生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(107) 「シュメール」

2019年02月08日 08時50分14秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(107)  TITLE:  「シュメール」  
               
書籍名;「シュメール」 [1976] 
著者;H.ウーリッヒ 発行所;アリアドネ企画
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

この書の副題は、「人類最古の文明の源流を辿る」とあり、人類の近代文明の始まりの書として選んだ。内容は、「古代メソポタミアの鳥観図、シュメール前史に遡って」から始まり、「失われた帝国の永遠の遺産」まで、18項目に分かれている。中央の3章は、こんな具合だ。
 
『4.人類が書くことを覚えたとき― 史上最古の文書を読む/絵文字から楔形文字へ/光陰矢の如し/「人生」を「矢」にたとえたシュメール人/ニップール の文書庫― 最古の詩人を訪ねて
5.検証・・「ノアの洪水」―「ノアの方舟」発見/大洪水の痕跡
6.シュメールの聖塔 ― バベルの塔とその原型/砂の都市/洪水から身を守る聖塔/神々の棲まう聖塔
』(pp.4)

 シュメールの諸都市は、ティグリス、ユーフラテスの川沿いに有名なウルやウルクなど24都市が示されている。どれもかなりの規模だった。これだけでも、ナイルや黄河文明とはだいぶ異なる。そもそもの始まりについては、このように書かれている。
 
『この地域の北部と東部の互いに離れ離れの場所で、製陶業はすでにこの時代には―つの伝統を形成していた。その離れ離れの場所とは、葦と粘土でできた家があるペルシアの塩砂漠の西端に位置するテペ・シアク、ユーフラテス河の支流シャブール川畔のテル・ハラフおよびティグリス中流のサマッラの三箇所である。 これらの集落では、豊饒をもたらすものとして地母神像が崇拝されていた。それらは様々な材質によって、また色々な形に作られていた。北メソポタミアのテペ・ガウラや南のエリドウで、こうした女神を崇拝するための粘土製の小さな神殿が見られる。
定住生活をするようになったからといって、人々の創作意欲が失われるということはなかった。彼らの多くは移動しながらも、時には職人に、そしてまた時には神官となって、自分たちの 技術や信仰を広めさえしてきたのである。このように東方からの移住者は、昔からの定住者と接触していた。後に都市が形成されるウルの近くにある最古の集落アル・ウバイドやその周辺地域で、彼らは定住民の生活様式を学ぶと同時に、逆に自らの知識の多くを伝えたりした。移動生活の中では、とてもそんな余裕はなかったことだろう。ここに至るまでの道程は険しく、はるか遠く、人々は生き残ることで精いっぱいだったはずだからだから。』(pp.22)

 つまり、遊牧民の文化と農耕民の文化が合体し、商業まで生まれる基盤ができたことになる。そして、文明の始まりについては、こうである。

『シュメール、それは「文明の地」
ところがここへきて、それまで溜めに溜めたこの民族の力が、一挙に吹き出したようである。 紀元前三〇〇〇年紀への変わり目頃、この地方の風景は考えられないほどの速度で変わっていった。それまでウバイド人が部分的にしか成し得なかったことが、今や大々的に進行するようになったのである。砂、水、葦から成る荒野が、文明の地へと相貌を変えていった。楽園は栄えた。ウバイド人のもとでは村には小規模の濯概設備や畑地しか存在しなかったが、必要に迫られ大規模なものへと短期間に姿を変えていった。定住によって人口が増大すると、それだけ多くの食糧を生産する必要が生じたのである。
早くも新来の移住民は、その土地を組織的に開発し始めた。土地を造成するため彼らは流域の広大な土地に杭を打って測量を行った。広範囲にわたり土地はなお水面下にあったため、大規模な干拓を行った。干拓で余った水は貯めておき、いつでも必要な場所へ流れていくようにした。 このようにして、次第に混沌から秩序会が生まれていった。荒地が肥沃な耕地になった。』(pp.23)

 このような急激な変化はどうして可能だったのだろうか、近代的な文明の初期についての記述は、このようにある。(別の著書では、このような古代人類文明の急激な変化が、ある周期で繰り返されていたと記していることは、興味深い)

『彼らは農耕の必要に応じて土地を灌漑したり、排水したりした。そして絶えず新しい運河を引き、船を建造し、家屋や神殿を建てた。常に危険に曝されていたため、超人的な存在による庇護を求める気持ちがこの時生まれたのである。
家々の並びは人口密度の高い集落へと発展していった。いざ洪水がきて堤防が決壊したり、逆に畑への濯概が途絶えたりした場合、人々はただちに手を携えて仕事にとりかかれる態勢になければならなかったからである。超自然的な圧力の下で、生き残ることへの強い願望から生まれたこのような集落を、労働共同体と呼ぶことができよう。それが明確な形をとったのが、南メソポ タミアの各地から発展して、その地の構造を変えていった公共団体、つまり都市である。そこでは共通の任務によって結び合わされた人々が、共同生活をしていた。』(pp.24) 
もうこれは、現代と変わらない文明だ。

