第9話 日本人の工学脳(その2)
この著書(「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行)の応用編と言おうか関連図書として、次の2冊を通読した。詳細は省くが、
① 「日本人の表現心理」 芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行は、日本人の個人間のコミュニケーションについて、その特徴を様々な観点から考えて、人文科学や社会科学を追求する上での、この方面の研究と知見が大切であると云うことを述べている。
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会 は、アメリカ人の専門家が、人間の性格と社会構造には深い関係があると云う前提のもとで、日本とアメリカにおける個人間のコミュニケーションについての違いの詳細な仮説を立て、そのことを様々な実験を通じて説明したものである。
何れの著書も、技術者の日常の専門業務とは縁が無いように見られがちであるが、技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、国際共同作業等にあたる際には、きちんとした認識を持つべきであろう。
脳の働きとコミュニケーションにおける日本人のこの様な特異性は、メタエンジニアリングにとっては両刃の刃と云えるのではないだろうか。技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、日本人独特の左脳をもっと鍛えて、右脳とともに利用すべきであろう。このことを更に発展的に考えてみたい。つまり、「独特の左脳とメタエンジニアリング」についてである。期待する結論は、日本人の独特な左脳を積極的に利用することにより、西欧文化からは絶対に出て来ない高度なイノベーションを発想することができるであろうということである。
自然が出している様々な発信によるサインを、科学技術を思考する左の脳に直接インプットできるのは、日本人の脳のみであることは、ほぼ明らかなようである。このことから少し大胆な仮説を立ててみることにする。日本独特の文化を考えてみる。茶道や華道は自然の音や形を左脳的に理解できることに大きく依存しているのではないだろうか。また、能や歌舞伎は楽器音よりも、自然音を重視しているように感じる。日本食と、中国料理や西欧の各種料理の違いも然り。アニメーションの世界でも、デズニー作品とスタジオ・ジブリの作品の差における自然表現の差は歴然としている。デズニーがいかに自然を旨く表現をしようとしても、スタジオ・ジブリには遠く及ばない。これらはすべて、日本人独特の左脳の働きによるもので、日本人がこのことを無意識に利用してきた結果ではないだろうか。
メタエンジニアリング的に考えてみよう。
血液型により性格や考え方やものごとに対する反応が異なる、と意識するのは日本人独特であると云われている。四季の移り変わりを強く意識する感覚も、あきらかに無意識的に存在している。これからの高度なイノベーションは自然をいかにうまく利用するかにかかっていると考えるときに、これらの事実は重要である。
例えば、地震予知や津波予知に関して適用してみよう。現在は物理現象として捉えて様々な研究が進められて、膨大な観測機器や研究費にリソースが使われている。これらは純西欧的な発想であり、結果としての現状は、予知どころか予測もままならない。しかし、これらの原因は自然の変化である。プレートの界面では数十億年にわたって巨大な力が作用していることに間違いはないのだが、果たして物理現象だけであろうか、化学的或いは生物学的(有機化学的)なサインは無いのであろうか。また、界面の現象は、機械工学的には低サイクル疲労のように思えるが、その際にはAE(アコースチィック・エミッション)が発せられる。地上や海中のある種の生物は、このプレート界面が発するAEの変化を感知できているのではないだろうか。特に、地殻変動が激しかった古生代からの生き残りの種には、そんな特性が残されているような気がする。このことは、前述の角田氏はその後の著書で、人間自身にも備わっているのだが、もはや自らは感じることは無く、脳の働きを調べる精密な測定器によってのみ実証されているとしている。
日本人的に四季の移り変わりを山や森の中で眺めていると、それによる変化は動物よりも植物の方が格段に激しく、かつ迅速であることに容易に気が付かされる。落葉樹の変化は、犬の抜け毛とは比較にならない。つぼみが出来て、花が咲き、受粉をして種子が一人前になった親株を離れるまでの変化とスピードは、高等動物では到底できない早わざと感じる。もっとも細菌や下等動物は除いてであるが。
