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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

新潟県上越市、今泉城跡です!!

2018-07-03 12:29:17 | 遺跡・史跡
今泉地区は、上越市役所の南約7kmのところ

JR北陸新幹線じょうえゆみょうこう駅の北東側です

県道579号線の東側に大和神社が鎮座します

神社の周りには駐車場が無いので

新幹線駅前の有料駐車場を利用しました

大和神社から願清寺までの間が

今泉城跡だそうです


大和神社の参道を入ると

説明版が有ります
 今泉城跡
  今泉城の中心部は現在の
 大和神社周辺と見られてい
 ます。願清寺裏から大和神
 社境内南側に土塁遺構の部
 分が残り、これに沿って堀
 の跡があったと伝えられて
 います。
  今泉周辺は今泉郷と呼ば
 れ、南北朝時代に南朝方の
 村上義信・隆義父子が居城
 を構えていました。その後
 、上杉謙信の跡目を争った
 「御館の乱」に敗れた上杉
 影虎が、御館から鮫ヶ尾城
 へ逃れる途中に今泉城に立
 ち寄っています。
  なお、神社境内には南北
 朝から戦国時代にかけての
 石仏があります。また、周
 辺の字名に、立(館)の内
 ・立の腰・馬場前・堀の西
 ・乙館など館の存在を意味
 する地名が残っています。
  平成3年  上越市
 




境内南側には土塁が残っています

南側の道路を東から見ました

同じ道路を西側から

大和神社の大ケヤキの根元は西側の土塁の上でした

説明版です
 大和神社と今泉城跡
 


では、北東側へ移動しましょう


東向きの山門です

親鸞聖人像です

鐘楼です

本堂も東向です

北側の寺の敷地です、本堂脇と墓地との間に段差が見られます

説明版に有った寺裏の高地でしょうか

では、次へ行きましょう
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新潟県上越市、今泉大和神社の大欅です!!

2018-07-03 06:44:09 | 巨樹・大木
今泉地区は、上越市役所の南約7kmのところ

JR北陸新幹線じょうえゆみょうこう駅の北東側です

県道579号線の東側に大和神社が鎮座します

神社の周りには駐車場が無いので

新幹線駅前の有料駐車場を利用しました


県道西側に北陸新幹線上越妙高駅が有ります



東向きの参道入口ですので県道を渡って東側へ回り込みました

大和神社の立派な石碑です

参道の太鼓橋で用水路をわたります

社殿前の鳥居です

説明版です
 今泉城と大和神社
  今泉城は今から650年程前
 建武年間の頃、後醍醐天皇の命
 により此地の地頭職であった、
 村上義信一族の居館であったと
 言われている。
  その当時の城は、自然を利用
 して造られ、願清寺裏の高地や
 矢代川が自然に流れて出来た段
 丘を利用して造られた平城であ
 った。その後、時代の変る毎に
 城主も変ったことと思われるが
 明らかでない。
  現在は、城址の一角と思われ
 る大和神社横の高台や神社境内
 の土手は当時の土塁で、これを
 取り巻く堀の跡も見える、土塁
 上の大欅も当時のものと思われ
 る。
  大和神社は幾百年前、今泉の
 人々は城址に稲荷社を祀って氏
 神様としていたこの地に、明治
 40年に大和村各字の氏神様を
 合社して大和神社を創立し、村
 社に昇格したこともあった、意
 義深き神社である。
  平成3年10月8日
      大和神社

手水舎です

神楽殿です

拝殿です


本殿です

本殿南側に目的のケヤキが在ります、縦に大きな傷が走っています

目通り幹回り5,6mの巨木です


境内を出て南西側から見ました綺麗ですね

大和神社裏参道(西側)入口です

次は今泉城跡です
コメント (1)
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新潟県上越市、南本町最賢寺のイチョウです!!

