昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

家族で餅つき

2012年09月15日 12時58分43秒 | 9 昭和の聖代

 餅つき
餅をつく音に目がさめた。
はね起きて見ると、
土間の大釜の上に積んであるせいろうからは、盛にゆげが上がつてゐた。
おかあさんは取粉をのし板の上にひろげて、餅のつき上るのを待つていらつしやる。
おとうさんは きね、おばあさんは こねどり、おぢいさんは大釜の火をたいていらつしやる。
にいさんが奥の間に、餅を並べる所をこしらへてゐた。
「 お早う。」 といふと。
「 よく目がさめたね。今四時を打つたばかりだ。」 と、にいさんがいつた。
つき上ると、おばあさんが餅を臼の中で丸めて、おかあさんの所へ持つていらつしやつた。
おかあさんはそれを二つにちぎつて、ぐるぐるまはしていらつしやつたが、
たちまち きれいなおそなへになつた。
二臼目で小さなおさなへが幾かさねか出來、三臼目からは、のし餅が出來た。
四臼目の時は、おぢいさんも手つだつてつかれた。
二かさね目のせいろうから、ゆげが上るまでに、少し間があつた。
其の時にいさんが
「 私にもつかせてみて下さい。」 といひ出すと、おぢいさんが
「 とてもまだ。」 とおつしやつたが、
おばあさんは
「 まあ、ついてみるがよい。」 とおつしやつた。
いよいよ にいさんがつき出した。
始めのうちは勢がよかつたが、間もなく腰がふらつき出して、
ふみしめてゐる兩足が、きねをふり上げるたびに動いた。
おとうさんが
「 せいは高くても、まだだめだ。」
と おつしやつたが、
それでもとうとう一臼だけはつき上げた。
八時頃には、すつかりすんだ。
おしまひの一臼には、小豆やきな粉をつけて、うちでもたべ、近所へも配つた。

・・・国語読本巻八 第十四課

    

   ・

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偉い人 上杉鷹山

2012年09月15日 12時48分46秒 | 9 昭和の聖代

 師をうやまえ
上杉鷹山は平洲を先生にしてがくもんをしました。
ある年平洲をじぶんの國へまねきました。
平洲が來た時、鷹山はみぶんの高い人でありましたが、
わざわざとほくまで、むかへに出て、ていねいにあいさつをしました。
それからきんじょの寺に行つて休みましたが、
途中じぶんが先生よりさきに立つやうなことはしませんで、
ふかくうやまひました。

 儉約
上杉鷹山は、
十歳の時に、
秋月家から上杉家へ養子に來ました。
十四歳の時から、
細井平洲を先生として学問にはげみました。
十七歳の時、
米沢藩主となり、
よい政治をしてひようばんの高かつた人であります。
鷹山は藩主になつた頃は、上杉家は借財が多く、
其の上、領内には凶作がつづいて、領民も大そう難儀をしてゐました。
鷹山は、此のまゝにしておひては家の亡びるのを待つより外はなひと考へて、
儉約によつて家を立て直し、領民の難儀をすくわうとかたく決心しました。
鷹山は、先づ江戸にいる藩士を集めて、
「 此のまゝ当家の亡びるのを待つてゐて、
人々に難儀をかけるのは、まことに残念である。
これ程衰へた家は立て直す見込みがないと申すが、しかし此のまゝ亡びるのを待つよりも、
心をあはせて儉約したら、或は立ち行くやうになるかも知れなひ。
将來のために、今日の難儀は忍ばなければならなひ。
志を一にして、みんな一生けんめひに儉約を実行しやう。」
と 言ひきかせました。
しかし、藩士の中には、鷹山に從はなひで、
「 殿様は小藩におそだちになつたから、大藩の振合を御存じなひ。」
などと悪口を言ふ者もあり、又、
「 皆の喜ばなひことは、おやめになつた方がよろしやうございませう。」
と いさめる者もありました。
しかし、鷹山は少しも志を動かさず、
藩士たちに儉約の大切なことをよく説きゝかせました。
なほ平洲に教おしへを受けますと、
平洲は、
「 勇気をはげまして志を決行なさいませ。」
と 言ひましたので、
鷹山は益々志をかたくして、領内に儉約の命令を出しました。
そうして、先づ自分のくらしむきをずつとつゞめて、
大名でありながら、
食事は一汁一菜、着物は木綿物ときめて、実行の手本と示しました。
鷹山は、或日平洲に向かつて、
「 先生、私は人々と難儀を共にしやうと思つて儉約をしてゐます。
しかし、衣服も、上に木綿の物を着て下に絹・紬つむぎをかさねていては、
ほんとふの儉約になりませんから、下着も皆木綿の物を用ひて居ります。」
と 申しました。
かように鷹山は誠実に儉約を守つていましたが、
りつぱな大名が、まさか、
上衣はもちろん下着までも木綿を用ひやうとは、側役の人たちの外、誰も信じませんでした。
或日、
鷹山の側役の者の父が在方へ行つて、知合の人の家にとまつたことがありました。
其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、
粗末な木綿の襦袢じゅばんだけは、ていねひに屏風びやうぶにかけて置きました。
主人はふしぎに思つて、
「 どうして襦袢だけそんな大事になさひますか。」
と 尋ねますと、
客は、
「 此の襦袢は、殿様がお召しになつていたものをいたゞひたのですから。」
と 答へました。
主人は、それを聞いて、
大そう藩士の儉約に感じ入り、その襦袢を家内の人たちにも見せて、
儉約をするやうにいましめました。
それから、藩士はもちろん、領内の人々が此の話を伝へ聞いて、
鷹山の儉約の普通でなひことを知り、
互につゝしみ、よく儉約を守るやうになつたので、
しまひには、上杉家も領内一般もゆたかになりました。
・・・第四期(昭和九年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五(五年生用) 第九課 