まだ、考え始めたばかりであり系統的に纏めることはできないが、メタエンジニアリングによる発想(MECIサイクルのM(Mining)の段階)では、日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がることは間違いがないように思われる。メタエンジニアリングは、この面でのより科学的な活動を促進することに役立つのではないのであろうか。
聊か本論を外れるが、「母音に関する日本人の脳の特殊性」について、なぜ母音の理解が左脳だと、自然界のものや音に関する事柄まで、左脳に移ってしまうのかを考えてみた。私は、日本人特有の考え方は、和辻哲郎の有名な風土などの著書から、その歴史的な風土が大きく影響をしていると信じていた。四季折々の環境の変化の一方で、歴史始まって以来の安定した単一民族の単一国家の日本教という下での風土が、大きく影響をしていることに間違いは無いと思う。(この説は,近年大いに見直されているが、特有の日本語を話すようになってから、既に長い年月を経ているので、こkでは単一民族とした。)
しかし同時に、角田氏の母音説にも説得力を感じざるを得ない。特に、欧米人のみならず、中国・朝鮮人、果ては日系二世までも、同じことが当てはまらないと云う実験結果には説得力がある。この理論は、かなり古いものなのでその後に専門学会でどのように扱われたかはわからなかった。しかし、Internetで調べてみると、どうも最近に至るまで人気の書籍であることが分かった。 (その後、角田氏の著書を新たに4冊読む機会があり、さらに進んだ新たな知見を得たが、そのことは長くなるので別途述べることにする。)
角田論理を前提として、技術者の資質について考え直してみよう。このことは、つまり日本人特有の脳が、世界中の他の人間が、本来右脳で全体的にややぼや~と捉えて、そのときその場での直感で判断すべきものを、始めから左脳ではっきりと捉えてしまうということではないのだろうか。そのように解釈をすると、色々なことに思い当たる。第1は、日本の技術者が、全体最適を忘れて、部分最適に陥りやすいこと。第2は、戦略が不得意で、戦術や戦闘が得意なこと。第3は、茶道・華道などの何々道という体系が沢山存在すること。やや我田引水になってしまうが、そんな思いが湧いてきてしまった。
そこで、何故これらが、たった一つの母音に対する脳機能の違いから生まれてくるのかといった疑問が残る。このことに対する私の独断的な答えは、こうである。人間は通常会話を通じてより多くのことを考えたり判断したりする。このことは、個々人の誕生以来の成長過程で、今に至るまでそのひと個人の全てを包み込んでいる。その会話は、勿論母音と子音でできている。ここで、会話の度に日本語以外は常に、右脳と左脳が同時に働いているのがだが、日本語の場合だけが左脳重視になってしまっている。つまり、外部刺激に対して、常に左脳が優先して働き始めてしまうのではないだろうか。単純に考えれば日本人が情緒に関心が深いのは、右脳が発達していると解釈されるが、実は情緒に対しても左脳が多く働くので、深く考えだすのではないのだろうか、と云うことである。
この様な説は聞いたことが無く、むしろ最近のCTスキャンを使った、ある事象に対して脳のどの部分が活発に働いているかの実験結果と矛盾するのかもしれない。しかし、人間の脳には200億個以上の神経細胞があり、それらが全て複雑なスイッチ機能で関連付けられていると云う。現代の最新のCTスキャンでも遥かに及ばない細かさなのだから、実際になにが起こっているかは、まだなぞの部分の方が多いのだと思う。
随分と勝手な迷路に入り込んでしまったが、正解はまたの機会にして、日本語常用技術者の資質の特異性を認識いただければ、幸いである。そして、そのことが日本発のメタエンジニアリングのひとつの特徴になることを願う次第である。
(蛇足)
このことに関連して、ちょっと蛇足を加えたい。私は、10年ほど前から大学と大学院における工学教育の見直しの方向性について、通常とは反対の意見を持っている。一つは、大学院生の数はむやみに博士課程を増やすのではなく、需要と供給のバランスから考えること、二つ目は、授業の内容は、特に工学系については足し算ではなく、引き算から始めること。
すなわち、従来の西欧的な工学教育から一歩引いて、授業では公理や定理とそれに準ずる理論のみをしっかりと教えて、各論の半分は止めてしまう。それらは、インターネットで必要に応じて、最新情報を容易に得ることが出来る。そして、ここに述べた、「日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がる」 ことを前提に、文化や歴史の科学的な見方等を通じて、自然科学と社会・人文科学との関連などを教える。技術者倫理の代わりに自然科学の根本としての哲学を教える。これらのことは、既に米国の一部の大学で始められている。
