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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(140)「シュライエルマハー」

2019年10月15日 07時42分42秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(140)
                                                            
TITLE: 「シュライエルマハー」
書籍名;「哲学の歴史7」 [2007]
著者;山脇直司  発行所;中央公論社
発行日;2007.7.10
初回作成日;D1.10.15 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節,「シュライエルマハーの言説」から引用を確認するために、その出所をあたることにした。この「哲学の歴史」という本は、中央公論新社の創業120周年記念として出版された13巻の全集の中の一冊になっている。第7巻は18-19世紀で加藤尚武氏の責任編集で、その中に、表記の項目がある。
 冒頭には「驚くべきアクチュアリティー」と題して、彼の広範な業績が語られている。文末の結論はこうである。
 
『宗教哲学、倫理学、対話的弁証法といった分野で、シュライエルマハーの業績は、現代哲学が失った多くのヴィジョンをわれわれに喚起させてくれる。以下では、そうした彼の哲学的業績に焦点を合わせることにしたい』(pp.589)

 具体論の最初は、「諸宗教の普遍性」として、宗教の本質を語ろうとしている。まさに「メタ宗教」になっている。
 
『宗教の本質は、「有限な個別者」の中に「無限の宇宙」を各自が直観し感じ味わう」ことによって成り立つ。「字宙を直観し感じる心」こそが、形而上学的思弁や道徳と区別された宗教のキー概念である。カントにとって、宗教はどこまでも道徳的な実践理性に従属するかたちでのみ語られたが、それでは、宗教の普遍性が矯小化されるとシュライエルマハーはみなす。』(pp.590)

 これは、日本の神道や仏教に通じることで、この時代の西欧人の主張としては興味深い。さらに続けて、

 『人間は、デカルトやカントが考えたように自然と対立する存在ではない。人間は、「無限の宇宙の一員」であり、
そのことの自覚こそが人間の自由な生命力を形成する。しかしまた、人間は所与の自然に安住する静的存在者でもない。宇宙はつねに活動しており、その一員としての人問は、外的自然のみならず、みずから自然本性を含めた宇宙を、さらに発展させるよう行為しなければならない。そのような行為によって、人間は宇宙の一員としての自己をますます自由な存在者と感じとれるようになる。』(pp.590)

 彼は、多くの個所でカントの説を根本的に否定している。巻末の年表によると、1804年にカントが80歳で死去した時、彼は37歳だった。まさに、批判するには格好の歳の差のように思える。

 宇宙を直観するとは、どういうことだろうか、彼は、「他者と分かち合う」ことを主張している。
 
『宇宙の社会性(公共性)は、ある特定の民族や宗教に限定されて語られるようなことがあってはならず、つねに人類というレベルで語られねばならならない。この人類レベルでの公共性は、画一的な宗教観を否定する。キリスト教を信じるシライエルマハー にとっても、宗教の画一化ほど忌まわしいものはなかった。彼は、「諸宗教に通底する普遍性」を宇宙を直観し感じる心に見出し、その相互承認というかたちでのみ、人類の調和は可能とみなす。また、宗教という名が用いられていても、そこに人間の自由や社会を基礎づける宇宙を直観し感じる心が欠けていれば、それ宗教の名に値せず、逆に無神論が標榜されていても、宇宙を直観し感じる心に達していれば、それは宗教的だと彼はみなすのである。』(pp.590-591)

 まさに、「現代哲学が失った多くのヴィジョンをわれわれに喚起させてくれる」を感じる部分だった。そして、個人と国家の関係へと話は広がってゆく。

 『個人の自己実現のためには、「他者への愛」という感受性が不可欠である。他者への愛という普遍性を兼備してこそ、個人の自己形成は本物となる。自己実現する「個の独立性・特殊性」と他者理解のための「愛という普遍性」の相互作用によって、入間は強く美しい生命力を得るのである。
個と他者のこのような関係は、社会関係一般にまで拡げられなければならない。そのさいに重要なのは、個の自由を阻害せずに促進するような社会関係を創り出すことである。とくに「国家」と「言語」のあり方は、人間関係を左右するがゆえに重要である。』(pp.592)

 この言葉は、彼の「翻訳論」を読んだ後なので、理解できる。
 次に、具体的なカント批判(カントだけではなく、同様に人と自然の二元論にもとづく諸説を主張する当時の哲学者の多くを敵に回している。
 
『カントに対してシュライエルマハーは、力ントが理性の構築体系を少なからず語っているにもかかわらず、彼が「自然と道徳の二元論」から出発しているため、すべてに知を統合するような学問体系を提示できなかったと批判する。論理学、自然学、倫理学というストア学派的な三分法を踏襲するかたちでカントが行ったのは、諸学間の分類であり、統合ではなかった。』(pp.594)
 
 さらに続けて、『世界を初めから自然界と道徳界に、また人間を認識主体と実践主体にそれぞれ二分し、そのうえで後から双方の結節点を探るというカントの方法は、承服しがたいものであった。世界とその認識主体たる人間は、根本的に分割不可能であり、学問体系もそうした分割不可能な世界観と人間観に立脚したものでなければならない。』(pp.594)

 そして、教育論と国家論、およびそのあるべき関係についての論議が始まる。
 
『シュライエルマハーは哲学を根幹に置き、自然学と倫理学を二大部門とし、教育学や国家学を倫理学の各論として歴史的諸学問とするヴィジョンを提示する。』(pp.597)

 ここでいう「倫理学」とは、人間社会全体のことであり、エッケルトの「文化科学」と同じ内容と思う。
 当時のヨーロッパはナポレオンによって支配されており、大学と教育はまさに、明治維新の日本と同様な国家中心の実学であった。そこに彼は、真っ向から反論した。1808年「ドイツ的意味における大学に関する書簡」がそれであった。

『 実用教育と峻別された学問研究の場たる大学は、人が何らかの専門研究機関で本格的な研究を始める前に、その専門研究が他の学問領域とどのような関係にあるかを認識し、それを素人にも説明する能カを養う場と位置付けられる。従来のヨーロッパの大学は、法学、医学、神学を中心に編成されてきた。しかしそれらの学問は、そもそも国家の庇護のもとに営まれてきた学間であり、知の諸連関と包括的な体系を認識する学問とはなりえない。 それに対し、国家から独立して発達した歴史的諸学問や自然的諸学間を統合し包括するような哲学こそ、大学での中心的役割を演じるにふさわしい学問である。』(pp.599-600)
 
佐藤 優氏が引用したのは、この文章の前に置かれた11行の部分なのだが、そこは「学問と国家の癒着」についての記述であり、割愛した。

 そして、哲学の在り方についても明言している。
 
『シュライエルマハーによれば、「諸学問を媒介する学問」としての哲学は、専門的諸学間とともに学ばれて初めて意義をもつ。したがって大学の教師は、哲学を純粋思弁としてではなく、個々の専門科目と連関させて教えるよう要求される。そのさい、教師は、つねに新鮮な対話能力をもって学生に働きかけなければならない。講義は、学生への一方通行だったり、毎年同じ内容の繰り返しであってはならず、学生からの質問にも触発されて年々豊かになっていかなければならない。』(pp.600)

 この教育法がまさに、メタエンジニアリングの基礎のように、私には思える。また、日本ではカントの研究のみが盛んで、シュライエルマハーの名前さえ聞くことがないことは、大いに嘆かわしい。もし、逆であったならば、現代日本は西欧的な人間独尊ではなく、むかしからの自然崇拝の歴史が受け継がれていたように思われる。


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