2018-07-02 16:55:47 | 巨樹・大木
南本町は、上越市役所の南5kmのところ

高田城址公園の南西側です

県道198号線の北側に最賢寺が有ります

寺の西側に墓地を挟んで駐車スペースが有ります



前の道路沿いに案内板です

境内入口です

本堂前に目的のイチョウがあります

本堂です

説明版です
 大谷大学名誉教授
  金子大榮生家
 明治14年(1881)、当最賢寺住職
勇榮の長男として生まれる。少年期はこの
地で過ごし、中学4年の時に高田を離れて
真言宗京都中学に編入学した。
 明治37年(1904)真宗大学を卒業
その後高田へ戻り布教と郷土の子弟の教育
に専念していたが、著書「真宗の教義及其
歴史」が世に認められ、大谷大学教授に迎
えられた。この間、宗教誌「精神界」「見
眞」「佛座」の刊行などにかかわり、仏教
界の発展に心血を注いだ。
 昭和3年(1928)教義の解釈上の問
題から大谷大学を去るが、昭和17年(1
942)再び同大学教授に復帰し、昭和2
4年まで教鞭をとった。以後も、思索と執
筆を続け「金子大榮選集」ほか、数多くの
著書を残した。
 仏教哲学一途に燃焼した生涯は、仏教界
はもとより、日本哲学の道においても高く
評価されている。
 昭和51年(1976)没、享年95才
  平成5年11月 高田文化協会


東がわから

本堂前から見上げました

北西側道路から

では、次へ行きましょう
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新潟県上越市、五智国分寺です!!

2018-07-02 05:33:43 | 文化財・寺社
五智地区は、上越市役所の北北西約4kmのところ

JR北陸本線と県道468号線の間に五智国分寺が有ります

参道入口脇に参拝者用駐車場が有りますので利用させて頂きました




五知国分寺からの遊歩道案内板です

参道入口です

大きな石碑が建ちます、回欺妙因 施乃一切 信毀見聞 共會實道と梵字です

山門の仁王門です

仁王様です

芭蕉句碑です
 



塔が見えて来ます

三重塔です

説明版です
  五智国分寺三重塔
 国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)
1国1寺の建立を命じたのがはじまりです。
 当時の越後国分寺の所在については諸説があ
り、現在まで位置はわかっていません。
 現在の国分寺は、永禄5年(1562)7月
廃寺のようになっていたものを、上杉謙信が再
興したものです。
 しかし、その後何回か火災にあって焼失し、
三重塔を現在の姿に建て直したのは安政3年(
1856)です。宮大工曽武川常右衛門、江崎
の長三郎のてにより、およそ20年かかってい
ます。壁面は高田の住人石倉(後藤)正義銘の
十二支と二十四支考の中から選んだ十二考の彫
刻がはめこまれています。
高さ25,85m間口4,8m奥行き4,8m
新潟県指定文化財 昭和51年3月31日指定




本堂です

親鸞聖人像です

北側の出入り口です

ケヤキの太い根がコンクリとの擁壁を壊していました


境内西側の道路沿いの道標です

説明版です
「五智如来」の道標と五智国分寺
 五智国分寺は永禄5(1562)年、上杉
謙信にによって現在の地に再興されたときは
東向きに建てられていました。寛正6(17
96)年に本堂が焼失すると、再建にあたっ
て、加賀街道(北陸道)を参勤交代で通る加
賀藩、前田のお殿様に五智如来を礼拝してい
ただくため、現在のように南向きに替えられ
たと伝えられています。加賀街道は、参道入
口の前に立つと左手の窪地に伸びる細い道で
す。
 この「五智如来」の道標は文化14(18
17)年に建てられました。いろいろな説は
ありますが、そのときは国分寺参道入口にあ
って「左かが道 五ち」と旅人の案内をして
いました。
 明治19(1886)年に直江津の駅前通
りから「新道」が通るとき、道標の前の道も
開かれたため、その役目を終え現在の位置に
移されたものと思われています。
 このように私たちは、道端の何気ないもの
からも地域の歴史を知ることができるのです。
 平成27年9月9日
  五智地域青少年を育てる会


では、次へ行きましょう
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