このことは、古代ローマが自由市民の人格を高めるために用いたLiberal Arts教育に相当する。このLiberal Artsこそが、根本的エンジニアリングに基づく思考過程で最も重要なものなのだが、多くの工学生はこれを、一般教養として軽く見てしまう傾向にある。工学教育は、改善ではなくパラダイムシフトの時であろう。
自然科学者や設計技術者は、もっぱら言語脳を使って思考を深めてゆく。そして「音楽や絵画の様な芸術は、言語の場合よりももっと直接的に情動にはたらきかける、つまり脳の内側の領域に広くはたらきかけるようにつくられている」という訳である。つまり、「絵や音楽に対しては、脳の広い範囲が常にはたらく運命にあります。」 なのだ。
「言語活動の場合よりも広い範囲の脳が常にはたらいています。別な言い方をすれば、絵画や音楽が実現し伝えるものは全体像です。全体像をつくるときは、部分が欠けても、人間の脳は欠落部分を補うことは得意なのです。残っている部分がある程度あれば、欠けた部分を想像で補って補完してしまうのです。」とある。
また、「言葉を普通にしゃべれると云う点では、誰もがほぼ同じです。ふつうは100人集まれば、みなほぼ100パーセントの能力を持ちます。ところが音楽や絵画では、とくに作曲・演奏や絵画制作の能力では、大きな格差があります。演奏や描画の能力には、前に述べた「からだで覚える」記憶能力がおおいに関与しているのでしょうか、音楽や絵の鑑賞能力にも、人によって質的な違いが大きいようです。」 と語られている。
さて、これらの「より広い範囲の脳が働いている」、「全体像をつくる」、「人によって質的な違いが大きい」などは、エンジニアリングをより根本的に捉えなおす際には、どれも重要な要素となるであろう。聊か持って回った言い方になってしまうのだが、メタエンジニアリング脳には、音楽や絵画の様な芸術脳が必要であり、その際にも日本人特有の左脳の効果が期待されるのではないだろうか。
いずれにせよ、近代工業文明の元になった西洋的なエンジニアリングの枠から出て、より広い意味でのメタエンジニアリングを扱う場合には、日本人の工学脳の特異性を活かすことが、将来の人類社会の文明をより良い方向に導けるのではないだろうか。
この著書(「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行)の応用編と言おうか関連図書として、次の2冊を通読した。詳細は省くが、
① 「日本人の表現心理」 芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行は、日本人の個人間のコミュニケーションについて、その特徴を様々な観点から考えて、人文科学や社会科学を追求する上での、この方面の研究と知見が大切であると云うことを述べている。
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会 は、アメリカ人の専門家が、人間の性格と社会構造には深い関係があると云う前提のもとで、日本とアメリカにおける個人間のコミュニケーションについての違いの詳細な仮説を立て、そのことを様々な実験を通じて説明したものである。
何れの著書も、技術者の日常の専門業務とは縁が無いように見られがちであるが、技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、国際共同作業等にあたる際には、きちんとした認識を持つべきであろう。
脳の働きとコミュニケーションにおける日本人のこの様な特異性は、メタエンジニアリングにとっては両刃の刃と云えるのではないだろうか。技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、日本人独特の左脳をもっと鍛えて、右脳とともに利用すべきであろう。このことを更に発展的に考えてみたい。つまり、「独特の左脳とメタエンジニアリング」についてである。期待する結論は、日本人の独特な左脳を積極的に利用することにより、西欧文化からは絶対に出て来ない高度なイノベーションを発想することができるであろうということである。
自然が出している様々な発信によるサインを、科学技術を思考する左の脳に直接インプットできるのは、日本人の脳のみであることは、ほぼ明らかなようである。このことから少し大胆な仮説を立ててみることにする。日本独特の文化を考えてみる。茶道や華道は自然の音や形を左脳的に理解できることに大きく依存しているのではないだろうか。また、能や歌舞伎は楽器音よりも、自然音を重視しているように感じる。日本食と、中国料理や西欧の各種料理の違いも然り。アニメーションの世界でも、デズニー作品とスタジオ・ジブリの作品の差における自然表現の差は歴然としている。デズニーがいかに自然を旨く表現をしようとしても、スタジオ・ジブリには遠く及ばない。これらはすべて、日本人独特の左脳の働きによるもので、日本人がこのことを無意識に利用してきた結果ではないだろうか。
