昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

蛙の子は蛙

2016年04月22日 23時15分50秒 | 昭和 ・ 私の記憶 ( 目次 )

祖父の家に
額入りの住宅透視図が、掛けられていた。
「 設計士 」 を、めざしていた伯父が、描いたものだ。
海軍予科練の伯父は、村の秀才であったと謂う。
絵を画くことの好きだった5歳の私
その透視図に、何か知らん 「 ロマン 」 を感じたのである。
「 設計士 」 は、設計図を描く
「 設計士 」 は、偉い人が成る
・・・と、聞かされた。
「 設計士 ・・・か 」

親父の兄弟  予科練の叔父に抱っこされているのが、10歳年長の叔父
昭和19年 ( 1944 年 ) 頃の写真

職人気質 (ショクニンカタギ)
親父は、昔気質の左官職人であった。
祖父も、叔父達もそうであった。
「 左官一家 」 である。
私は職人の子 なのである。
そして、私は一家の 最初の孫でもあった。
 昭和28年? 最前列左二人目親父、右祖父

昭和38年 ( 1963年 ) ~41年 ( 1966年 )
小学3年生~6年生 の頃
親父は晩酌の肴に、
自分がいかに腕のいい、しかも昔気質の職人であるかを自慢した。
スジ、を通す
義理 人情 義侠心
男気 男前
気概 心意気・・・とか、毎晩、聞かされたのだ。
此は、親父の人生に於いて重要だったのだ。人生そのものだったのだ。
その頃は、親父も若かくて、元気があった。
私は、素直に親父の話を聞いた。 そして素直にそれを享けいれた。
・・・リンク→男前少年 と おんなせんせい

親父は私に期待をかけていた。
『 鳶が鷹を生む 』
親父の好きな 文句であった。
私は
小学四年生 ( 10歳 ) の時、
将来、「 設計士 」 に成ろうと思った。
親父が謂う、『 鷹 』 に成なろうと思ったのである。

救いの神
然し、中学での成績が、あまり良くない。
偶に輝る時もあった。・・・けれど、概ね 並 でしか無かった。
「 このままでは、いけない 」 ・・・と、思いつつ
かろうじて100番以内に入っていた成績も、
中学二年の一学期 中間テスト ( 4月 ) で、127番/293人まで下がったのである。
「 これでは、将来の進路が危うい 」
・・・と、独り 気張ってはみたものの 成果は微微たるもの
・・焦りだした。
そんな時
隣近所の大学生・久田さん
( 大阪へ移住してきてから、私を近所の子として、可愛がって呉れていた )
「 花田君、今度の ( 二学期の中間 ) 試験の答案用紙、見せて ミィ 」
「・・・」
「 勉強、教えて上げるから、家においで 」
「 一年の数学と英語の教科書を持ってくるように 」
なんで一年から?・・と 思ったが、素直に従った。
勉強はきびしかった。
惨めな思いもしたし、腹も立った。
けれども、文句は言わない。
文句を言うのは、恥ずかし事だと思っていた。
教えを乞うとは、そういう事だと思っていたのだ。

親父には弟子がいた。
「 弟子とは 」 ・・・親父は晩酌の肴に、講釈をタレタ
師匠と弟子の関係、子供のころから側で見聞きしているのである。
『 文句は言わない  』 ・・・ものと

基礎から勉強する。
数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く。
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える。
これが、できるようになると、成績は上がった。
そして、将来の希望が持てるようになったのである。
是 ひとえに、無報酬で教えて呉れた久田さんのおかげである。
・・・リンク→ がり勉

「 我 」 をとおす
中学3年生の、卒業まじかホームルームの時間
各々が将来の抱負を語った。
私は
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」
クラスの皆に、そう語った。
当時は、高度成長期・万博景気に沸いていた、建築士が人気ナンバーワンの職業であった。
今で謂う、トレンド。 エンジニアという名詞も響きが良かった。

女優 「 日色ともゑ 」 の婚約者が、
二級建築士ということが話題に上った頃のことである。

NHK 朝ドラ 「 旅路 」 の  日色ともゑ
昭和42.4 ~昭和43.3  放映

「 そこそこの工業大学へいくより、都工 いくほうがええんやて 」
「 ほんまかいや、都工てそんなにええ学校なんか ?
「 日本一の工業高校なんやて 」
「 へー 」
私は級友3名で都島工業高校を見学した。
威風堂々とした、如何にも伝統を感じさせる 重厚な本館建物。
薄暗く、重々しい、内部空間 ( エントランスホール・ロビー、階段 ) に、
「 こ
れが 都工か 」 ・・・と、感激したのである。

