生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(12) 第9話 日本人の工学脳(その2)

2013年09月15日 15時00分09秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第9話 日本人の工学脳(その2)

この著書(「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行)の応用編と言おうか関連図書として、次の2冊を通読した。詳細は省くが、
① 「日本人の表現心理」 芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行は、日本人の個人間のコミュニケーションについて、その特徴を様々な観点から考えて、人文科学や社会科学を追求する上での、この方面の研究と知見が大切であると云うことを述べている。



② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会 は、アメリカ人の専門家が、人間の性格と社会構造には深い関係があると云う前提のもとで、日本とアメリカにおける個人間のコミュニケーションについての違いの詳細な仮説を立て、そのことを様々な実験を通じて説明したものである。



何れの著書も、技術者の日常の専門業務とは縁が無いように見られがちであるが、技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、国際共同作業等にあたる際には、きちんとした認識を持つべきであろう。

 脳の働きとコミュニケーションにおける日本人のこの様な特異性は、メタエンジニアリングにとっては両刃の刃と云えるのではないだろうか。技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、日本人独特の左脳をもっと鍛えて、右脳とともに利用すべきであろう。このことを更に発展的に考えてみたい。つまり、「独特の左脳とメタエンジニアリング」についてである。期待する結論は、日本人の独特な左脳を積極的に利用することにより、西欧文化からは絶対に出て来ない高度なイノベーションを発想することができるであろうということである。

自然が出している様々な発信によるサインを、科学技術を思考する左の脳に直接インプットできるのは、日本人の脳のみであることは、ほぼ明らかなようである。このことから少し大胆な仮説を立ててみることにする。日本独特の文化を考えてみる。茶道や華道は自然の音や形を左脳的に理解できることに大きく依存しているのではないだろうか。また、能や歌舞伎は楽器音よりも、自然音を重視しているように感じる。日本食と、中国料理や西欧の各種料理の違いも然り。アニメーションの世界でも、デズニー作品とスタジオ・ジブリの作品の差における自然表現の差は歴然としている。デズニーがいかに自然を旨く表現をしようとしても、スタジオ・ジブリには遠く及ばない。これらはすべて、日本人独特の左脳の働きによるもので、日本人がこのことを無意識に利用してきた結果ではないだろうか。
メタエンジニアリング的に考えてみよう。
血液型により性格や考え方やものごとに対する反応が異なる、と意識するのは日本人独特であると云われている。四季の移り変わりを強く意識する感覚も、あきらかに無意識的に存在している。これからの高度なイノベーションは自然をいかにうまく利用するかにかかっていると考えるときに、これらの事実は重要である。
例えば、地震予知や津波予知に関して適用してみよう。現在は物理現象として捉えて様々な研究が進められて、膨大な観測機器や研究費にリソースが使われている。これらは純西欧的な発想であり、結果としての現状は、予知どころか予測もままならない。しかし、これらの原因は自然の変化である。プレートの界面では数十億年にわたって巨大な力が作用していることに間違いはないのだが、果たして物理現象だけであろうか、化学的或いは生物学的(有機化学的)なサインは無いのであろうか。また、界面の現象は、機械工学的には低サイクル疲労のように思えるが、その際にはAE(アコースチィック・エミッション)が発せられる。地上や海中のある種の生物は、このプレート界面が発するAEの変化を感知できているのではないだろうか。特に、地殻変動が激しかった古生代からの生き残りの種には、そんな特性が残されているような気がする。このことは、前述の角田氏はその後の著書で、人間自身にも備わっているのだが、もはや自らは感じることは無く、脳の働きを調べる精密な測定器によってのみ実証されているとしている。

日本人的に四季の移り変わりを山や森の中で眺めていると、それによる変化は動物よりも植物の方が格段に激しく、かつ迅速であることに容易に気が付かされる。落葉樹の変化は、犬の抜け毛とは比較にならない。つぼみが出来て、花が咲き、受粉をして種子が一人前になった親株を離れるまでの変化とスピードは、高等動物では到底できない早わざと感じる。もっとも細菌や下等動物は除いてであるが。