メタエンジニアリング的に考えてみよう。
血液型により性格や考え方やものごとに対する反応が異なる、と意識するのは日本人独特であると云われている。四季の移り変わりを強く意識する感覚も、あきらかに無意識的に存在している。これからの高度なイノベーションは自然をいかにうまく利用するかにかかっていると考えるときに、これらの事実は重要である。
例えば、地震予知や津波予知に関して適用してみよう。現在は物理現象として捉えて様々な研究が進められて、膨大な観測機器や研究費にリソースが使われている。これらは純西欧的な発想であり、結果としての現状は、予知どころか予測もままならない。しかし、これらの原因は自然の変化である。プレートの界面では数十億年にわたって巨大な力が作用していることに間違いはないのだが、果たして物理現象だけであろうか、化学的或いは生物学的(有機化学的)なサインは無いのであろうか。また、界面の現象は、機械工学的には低サイクル疲労のように思えるが、その際にはAE(アコースチィック・エミッション)が発せられる。地上や海中のある種の生物は、このプレート界面が発するAEの変化を感知できているのではないだろうか。特に、地殻変動が激しかった古生代からの生き残りの種には、そんな特性が残されているような気がする。このことは、前述の角田氏はその後の著書で、人間自身にも備わっているのだが、もはや自らは感じることは無く、脳の働きを調べる精密な測定器によってのみ実証されているとしている。
日本人的に四季の移り変わりを山や森の中で眺めていると、それによる変化は動物よりも植物の方が格段に激しく、かつ迅速であることに容易に気が付かされる。落葉樹の変化は、犬の抜け毛とは比較にならない。つぼみが出来て、花が咲き、受粉をして種子が一人前になった親株を離れるまでの変化とスピードは、高等動物では到底できない早わざと感じる。もっとも細菌や下等動物は除いてであるが。
まだ、考え始めたばかりであり系統的に纏めることはできないが、メタエンジニアリングによる発想(MECIサイクルのM(Mining)の段階)では、日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がることは間違いがないように思われる。メタエンジニアリングは、この面でのより科学的な活動を促進することに役立つのではないのであろうか。
聊か本論を外れるが、「母音に関する日本人の脳の特殊性」について、なぜ母音の理解が左脳だと、自然界のものや音に関する事柄まで、左脳に移ってしまうのかを考えてみた。私は、日本人特有の考え方は、和辻哲郎の有名な風土などの著書から、その歴史的な風土が大きく影響をしていると信じていた。四季折々の環境の変化の一方で、歴史始まって以来の安定した単一民族の単一国家の日本教という下での風土が、大きく影響をしていることに間違いは無いと思う。(この説は,近年大いに見直されているが、特有の日本語を話すようになってから、既に長い年月を経ているので、こkでは単一民族とした。)
しかし同時に、角田氏の母音説にも説得力を感じざるを得ない。特に、欧米人のみならず、中国・朝鮮人、果ては日系二世までも、同じことが当てはまらないと云う実験結果には説得力がある。この理論は、かなり古いものなのでその後に専門学会でどのように扱われたかはわからなかった。しかし、Internetで調べてみると、どうも最近に至るまで人気の書籍であることが分かった。 (その後、角田氏の著書を新たに4冊読む機会があり、さらに進んだ新たな知見を得たが、そのことは長くなるので別途述べることにする。)
角田論理を前提として、技術者の資質について考え直してみよう。このことは、つまり日本人特有の脳が、世界中の他の人間が、本来右脳で全体的にややぼや~と捉えて、そのときその場での直感で判断すべきものを、始めから左脳ではっきりと捉えてしまうということではないのだろうか。そのように解釈をすると、色々なことに思い当たる。第1は、日本の技術者が、全体最適を忘れて、部分最適に陥りやすいこと。第2は、戦略が不得意で、戦術や戦闘が得意なこと。第3は、茶道・華道などの何々道という体系が沢山存在すること。やや我田引水になってしまうが、そんな思いが湧いてきてしまった。