進路相談で、私は、大阪市立都島工業高校の建築科を希望した。
所謂 『 天下の都工 』 である。
担任は反対した。
「 ランクを一つ下げなさい 」 ・・・そう云われた。
職員会議でも、それが結論だった。・・・と、云うのである。
確立は半々だという。
「五 分 ・五分ですか?」 
「 5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・担任は答えなかった。
公立を落ちたら 私立高校に通うことになる。
スベリ止めにと、私立を併願受験をし、既清風高校に合格している。   
・・・リンク→ 進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」
・・・けれど、その場合 経済的負担は大きい。
だから、公立へ入学は、絶対必至であった。
失敗はできなかったのである。

それでも 私の両親は、
私の 『 我  』 を、通していいと言ってくれた。
私は希望通り、島工業高校の建築科を受験することに決めた。

試験の前日
受験生を集めて、学年主任の教師が各々に激励して周った。
「 心配するな、大丈夫 ・・」
私の番が来た。
「 お前はなァ、・・・」
・・・と、それだけ。
私は腹が立った。
「 この期に及んで、そんなこと言って如何する 」

1970年3月17日、受験の日。 ・・・リンク→ 受験番号一番の男 と 人生航路 
その日は、雪がちらつき寒かった。
『 試験 』 は、想うようには・・できなかった。自信が持てなかった。
落ちたと思った。

3月20日は、合格発表の日である。
淀川神社で 『 合格祈願 』 の、参拝を済ませ
徒歩で向かった。

2番 ( 受験番号 )
「 あった! 合格していた!!」
嬉しい気持ちより、安堵の気持ちの方が大きかった。

工業化学科を受験した 大橋、河越、杉岡、彼らも全員合格していた。
合格手続きを済ませると、通用門前で皆が集まった。
どの顔も笑顔が溢れていた。
「 皆で一緒に帰ろう 」 ・・・と、帰路はバスに乗った。
『 合否 』 を、担任の先生に報告する為、中学へ帰校することになっていたのだ。


興奮が冷めると、腹がへった
吾々四人は、帰校途中
大東商店街で、お好み焼きを食べることにした。

 
大東商店街                           淀川中学校 職員室

帰校して、職員室に入り、担任に合格の報告をすると
よっぽど心配したらしくて、安堵の表情を浮かべて
「 帰りが遅いから、心配していたんよ・・・無理したから 」
お好み焼きを食べていましたと言ったら
担任の木下雅子先生
「 呑気に・・」 と、笑った。
・・・リンク→バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」


都島工業高等学校 1975.01.15    ・・・リンク→ 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」

建築科の生徒になって、『 T定規を 持って登校するのが、誇らしかった。
「 息子さん、さっそうとして、学校行っていたょ・・・」
・・・と、母が近所の人にそう言われたそうだ。
リンク→力満てり

高校では、透視図も描いた、設計の課題がおもしろかった。

   
リンク→きみは都工のライトだ! 

住宅研究部に入って、文化祭で出展した。


高校三年生・昭和47年(1972年)の文化祭に個人出展したもの

高校三年生の秋
いよいよ、就職希望を担任に申し出る時が来た。
私は、設計事務所を希望した。
「 設計士に成る 」 は、10歳の私 の決意だったから
しかし
私は、成績が良くなかった。
 池下先生 ( 3年間 A 組担任 ・・私は B 組 )
「 池下先生なんか、
 この成績で、何で、設計事務所へ行きたいといっているのか・

 と、言っているが、大丈夫だ、心配するな、行かせてやる 」
吾 担任が、私の希望を押して呉れたのである。
「 花田の場合、卒業設計で、頑張ったから、・・・」
設計事務所を希望した級友・大土に、担任はそう言ったそうだ。
大土は希望が叶わず・・・大阪府庁の役人に成った。
かくして
私の設計事務所へ行きたい、という希望は叶えられたのである。
・・・リンク→人は、こうして人生を選択する 

 
・・・リンク→ 卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」

私の親父は、私の 工務店入りを望んでいた。
直接、私には言わなかったけれど、
倅の 『 現場監督の姿 』 が、見たかったようだ。
「 設計事務所では、ウダツがあがらん 」 と、心配していたそうだ。
ここでも私は、『 我  』 を 通したのである。

私が設計事務所入りを決めたとき、親父は己が希望を腹に飲み込んだ。

以降は、年表のみ
昭和48年 (1973年) 、赤崎建築事務所入社
昭和51年 ( 1976年 )、
二級建築士
昭和59年 ( 1984年 )、 一級建築士
平成04年 ( 1992年 )、独立開業


「 我 」 を通して
私は、一級建築士に成った。
独立して、設計事務所を開設し、設計の仕事をしている。
「 設計士に成る 」 と謂う、10歳の決意
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」 と、中三の表明
一途に 一直線 その目標を達成した。
果たして
『 鳶 は 鷹 』 に成ったのであらうか


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