まだ、考え始めたばかりであり系統的に纏めることはできないが、メタエンジニアリングによる発想(MECIサイクルのM(Mining)の段階)では、日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がることは間違いがないように思われる。メタエンジニアリングは、この面でのより科学的な活動を促進することに役立つのではないのであろうか。

 聊か本論を外れるが、「母音に関する日本人の脳の特殊性」について、なぜ母音の理解が左脳だと、自然界のものや音に関する事柄まで、左脳に移ってしまうのかを考えてみた。私は、日本人特有の考え方は、和辻哲郎の有名な風土などの著書から、その歴史的な風土が大きく影響をしていると信じていた。四季折々の環境の変化の一方で、歴史始まって以来の安定した単一民族の単一国家の日本教という下での風土が、大きく影響をしていることに間違いは無いと思う。(この説は,近年大いに見直されているが、特有の日本語を話すようになってから、既に長い年月を経ているので、こkでは単一民族とした。)




しかし同時に、角田氏の母音説にも説得力を感じざるを得ない。特に、欧米人のみならず、中国・朝鮮人、果ては日系二世までも、同じことが当てはまらないと云う実験結果には説得力がある。この理論は、かなり古いものなのでその後に専門学会でどのように扱われたかはわからなかった。しかし、Internetで調べてみると、どうも最近に至るまで人気の書籍であることが分かった。 (その後、角田氏の著書を新たに4冊読む機会があり、さらに進んだ新たな知見を得たが、そのことは長くなるので別途述べることにする。)

 角田論理を前提として、技術者の資質について考え直してみよう。このことは、つまり日本人特有の脳が、世界中の他の人間が、本来右脳で全体的にややぼや~と捉えて、そのときその場での直感で判断すべきものを、始めから左脳ではっきりと捉えてしまうということではないのだろうか。そのように解釈をすると、色々なことに思い当たる。第1は、日本の技術者が、全体最適を忘れて、部分最適に陥りやすいこと。第2は、戦略が不得意で、戦術や戦闘が得意なこと。第3は、茶道・華道などの何々道という体系が沢山存在すること。やや我田引水になってしまうが、そんな思いが湧いてきてしまった。
 そこで、何故これらが、たった一つの母音に対する脳機能の違いから生まれてくるのかといった疑問が残る。このことに対する私の独断的な答えは、こうである。人間は通常会話を通じてより多くのことを考えたり判断したりする。このことは、個々人の誕生以来の成長過程で、今に至るまでそのひと個人の全てを包み込んでいる。その会話は、勿論母音と子音でできている。ここで、会話の度に日本語以外は常に、右脳と左脳が同時に働いているのがだが、日本語の場合だけが左脳重視になってしまっている。つまり、外部刺激に対して、常に左脳が優先して働き始めてしまうのではないだろうか。単純に考えれば日本人が情緒に関心が深いのは、右脳が発達していると解釈されるが、実は情緒に対しても左脳が多く働くので、深く考えだすのではないのだろうか、と云うことである。

 この様な説は聞いたことが無く、むしろ最近のCTスキャンを使った、ある事象に対して脳のどの部分が活発に働いているかの実験結果と矛盾するのかもしれない。しかし、人間の脳には200億個以上の神経細胞があり、それらが全て複雑なスイッチ機能で関連付けられていると云う。現代の最新のCTスキャンでも遥かに及ばない細かさなのだから、実際になにが起こっているかは、まだなぞの部分の方が多いのだと思う。
 随分と勝手な迷路に入り込んでしまったが、正解はまたの機会にして、日本語常用技術者の資質の特異性を認識いただければ、幸いである。そして、そのことが日本発のメタエンジニアリングのひとつの特徴になることを願う次第である。