そこで、何故これらが、たった一つの母音に対する脳機能の違いから生まれてくるのかといった疑問が残る。このことに対する私の独断的な答えは、こうである。人間は通常会話を通じてより多くのことを考えたり判断したりする。このことは、個々人の誕生以来の成長過程で、今に至るまでそのひと個人の全てを包み込んでいる。その会話は、勿論母音と子音でできている。ここで、会話の度に日本語以外は常に、右脳と左脳が同時に働いているのがだが、日本語の場合だけが左脳重視になってしまっている。つまり、外部刺激に対して、常に左脳が優先して働き始めてしまうのではないだろうか。単純に考えれば日本人が情緒に関心が深いのは、右脳が発達していると解釈されるが、実は情緒に対しても左脳が多く働くので、深く考えだすのではないのだろうか、と云うことである。
この様な説は聞いたことが無く、むしろ最近のCTスキャンを使った、ある事象に対して脳のどの部分が活発に働いているかの実験結果と矛盾するのかもしれない。しかし、人間の脳には200億個以上の神経細胞があり、それらが全て複雑なスイッチ機能で関連付けられていると云う。現代の最新のCTスキャンでも遥かに及ばない細かさなのだから、実際になにが起こっているかは、まだなぞの部分の方が多いのだと思う。
随分と勝手な迷路に入り込んでしまったが、正解はまたの機会にして、日本語常用技術者の資質の特異性を認識いただければ、幸いである。そして、そのことが日本発のメタエンジニアリングのひとつの特徴になることを願う次第である。
(蛇足)
このことに関連して、ちょっと蛇足を加えたい。私は、10年ほど前から大学と大学院における工学教育の見直しの方向性について、通常とは反対の意見を持っている。一つは、大学院生の数はむやみに博士課程を増やすのではなく、需要と供給のバランスから考えること、二つ目は、授業の内容は、特に工学系については足し算ではなく、引き算から始めること。
すなわち、従来の西欧的な工学教育から一歩引いて、授業では公理や定理とそれに準ずる理論のみをしっかりと教えて、各論の半分は止めてしまう。それらは、インターネットで必要に応じて、最新情報を容易に得ることが出来る。そして、ここに述べた、「日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がる」 ことを前提に、文化や歴史の科学的な見方等を通じて、自然科学と社会・人文科学との関連などを教える。技術者倫理の代わりに自然科学の根本としての哲学を教える。これらのことは、既に米国の一部の大学で始められている。
このことは、古代ローマが自由市民の人格を高めるために用いたLiberal Arts教育に相当する。このLiberal Artsこそが、根本的エンジニアリングに基づく思考過程で最も重要なものなのだが、多くの工学生はこれを、一般教養として軽く見てしまう傾向にある。工学教育は、改善ではなくパラダイムシフトの時であろう。
自然科学者や設計技術者は、もっぱら言語脳を使って思考を深めてゆく。そして「音楽や絵画の様な芸術は、言語の場合よりももっと直接的に情動にはたらきかける、つまり脳の内側の領域に広くはたらきかけるようにつくられている」という訳である。つまり、「絵や音楽に対しては、脳の広い範囲が常にはたらく運命にあります。」 なのだ。
「言語活動の場合よりも広い範囲の脳が常にはたらいています。別な言い方をすれば、絵画や音楽が実現し伝えるものは全体像です。全体像をつくるときは、部分が欠けても、人間の脳は欠落部分を補うことは得意なのです。残っている部分がある程度あれば、欠けた部分を想像で補って補完してしまうのです。」とある。
また、「言葉を普通にしゃべれると云う点では、誰もがほぼ同じです。ふつうは100人集まれば、みなほぼ100パーセントの能力を持ちます。ところが音楽や絵画では、とくに作曲・演奏や絵画制作の能力では、大きな格差があります。演奏や描画の能力には、前に述べた「からだで覚える」記憶能力がおおいに関与しているのでしょうか、音楽や絵の鑑賞能力にも、人によって質的な違いが大きいようです。」 と語られている。
さて、これらの「より広い範囲の脳が働いている」、「全体像をつくる」、「人によって質的な違いが大きい」などは、エンジニアリングをより根本的に捉えなおす際には、どれも重要な要素となるであろう。聊か持って回った言い方になってしまうのだが、メタエンジニアリング脳には、音楽や絵画の様な芸術脳が必要であり、その際にも日本人特有の左脳の効果が期待されるのではないだろうか。
いずれにせよ、近代工業文明の元になった西洋的なエンジニアリングの枠から出て、より広い意味でのメタエンジニアリングを扱う場合には、日本人の工学脳の特異性を活かすことが、将来の人類社会の文明をより良い方向に導けるのではないだろうか。