篠ノ井御幣川地区は、長野市役所の南南西約10kmのところ
JR篠ノ井線しののい駅の南南東側に旧北国街道と県道70号線・県道387号線の交わる御幣川五差路信号が有ります
信号の北西側に幣川神社が南向き参道で鎮座します、幣川神社の石塔は南東にずれた信号の脇に建っています
鳥居の南側、県道70号線に面して駐車スペースが有ります
御幣川五差路信号です
信号の北西側に、神社の参道が出ています
参道入口の社は「歯瘡医殿」です
説明版です
歯瘡医殿(俗称はくさん)の由来
徳川11代将軍家斉の天昭、寛政の時代、御幣川の小市家に信心奇篤の人がいた。諸病の苦しみを行力によっていやしてくれた。行者は歯瘡(現在の歯槽膿漏)がひどく、ほかの人にこの悩みをさせたくない警願をたて幾日も艱難苦行の行をし行人塚で生まれながら入定した。小市家では居宅の土地へ石祠を建て「はくさんさん」として勧請した。
これを賛仰する村人は寛政9年に、小林元右衛門、宮入兵右衛門が願主となって「諸方一万講」を作り,社殿や夜灯を奉献し、毎年9月1日に祭事を行った。
昭和30年代まで、多くの参詣があり、歯瘡に悩む人は「はくさんさんにお願いし全快すればタバコひとひねり」をお礼にあげた。現在の社殿は平成の始めに改築され、入母屋造り妻入り瓦葺きで間口一間半、奥行二間で拝殿の奥に石祠がある。全国的にも珍しい歯の神様である。修行した場所は行の橋、行人塚として今も残っている。
平成17年9月吉日
制作者 小市紀雄
参道を進みましょう
鳥居です
参道は住宅の間を進みます、正面に拝殿です
水盤です
本殿覆い屋です
由緒説明の石碑です
幣川神社の由緒
当御幣川区鎮座の産土神は、慶長年間(1596~1614)田用水の溝壁を開削中に、甲越戦争の名将の兜標に用いたと思われる高さ5~6寸の黄金の御幣を堀出す。彫文に八幡宮の三字を刻む。この頃民家僅かに二十数戸に過ぎず村名未だ定まらず。又、産土神を祀るの礼典なし、偶々その金幣を得るを以って称し、村名を御幣川と定めたと口碑に伝える。
祭神には誉田別命(ホンダワケノミコト)祀る、弘化2年(1845)嘉永元年(1848)にかけ拝殿及び御社殿を再建する。武水別神社建設の名工立川和四郎の指導によるものと伝えられる総工費316両の借入金及び一年割の利息の返済には大変苦労したという古老の言によると、現在のごとき近郷に誇りうる名彫刻の荘厳なる神社を作るため、百余戸の区民は私財をなげうち食を二食とし、家の中は障子や畳が破損し、軒に筵をさげて3年間を暮らしたという。
明治11年幣川神社と社号を改める。この後も氏子の崇敬者の寄進により何回かの改修を行い今日に至る。思うに御幣川区の今日の発展は、先人たちの苦労と努力の賜でありよろしく後世に伝え護持を願うものである。
平成6年(1994)9月吉日
幣川神社改修にあたって
(境内に来られていた男性に声を掛けられました、碑面の文が分から井にくいと言われていました、立川和四郎の名前は諏訪地方の神社建築で多く見られる名前ですね)
拝殿の見事な彫刻が見られます
拝殿の左手に目的のケヤキです
拝殿前から
南側から、主幹は全て切られてしまっています
北側から、目通り幹囲6.8mの巨木です
石塔が並びます
ケヤキの後には、正一位佃稲荷大神と養蚕大神です
境内社は天神宮と春日社です
戸隠社と金比羅社です
社宮司社です
本殿の東側の境内社です、右端は秋葉神社の名前が分かります
では、次へ行きましょう
JR篠ノ井線しののい駅の南南東側に旧北国街道と県道70号線・県道387号線の交わる御幣川五差路信号が有ります
信号の北西側に幣川神社が南向き参道で鎮座します、幣川神社の石塔は南東にずれた信号の脇に建っています
鳥居の南側、県道70号線に面して駐車スペースが有ります
御幣川五差路信号です
信号の北西側に、神社の参道が出ています
参道入口の社は「歯瘡医殿」です
説明版です
歯瘡医殿(俗称はくさん)の由来
徳川11代将軍家斉の天昭、寛政の時代、御幣川の小市家に信心奇篤の人がいた。諸病の苦しみを行力によっていやしてくれた。行者は歯瘡(現在の歯槽膿漏)がひどく、ほかの人にこの悩みをさせたくない警願をたて幾日も艱難苦行の行をし行人塚で生まれながら入定した。小市家では居宅の土地へ石祠を建て「はくさんさん」として勧請した。
これを賛仰する村人は寛政9年に、小林元右衛門、宮入兵右衛門が願主となって「諸方一万講」を作り,社殿や夜灯を奉献し、毎年9月1日に祭事を行った。
昭和30年代まで、多くの参詣があり、歯瘡に悩む人は「はくさんさんにお願いし全快すればタバコひとひねり」をお礼にあげた。現在の社殿は平成の始めに改築され、入母屋造り妻入り瓦葺きで間口一間半、奥行二間で拝殿の奥に石祠がある。全国的にも珍しい歯の神様である。修行した場所は行の橋、行人塚として今も残っている。
平成17年9月吉日
制作者 小市紀雄
参道を進みましょう
鳥居です
参道は住宅の間を進みます、正面に拝殿です
水盤です
本殿覆い屋です
由緒説明の石碑です
幣川神社の由緒
当御幣川区鎮座の産土神は、慶長年間(1596~1614)田用水の溝壁を開削中に、甲越戦争の名将の兜標に用いたと思われる高さ5~6寸の黄金の御幣を堀出す。彫文に八幡宮の三字を刻む。この頃民家僅かに二十数戸に過ぎず村名未だ定まらず。又、産土神を祀るの礼典なし、偶々その金幣を得るを以って称し、村名を御幣川と定めたと口碑に伝える。
祭神には誉田別命(ホンダワケノミコト)祀る、弘化2年(1845)嘉永元年(1848)にかけ拝殿及び御社殿を再建する。武水別神社建設の名工立川和四郎の指導によるものと伝えられる総工費316両の借入金及び一年割の利息の返済には大変苦労したという古老の言によると、現在のごとき近郷に誇りうる名彫刻の荘厳なる神社を作るため、百余戸の区民は私財をなげうち食を二食とし、家の中は障子や畳が破損し、軒に筵をさげて3年間を暮らしたという。
明治11年幣川神社と社号を改める。この後も氏子の崇敬者の寄進により何回かの改修を行い今日に至る。思うに御幣川区の今日の発展は、先人たちの苦労と努力の賜でありよろしく後世に伝え護持を願うものである。
平成6年(1994)9月吉日
幣川神社改修にあたって
(境内に来られていた男性に声を掛けられました、碑面の文が分から井にくいと言われていました、立川和四郎の名前は諏訪地方の神社建築で多く見られる名前ですね)
拝殿の見事な彫刻が見られます
拝殿の左手に目的のケヤキです
拝殿前から
南側から、主幹は全て切られてしまっています
北側から、目通り幹囲6.8mの巨木です
石塔が並びます
ケヤキの後には、正一位佃稲荷大神と養蚕大神です
境内社は天神宮と春日社です
戸隠社と金比羅社です
社宮司社です
本殿の東側の境内社です、右端は秋葉神社の名前が分かります
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