その場考学との徘徊(66)
題名;二つの五稜郭(その1 函館)
場所;函館 月日;2021.X.X
テーマ;二つの五稜郭 作成日;2021.8.20
日本国内に五稜郭が二つあることは、あまり知られていないようだ。私は、期せずして短期間に二か所を巡ることになった。
二か所のうちの第一は、明治維新の戦争で有名な函館の五稜郭で、そこには、三内丸山と新たにできたウポポイの遺跡巡りのちょうど中間点で、旅のついでに拠ることになった。二か所目は、長野県の佐久で、そこは佐久美術館を訪れる途中で、偶然発見したのだった。なぜ、こんなに離れた場所なのか。この二か所の歴史を比較してみたいと思った。
私の空の旅はもっぱらJALだ。1980年代にV2500という150席クラスの旅客機用エンジンを英米独伊と五か国共同開発を始めた初期に、大本命のANAがライバル機種を選定してから、ANAは避けることにしている。もっとも、その時代には、JALでも日英間のサービスは、週に何便かで、多くはBAやルフトハンザのお世話になった。日米は、UNITEDが多く、無料航空券で何度か海外旅行を楽しんだ。1990年頃からか、日本でも無料航空券が許されて、退職後は、年2回の夫婦での国内旅行を楽しんでいる。
今回は、往路は青森へ、帰路は千歳からだった。どちらも約半年前に予約したのだが、直前に便数削減のために、出発便や座席が変更になった。
某月某日の羽田発青森行きは、当初は9:55発で、のんびり出発のつもりだったが、7:50発に変更された。おかげで朝は少し忙しかった。空港のラウンジから見ると、遠くの滑走路脇は駐機の大群だった。
丁度、梅雨時で途中は雲の上だったが、青森付近は晴れていた。眼下には、緑の田んぼと畑が広がっていた。温暖化で、この辺りでも良質米が収穫できるようになったのでは、などと思ってしまう。
青森での寄り道の理由は三つで、開場間もない1999年に訪れた三内丸山遺跡が、ユネスコ遺産登録を控えて、どれほどの変化したか、学生時代に、旅行と学会で何度かお世話になった青函連絡船の八甲田丸(当時は最新鋭船だった)の現在の姿を見ること,大学一年生の夏休みに見た竜飛岬の青函トンネルの試掘りが完成して新幹線でくぐってみることの三つだ。 この寄り道の話は、別途するとして、今回は、三内丸山の博物館内のランチ「発掘プレート」と、八甲田丸の客席の写真の紹介にとどめる。
この縄文プレートは、中々食べ応えがあった。
新幹線での青函トンネル通過は、残念な結果だった。トンネル前の津軽半島内の景色と、北海道の函館までの景色は、ほとんどが防音壁にさえぎられて、何も見ることができなかった。列車内の掲示板も、トンネル通過を知らせるだけで、歴史などについては、何の説明も無かった。
乗車駅の新青森は、駅前には何もなし、子供たちが練習用に作ったネブタが飾ってあった
随分と回り道をしてしまったが、本題の五稜郭に移る。場所は、函館駅からかなり北に離れており、市電やバス停からも随分と歩かされる。しかし、良いバス便を観光案内所が教えてくれた、駅前発空港行きの特急バスだ。何故か、五稜郭タワー前の一か所だけ停まる。運よく、それに乗ることができた。五稜郭へ直接に行くよりは、先ずは、高い所から周辺を知っておいたた方が良い。それを知るにも好都合だった。
タワーの周辺には、昼食をとれる店がいくつかあるが、タワー内の四季海鮮の店がお勧めだ。静かな環境での食事を楽しむことができる。
五稜郭は、タワーからは容易に行けるのだが、立派な石垣以外には、これといった見どころは無かった。やはり、その歴史を読むほうが面白い。
幕府軍が、いかにしてこの地に到達したか。政府軍が、どのようにそこを攻略したか。タワー内の「五稜郭歴史回廊」で、十分に楽しむことができる。
堀の中の水草も、何故か五角形だった
五稜郭の歴史は明確になっている。箱館開港時に函館山の麓に置かれていた箱館奉行所の移転先として築造され、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。わざわざ港から遠く離れた地に箱館奉行所を移転したのは、第1に,艦船からの砲撃を避けること、第2には函館山から覗き見られることを嫌ったためとある。
特異な設計については、1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際に、箱館奉行所の武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取り、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行ったとある。彼の記念像が五稜郭内にあった。ちなみに、もう一つの佐久の五稜郭は、その9年後に設計されている。
題名;二つの五稜郭(その1 函館)
場所;函館 月日;2021.X.X