(蛇足)
 このことに関連して、ちょっと蛇足を加えたい。私は、10年ほど前から大学と大学院における工学教育の見直しの方向性について、通常とは反対の意見を持っている。一つは、大学院生の数はむやみに博士課程を増やすのではなく、需要と供給のバランスから考えること、二つ目は、授業の内容は、特に工学系については足し算ではなく、引き算から始めること。
すなわち、従来の西欧的な工学教育から一歩引いて、授業では公理や定理とそれに準ずる理論のみをしっかりと教えて、各論の半分は止めてしまう。それらは、インターネットで必要に応じて、最新情報を容易に得ることが出来る。そして、ここに述べた、「日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がる」 ことを前提に、文化や歴史の科学的な見方等を通じて、自然科学と社会・人文科学との関連などを教える。技術者倫理の代わりに自然科学の根本としての哲学を教える。これらのことは、既に米国の一部の大学で始められている。
 このことは、古代ローマが自由市民の人格を高めるために用いたLiberal Arts教育に相当する。このLiberal Artsこそが、根本的エンジニアリングに基づく思考過程で最も重要なものなのだが、多くの工学生はこれを、一般教養として軽く見てしまう傾向にある。工学教育は、改善ではなくパラダイムシフトの時であろう。
自然科学者や設計技術者は、もっぱら言語脳を使って思考を深めてゆく。そして「音楽や絵画の様な芸術は、言語の場合よりももっと直接的に情動にはたらきかける、つまり脳の内側の領域に広くはたらきかけるようにつくられている」という訳である。つまり、「絵や音楽に対しては、脳の広い範囲が常にはたらく運命にあります。」 なのだ。
 「言語活動の場合よりも広い範囲の脳が常にはたらいています。別な言い方をすれば、絵画や音楽が実現し伝えるものは全体像です。全体像をつくるときは、部分が欠けても、人間の脳は欠落部分を補うことは得意なのです。残っている部分がある程度あれば、欠けた部分を想像で補って補完してしまうのです。」とある。
また、「言葉を普通にしゃべれると云う点では、誰もがほぼ同じです。ふつうは100人集まれば、みなほぼ100パーセントの能力を持ちます。ところが音楽や絵画では、とくに作曲・演奏や絵画制作の能力では、大きな格差があります。演奏や描画の能力には、前に述べた「からだで覚える」記憶能力がおおいに関与しているのでしょうか、音楽や絵の鑑賞能力にも、人によって質的な違いが大きいようです。」 と語られている。

さて、これらの「より広い範囲の脳が働いている」、「全体像をつくる」、「人によって質的な違いが大きい」などは、エンジニアリングをより根本的に捉えなおす際には、どれも重要な要素となるであろう。聊か持って回った言い方になってしまうのだが、メタエンジニアリング脳には、音楽や絵画の様な芸術脳が必要であり、その際にも日本人特有の左脳の効果が期待されるのではないだろうか。
いずれにせよ、近代工業文明の元になった西洋的なエンジニアリングの枠から出て、より広い意味でのメタエンジニアリングを扱う場合には、日本人の工学脳の特異性を活かすことが、将来の人類社会の文明をより良い方向に導けるのではないだろうか。




メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(11) 第9話 日本人の工学脳(その1)

2013年09月15日 13時06分54秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第9話 日本人の工学脳(その1)

私は、なぜ日本語のみが 多くの虫やほとんどの動物の鳴き声を言語で表すのかを不思議に思っていた。確かに、犬や猫の鳴き声ぐらいは外国語でも表現をする言葉があるが、ごく身近なものに限られている。リーンリーンとか、ガチャガチャなどの虫の音に至っては、この様な言語的な表現は日本人以外には全く理解が出来ないようだ。しかし、ある時突然に、この疑問を解いてくれる本に出会うことが出来た。そして、その本を読んでゆくうちに、この日本語特有の表現が、実は日本人(というよりは、日本語のみを日常的に使う人)の脳の特異性にあり、そのことが工学的な発想や考え方に大きく影響をしているとの学説を見出すことができ、おおいに驚くとともに奇妙な幸福感を味わうことが出来た。

 私の仮住まいの近くに、金田一晴彦記念図書館なるものがある。一般の市営(山梨県北杜市)図書館で最新の新聞や雑誌などを読むためによく利用をさせてもらっている。地方の図書館は都内と異なり、読書の雰囲気は最高である。貸出の条件である冊数や期間にも十分な余裕があるのだ。この図書館には、名前の通りに方言や言語学で有名な金田一氏の遺贈による多くの本が保管されている。全体で約3万冊と図書館の案内には書いてある。一部は一般の本と同じ書架に並べられているのだが、専門書の多くは奥にある広い別室のカギのかかった立派な本箱に収められている。嬉しいことに、司書の方に頼むとこれらの本もほぼすべて自由に借りることが出来る。


