的なきシステムは工学の新分野になり得るのか? 形而上学的な発想との関連が想定されるので、メタエンジニアリングの根本としての研究対象になると考える。

③ 「技術の芸術化が始まっている」
⇒人間国宝の工芸家は、芸術の側で優れた工学を取り入れている。その逆はまだ不十分なので、考える余地は大いにある。

④ 「技術の自己目的化が始まっている」
⇒様々な技術論の中には、技術のための技術論もある。手段の目的化が進んでいるのであろう。あくまでも、最終目的をただ一つの目的として追求せねばならない。

以上のように、比較文明学という視点から技術を見ると、新たな切り口を見つけることができる。このプロセスがメタエンジニアリングの一つの特徴となっている。現代の機械化文明は、多くの工学という文化が、その時々の社会の要請に従ってほど良く調和をして文明としての形態を作りだしている。しかし、一部の工学が自己目的化すると、その調和が破られることになり、文明の衰退が始まるとも考えられる。そのような考えに至ると、従来とは別の視点からもメタエンジニアリングの必要性が明確になってくる。


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