 産業を興せ
鷹山は、領民の難儀をすくふため、
儉約をすゝめた上に、なほ産業を興して領内を富まそうとはかりました。
荒地を開ひて農業をいとなもえとする者には、
農具の費用や種籾たねもみなどを与へ、三年の間租税を免じました。
鷹山は、自ら荒地を開く處を觀てまわり、或は村々に入つて、
耕作の有様を觀て人々の苦労をなぐさめました。
時には、老婆の稲刈にいさがしひのを觀て、其の運搬を手伝つてやつたこともありました。
又命令を出して、村々に馬を飼はせたり、馬の市場を開かせたりなどして、
農業を盛にする助としました。
鷹山は、又養蚕ようさんをすゝめました。
領内には、まずしくて桑を植へることの出來なひ者も多くゐましたが、
藩には貸与へる金がなひので、鷹山は役人を呼んで、
「 物事は、急に成しとげやうと思つてはならない。
小を積んで大を成し、ながく續くやうにすることが大切である。
自分の衣食の費用は出來るだけきりつめてあるが、なほしんほうして、毎年五六十兩づつ出そう。
それを養蚕奨励の費用にあてゝ、十年二十年とたつたならば、どれ程か結果があらわれやう。
自分が儉約して養蚕をすゝめると聞いたなら、
財産のある者は、進んで土地を開き、桑を植へて蚕を飼おふとする考を起すであらう。」
と 言ひました。
役人は、大いに感じ入つて、養蚕役場を設け、
鷹山の費用の中から年々五十兩づつ出して、其の金で桑の苗木を買上げて分けてやり、
又は桑畑を開く費用として貸付けてやつて、其の業をはげましました。
なほ鷹山は、奥向で蚕を飼はせ、其の糸で絹や紬つむぎを織らせました。
又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織はたおりの上手な者をやとひ入れて、
其の方法を教へさせました。
これが名高ひ米沢織の始であります。
鷹山はかように心を産業に用ひましたから、領内は次第に富み、
養蚕と機織とは盛に其の地方に行はれ、米沢織は、全國に名高ひ産物の一つとなりました。
なせばなる なさねばならぬなに事も
ならぬは人のなさぬなりけり
・・・第四期(昭和九年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五(五年生用) 第十課 

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偉い人 人の名誉を重んぜよ・伊藤東涯

2012年09月15日 11時40分40秒 | 9 昭和の聖代

 人の名誉を重んぜよ
昔京都に伊藤東涯といふ學者がありました

江戸の荻生徂徠と相對して、ともにひやうばんが髙うございました。

或日、東涯の敎を受けて居る人が、徂徠の書いた文を持って來て、東涯に見せました。

その場に外の弟子が二人居合はせましたが、之を見てひどくわる口をいひました。

東涯はしづかに二人に向つて、

「人はめいめい考がちがふものである。輕々しくわる口をいふものではない。

ましてこの文はりつぱなもので、外の人はとてもおよばないであらう。」

といつてきかせたので、弟子どもは深くはぢ入りました。

・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻四 (四年生) 公民の務 第六課
   文部省著作・大正九年発行