金田一晴彦記念図書館の入り口付近

 先日、この中から3冊を借りて読み始めた。表題に興味が湧いたためであり、特に目的があったわけではない。
① 「日本人の表現心理」芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会
③ 「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行

 この中の③が問題の書である。著者は、著名な東京医科歯科大学の耳鼻咽喉科の先生で、特に聴覚の研究を長年続けられているようだ。副題が面白く、「脳の働きと東西文化」とある。そして、巻頭のはしがきを読んだだけで、大いに興味をそそられて、一気に読み始めてしまった。はしがきの冒頭の部分にはこの様にある。



 「聴覚を使って脳の中の聴こえと言語の働きの中枢メカニズムを解明しようと志してから約十二年になる。私の専門領域である耳鼻咽喉科のうちから、聴覚の問題を広域に扱う日本オージオロジー学会と人間の音声や言語の臨床面を研究する日本音声言語医学会がそれぞれ独立して研究領域を拡大してきた。(中略)臨床医学の領域に限らず、日本生理学会、日本音響学会ではより精密な科学的手法を用いて動物や人間の言語情報の処理機構についての膨大な研究がある。
(中略)この論文集は言語差と文化の相違の問題にまで言及しているが、研究の出発点からこの問題を目指していたわけではなかった。いくつかの偶然のチャンスがあって、研究は始め予期しなかった方向に発展してしまったのである。」

昭和52年に書かれたこの本のはじめにの文章は、この後も長く続くが、ここまででいくつかのことが思い出されてきた。それは、そのプロセスがあまりにもメタエンジニアリング的に思えたからであった。
 専門的な論文の前に興味を引く対話からこの本は始まっている。にくい構成である。いきなり医学の専門論文を示されたのでは、歯が立たないであろう。対話の一説の表題は、「虫の音がわかる日本人」である。ここに全てが凝縮されているのだ。引用してみよう。

「餌取 秋に虫が鳴くのを意識して聞くと云うのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。
角田 ええ、中国人にさえ通じないようですよ。
餌取 そうしてみると右半球・左半球の分かれのお話は、日本人だけが特別なのですか・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれているのではないのですか。
角田 私が調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人たちーインドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人に見られるような型は示していないようです。
餌取 欧米と同じパターンですか。
角田 ええ、私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。
餌取 そうすると、日本人固有と云う訳でしょうか。
角田 そうですね。
餌取 どうして日本人だけ、そんな特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田 それはやはり、母音の扱い方の違いだと思います。」

 
ちなみに、ここに登場する餌取章男氏(1934~)は、日経サイエンス編集長、江戸川大学社会学部教授などを経て、現在、同大名誉教授である。

 この対話は、この後で日本語の特異性に触れてゆくのだが、この日本人の特徴は、驚いたことに日本語を日常語として話さなくなった日系二世、三世には全く当てはまらないそうなのだ。つまり、生まれながらの遺伝子の為ではなくて、日常的な話し言葉に特徴があるわけで、日本語の「あいうえお」とどの語にも必ずこれらの母音がきちんと付いていることによると、それぞれが単なる母音と云うだけではなく、それぞれに意味を持つ一つの言葉であることと云うことらしいのである。つまり「い」ならば、井、意、医、胃、衣などである。確かに、この様に母音そのもの自体が単体で意味のある言葉になってしまう言語感覚は、他の国でははっきりと認識をされてはいないのであろう。