テーマ;二つの五稜郭 作成日;2021.8.20
日本国内に五稜郭が二つあることは、あまり知られていないようだ。私は、期せずして短期間に二か所を巡ることになった。
二か所のうちの第一は、明治維新の戦争で有名な函館の五稜郭で、そこには、三内丸山と新たにできたウポポイの遺跡巡りのちょうど中間点で、旅のついでに拠ることになった。二か所目は、長野県の佐久で、そこは佐久美術館を訪れる途中で、偶然発見したのだった。なぜ、こんなに離れた場所なのか。この二か所の歴史を比較してみたいと思った。
私の空の旅はもっぱらJALだ。1980年代にV2500という150席クラスの旅客機用エンジンを英米独伊と五か国共同開発を始めた初期に、大本命のANAがライバル機種を選定してから、ANAは避けることにしている。もっとも、その時代には、JALでも日英間のサービスは、週に何便かで、多くはBAやルフトハンザのお世話になった。日米は、UNITEDが多く、無料航空券で何度か海外旅行を楽しんだ。1990年頃からか、日本でも無料航空券が許されて、退職後は、年2回の夫婦での国内旅行を楽しんでいる。
今回は、往路は青森へ、帰路は千歳からだった。どちらも約半年前に予約したのだが、直前に便数削減のために、出発便や座席が変更になった。
某月某日の羽田発青森行きは、当初は9:55発で、のんびり出発のつもりだったが、7:50発に変更された。おかげで朝は少し忙しかった。空港のラウンジから見ると、遠くの滑走路脇は駐機の大群だった。
丁度、梅雨時で途中は雲の上だったが、青森付近は晴れていた。眼下には、緑の田んぼと畑が広がっていた。温暖化で、この辺りでも良質米が収穫できるようになったのでは、などと思ってしまう。
青森での寄り道の理由は三つで、開場間もない1999年に訪れた三内丸山遺跡が、ユネスコ遺産登録を控えて、どれほどの変化したか、学生時代に、旅行と学会で何度かお世話になった青函連絡船の八甲田丸(当時は最新鋭船だった)の現在の姿を見ること,大学一年生の夏休みに見た竜飛岬の青函トンネルの試掘りが完成して新幹線でくぐってみることの三つだ。 この寄り道の話は、別途するとして、今回は、三内丸山の博物館内のランチ「発掘プレート」と、八甲田丸の客席の写真の紹介にとどめる。
この縄文プレートは、中々食べ応えがあった。
新幹線での青函トンネル通過は、残念な結果だった。トンネル前の津軽半島内の景色と、北海道の函館までの景色は、ほとんどが防音壁にさえぎられて、何も見ることができなかった。列車内の掲示板も、トンネル通過を知らせるだけで、歴史などについては、何の説明も無かった。
乗車駅の新青森は、駅前には何もなし、子供たちが練習用に作ったネブタが飾ってあった
随分と回り道をしてしまったが、本題の五稜郭に移る。場所は、函館駅からかなり北に離れており、市電やバス停からも随分と歩かされる。しかし、良いバス便を観光案内所が教えてくれた、駅前発空港行きの特急バスだ。何故か、五稜郭タワー前の一か所だけ停まる。運よく、それに乗ることができた。五稜郭へ直接に行くよりは、先ずは、高い所から周辺を知っておいたた方が良い。それを知るにも好都合だった。
タワーの周辺には、昼食をとれる店がいくつかあるが、タワー内の四季海鮮の店がお勧めだ。静かな環境での食事を楽しむことができる。
五稜郭は、タワーからは容易に行けるのだが、立派な石垣以外には、これといった見どころは無かった。やはり、その歴史を読むほうが面白い。
幕府軍が、いかにしてこの地に到達したか。政府軍が、どのようにそこを攻略したか。タワー内の「五稜郭歴史回廊」で、十分に楽しむことができる。
堀の中の水草も、何故か五角形だった
五稜郭の歴史は明確になっている。箱館開港時に函館山の麓に置かれていた箱館奉行所の移転先として築造され、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。わざわざ港から遠く離れた地に箱館奉行所を移転したのは、第1に,艦船からの砲撃を避けること、第2には函館山から覗き見られることを嫌ったためとある。
特異な設計については、1855年(安政2年)7月にフランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際に、箱館奉行所の武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取り、この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の設計を行ったとある。彼の記念像が五稜郭内にあった。ちなみに、もう一つの佐久の五稜郭は、その9年後に設計されている。
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