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偉い人 寛大・貝原益軒

2012年09月15日 11時35分10秒 | 9 昭和の聖代

 寛大
益軒には、
とりわけ大切にしている牡丹があつて、
今をさかりと庭先に咲いてゐました。
或日、益軒がつとめに出たあとで、
るす居をしていた書生が、
隣の友達と、庭ですもうを取始めました。
互に
「えいや、えいや。」
と もみ合つているうちに、
どちらかが どうしたはづみであつたか、
其の牡丹を折つてしまひました。
「しまつた。」
と、書生が思つた時は、もうだめでした。
相手の友達と、あわてて枝を起こしてみたり、
花をつなひでみたりしましたが、
もちろん、折れてしまつたものは、どうにもなりません。
しばらくおろおろしていた末に、
隣の主人にたのんで、わびてもらふことにしました。
やがて、益軒が歸つて來ました。
隣の主人は、書生を連れて益軒の前に出ました。
書生は何と言つて叱られるかと思つて、身をちゞめていました。
ところが、
隣の主人から話を聞いて、
益軒は静かにこう言ひました。
「 私は、楽しむために牡丹を植えておきました。
牡丹の事でおこらうとは思ひません。」

・・・第四期(昭和九年~)
尋常小學修身書 兒童用 巻四(四年生用) 第十六課 

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偉い人 イザ、鎌倉へ・佐野源左衛門

2012年09月15日 11時23分23秒 | 9 昭和の聖代

 鉢の木
雪の日の夕暮に近き頃、
上州佐野の里に、
つかれし足の歩重くたどり着きたる旅僧あり。
とある あばら家の門口に杖を止めて
、一夜の宿を貸し給へとこへば、
身なりはそまつなれど 氣品髙き婦人立出でて、
「居りしく主人が留守でございますので。」
と ことわりぬ。
されど婦人は、氣の毒とや思ひけん、
僧をば待たせ置き、おのれは主人を迎へにとて外へ出行きけり。
折から、たもとの雪を打拂ひ打拂ひつゝ
此方へ來かかれるは、此の家の主人なるべし、
「 おゝ、降つたは降つたは。世に榮えてゐる人がながめたら、さぞ面白い事であらうが。」
感がいに打沈みて とぼとぼと歩を運ぶ。
ふと我が妻を見つけて、
「 此の大雪に、どうして出かけたのか。」
「 旅僧が一夜の宿を頼むとおほせられて、あなたのお歸を待つていらつしやいます。」
主人は急ぎて家に歸りぬ。
僧は改めて主人に一宿をこへり。
されど主人は、
「 御覧の通りの見苦しさ、
お氣の毒ながら、とてもお泊め申す事は出來ません。
此處から十八町程先に、山本といふ宿場があります。
日の暮れない中に、一足も早くお出かけなさい。」
といふに、僧は返す言葉もなくて出行きぬ。
すごすごと立去る僧の後姿を見送りたる妻は、
やがて夫に向ひて、
「 あゝ、おいたはしいお姿。
とても明るいうちに山本まではお着きになれますまい。
お泊め申してはいかゞでございませう。」
同情深き妻の言葉に、主人はいたく心動きて、
「 ではお泊め申さう。此の大雪、まだ遠くは行かれまい。」
主人は僧の後を追ひて外に出でぬ。
「 なうなう、旅のお方、おもどり下さい。お宿致しませう。」
主人は聲を限りに叫べど、
はるかに行き過ぎたる僧は、聞こえぬにや、ふりかへらず。
降り積む雪に道を失ひ、進みもやらずたゝずみたる様は、
古歌に
 駒とめて袖打拂ふかげもなし
 佐野のわたりの雪の夕暮
といへるにも似たりけり。
からうじて僧をともなひ歸れる主人は、
物かげに妻を呼びて、
「 お連れ申しはしたが、差上げる物はあらうか。」
「 粟飯ならございますが。」
主人はうちうなづきて出來り、
僧に向ひて、
「 お宿は致しても、さて何も差上げる物はございません。
ちやうど有合はせの粟の飯、
召上るならと妻が申してをりますが、いかゞでございませう。」
「 それはけつこう、頂きませう。」
やがて運び來れる貧しき膳に向ひ、僧は喜びて箸を取りぬ。
三人はゐろりを圍みて坐せり。
ゐろりの火は次第におとろへ行きて、ひまもる夜風はだへをさすが如し。
「 だんだん寒くなつて來たが、あひにく薪も盡きてしまつた。
さうださうだ