左の脳が言語や論理をつかさどり、右の脳が感情や芸術をつかさどることは広く知られている。私は、かねてから技術者は左脳に頼らずに右脳を働かせて、独自の発想を磨くべきであり、特に設計技術者は、壁画を描く画伯の心境であるべきだと思っている。どうやら、この様な考え方も日本人特有、と云うよりは正確には、つね日頃日本語で会話をしている為のようなのである。
氏の色々な理論と実験結果を一旦飛ばすと、結論はこうである。
脳を、言語半球(左脳)と劣位半球(右脳)とその間を取り持つ脳梁に分ける。西欧人の言語半球は、ロゴス的脳と仮称されて言語・子音・計算をつかさどり、劣位半球はパトス的脳として、音楽・楽器音・母音・人の声・虫の音・動物の鳴き声などをつかさどる。
一方で日本人の脳だけは、言語半球がロゴスとパトスの両方はおろか、自然への認識までをもつかさどっている。劣位半球は西洋音楽・機械音などのみをつかさどる。つまり、日本人は左脳の負荷が西欧人に比べて圧倒的に過多なのである。
このことから推論を進めて氏は次の様に述べている。「日本では認識過程をロゴスとパトスに分けると云う考え方は、西欧文化に接するまでは遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばし義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の需要機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンでは感性を含めて自然全般を対象とした科学的態度が生まれようが、日本語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではないだろうか?明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ちにくい背景にはこの様な日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。」 とある。
つまり、日本人の心は、言語も虫の音も論理計算もいっしょくたになってしまうと云う訳なのだ。従って工学の様なものが、改めて「もの」を対象とすることなく、自然に心の中に入り込んでいると云うのである。人の話し声も虫の音も同じこととして脳が受け取ってしまうのが日本人の脳で、虫の音や動物の鳴き声を、一般の機械音や雑音として受け取ってしまうのが、西欧脳なのだ。
氏は、このことをいくつかの偶然から発見したと云う。一つは、ある晩虫の音を聞きながら論文を書こうとしたが、一向にはかどらずに、虫の音が気になって仕方がなかった。西欧人に聞いてみると、そのようなことは考えられないと云う。つまり、氏の脳にとってひっきりなしの虫の音は、他人が絶えず話しかけていることと同じ受け取り方をしてしまうと云う訳なのだ。同じ理由で、音楽や楽器に対する脳内機能のパターンも全く異なってくる。
日本人の母音の順番は、「あいうえお」であるが、西欧人は「i,e,a,o,u」である。この順番で舌の位置を確認すると、日本人の場合には、舌の運動が、順を追って前後反対方向に動かすのに対して、「i,e,a,o,u」では、舌が四辺形を廻るようになるので、個々の母音が独立せずに中間的な母音が多数出てきてしまうという特徴があるそうで、このために日本人の脳では母音が言語や計算を司る左脳で認識されると云う特徴が現れるとのことである。

いずれにせよ、われわれ日本人のエンジニアにとってはこのことをしっかりと認識をしておいた方が良さそうである。つまり、特段の意識なしにものに自然を取り入れたり、改良を進めたりをすることができる一方で、様々なパトス的な雑念が入り込んでしまう。一方で欧米脳の場合には、自然などのパトス的な雑念なしに、純粋に論理思考のみで工業的な作業を行うことが出来ると云う訳なのだ。
餌取氏との対話の続きでは、次のようなくだりがある。
「左脳ばかりを使って論理のみをいじくりまわしていると、どうしても模倣になってしまい勝ちで、やはり何か新しいものを生みだすのは右の脳も使ってやらないといけない。(中略)それには西洋音楽を聴くことですよ。邦楽では語りが中心だし、自然に密着していますから、やはり充分な効果は無い。全く異質という意味で、西洋楽器の音はよい刺激になります。」 日本人の技術者は、意識的に右脳を鍛えないと、模倣文化がはびこってしまうと云う訳であろう。
最終章の「おわりに」の項で、氏はこう述べられている。
「西洋文明の危機が叫ばれているが、それは西洋人の窓枠を通しては、新しい時代に即した想像が生まれ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国の中で、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の枠組みを持つのは、実は日本以外にはないのである。しかし、このことを日本と西洋の優劣というような価値観に結び付けて必要以上に劣等感に悩まされたり、逆に自信を持ちすぎることもない。必要なのはこの違いを如何に活かすかということである。」
以上の著作内容は、昭和50年代のことであり、かつやや独善的な判断が無いではないと思うが、最後の「この違いを如何に活かすかということである。」と云われているのは、日本人技術者の今後に大いに役立つ言葉だと思う。