シュメールの特徴の一つは、膨大な文書、すなわち文字による記述にある。

『部分的にはなお十分に解読されていないとはいえ、人間が用いた文字の中では最も古いと見做されるものが、南メソポタミアのウルクで発見された粘土板の上に書かれた形象である。新聞は一時期「シュメールの研究に転機」とか、「最古の文書、発見さる」とか、「石の力」あるいは、今度はペルシア南東部に「最古の文字発見さる」といった風に報じてきたものである。』(pp.44)

それは、絵文字から楔形文字への変遷の過程がある。

『絵文字から楔形文字へ移行する際に決定的な力を発揮したのは、おそらく記号言語が発明されて間もなく、ウルクのすべての神殿と後には他の都市の神殿地域で祭司君主を助ける役目を持つようになった、数多くの書記達であった。彼らは絵文字をより速くより良い状態で粘土板に刻すために、元来直立していたものを九〇度左へ転回させた。その結果、それらの絵文字はすべて仰向けに横たわることとなった。それにもかかわらず、円形部分や四方八方に伸ひている線を粘土板の上に刻印することは、容易なことではなかった。
一枚の板の上に記すべき分量が多い場合には、ことさら難しかった。そこで勢い、粘土板の大きさも大きくなった。 貯蔵庫内で一日中続けられることになった。』(pp.48)

更に、その文字は時代とともに急速に進化していた。

『楔形文字の発展に伴い、符号の数は減っていった。楔形は次第により精選された文字体系に適合していくようになると同時に、その多義性は失われ、表音文字ともなった。
絵文字は言語との結び付きなしに成立した。誰でも絵文字はすぐに、言語とは無関係に理解することができた。紀元前二八〇〇年頃、単なる符号であった絵が、意味のある音節を持つ単語になり始めるに及んで、文字は今日の意味で、「読むことのできるもの」 になった。かくして抽象概念や動詞、接続詞などを表す記号も生まれた。そして元来の絵の羅列かり真の文章文字が生まれた。』(pp.49)
この文字の進化も、かなり急速で謎めいている。まるで、急激に発達した文明と商業文化を、世界各地の民族にも伝えてゆきたいという意志の表れとも感じられる。

そして、有名な「ギルガメシュ神話」を残した。

『シュメール時代のギルガメシュの物語のいくつかは、ヘラクレスの物語を先取りしたものと言えよう。したがってギリシアのヘラクレス伝説は、ここにその起源があると推測することも可能なのだ。
最も古いギルガメシュ物語には、二つの主な傾向が窺える。その第―は、荒々しい空想上の動物の姿をした強力な敵との闘いであり、第二は死との闘いである。力の誇示と不死の二つが、このシュメールの英雄が抱いていた大きな願望であったようだ。そしてこの時すべての対立は、唯―つの敵の存在に向けられていた。この英雄は一人ですべてを決定するのだ。他の者は彼の行為を助ける従順な臣下としての役割を担っているに過ぎない。』(pp.129)

この神話は、ギリシャだけでなく、日本のスサノウの尊神話とも共通している。
ギルガメシュは、三分の二は神であり、三分の一が人間と記されている。具体的な訳はこのように示されている。

『ハルトムート・シュメーケルがアッシリア版から独訳した叙事詩の前口上では、ギルガメシュは人間の中にあって神性を持った存在として登場している。
「その全能の存在は地の果てまでも見渡した、 すべてのことを見分けることができ、すべてを知っていた、 隠れているものはただちにその正体を暴いた、 あらゆる知恵と経験を持ち、 秘密を見、隠れたるものを発見した、洪水が起こることに警告を発した。 はるかな道のりを疲れ果てるまで進んだ。』(pp.130)

 最近は、日本の神話もギリシャ神話も、実際にあった話が、何らかの力に拠り脚色されて伝わったもので、特に大きな事件については、実際に超古代にあったとの説が有力になりつつある。ノアの箱舟や洪水伝説が、全くの空想ではなかったとの説の初期の著作だと感じる。
 また、「三分の二は神であり、三分の一が人間」という表現は、ダーウインの進化論から離れて、現代人の祖先が直立歩行のサルの進化した姿とは、一線を隔している。そこに最大の興味が生じてくる。