あの鉢の木をたいて、せめてものおもてなしにしよう。」
とて主人は持來れるは、秘蔵の梅・松・櫻の鉢植なり。
僧は驚きて、
「 お志は有難いが、そんなりつぱな鉢の木をたくのは、どうぞ止めて下さい。」
「 私はもと鉢の木がすきで、いろいろ集めた事もありましたが、
かう落ちぶれては、それも無用の物好と思ひ、大てい人にやつてしまひました。
しかし此の三本だけは、其の頃のかたみとして、大切に殘して置いたのでございますが、
今夜は之をたいて、あなたのおもてなしに致しませう。」
主人は三本の鉢の木を切りてゐろりにたきぬ。
僧は其の厚意を深く謝し、
さて
「 失禮ながらお名前を聞かせて頂きたい。」
「 いや、名前を申し上げる程の者ではございません。」
主人はけんそんして言はず。
僧は重ねて
「 お見受け申す所、たゞのお方とも思はれません。是非お明かし下さい。」
「 それ程おつしやるなら、恥づかしながら申し上げませう。
佐野源左衛門常世と申して、
もとは佐野三十餘郷の領主、
それが一族どもに所領を奪はれて、此の通りの始末でございます。」
といひて目をふせしが、
主人はやがて語氣を改めて、
「 かやうに落ちぶれてはゐるものの、御らん下さい、
これに具足一領、長刀一ふり、
又 あれには馬を一匹つないでもつてをります。
唯今にも鎌倉の御大事といふ時は、
ちぎれたりとも、此の具足に身を固め、さびたりとも長刀を持ち、
やせたりともあの馬にうち乗りて一番にはせ参じ、
眞先かけて敵の大軍に割つて入り、
これぞと思ふ敵と打合つて、あつぱれてがらを立てるかくご。
しかし此のまゝに日を送つては、唯空しくうゑ死する外はございません。」
一語々々、心の底よりほどばしり出づる主人の物語に、
いたく動かされたる旅僧は、兩眼に涙をたゝえて聞きゐたり。
翌朝僧は暇いとまをこひて又行くへ知らぬ旅に出でんとす。
始は身の上をつゝみ、貧の恥をつゝまんとして宿をことわりし常世も、
一夜の物語にうちとけては、名殘なかなか盡きず。
今日留り給へとすゝめて止まざりき。
旅僧もまた主人夫婦の情心にしみて、そゞろに別れがたき思あり。
されどかくて何時まで留るべき身ぞと、心強くも立去りけり。
降積みし雪もあと無くきえて、山河草木喜にあふるゝ春となれり。
頃しも鎌倉より、勢ぞろへの沙汰俄に國々に傳はりぬ。
常世は、時こそ來れと、やせ馬にむちうつて はせつけたり。
やがて名りて御前に召されぬ。
諸國の大名小名きら星の如く並べる中に、
常世はちぎれたる具足を着け、
さび長刀を横たへ、
わるびれたる様もなく、進みて御前にかしこまれば、
最明寺入道時頼はるかの上坐より。
「 それなるは佐野源左衛門常世か。
これは何時ぞやの大雪に宿を借りた旅僧であるぞ。
其の時の言葉にたがはず、眞先にかけて参つたは感心の至り。
さて一族どもに奪はれた佐野三十餘郷は、理非明らかなるによつて汝に返しあたへる。
又 寒夜に秘蔵の鉢の木を切つてたいた志は、何よりもうれしく思ふぞ。
其の返禮として加賀に梅田、越中に櫻井、上野に松井田、合はせて三箇所の地を汝に授ける。」
時頼は尚一同に向ひて、
「今度この勢ぞろへに集つた諸侍の中に、訴訟ある者は申し出るがよい。
理非を正して裁斷致すであらう。」
一同謹んで承る中に、
常世は有難さ身にしみ、喜びにみちて御前を退きけりとぞ。
・・・国語読本 巻十(五年生用) 第十二課

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己を愼(つつしむ)ことが大切である

2012年09月15日 10時41分59秒 | 9 昭和の聖代

 乘合船
若ひ男が、さもとくいそうに、経書のこうしゃくを始めました。
昔の乘合船の中のことです。
乘つている人は、二十人もありましようか。見
たところ、お百姓か、大工さんか、商人らしい人ばかり、
あとは女が二三人です。
若ひ男は、口にまかせて、しやべりたてました。
つい、調子にのると、いいかげんなでたらめも出て來ます。
しかし、そんなことに氣のつくえらさうな人は、一人もいないと、若ひ男は思ひました。
「どうだ、感心いたしたか。」
こうしやくが終ると、若い男はこういつて、みんなを見渡しました。
「いや、ありがたいお話でございました。」
と、いかにも正直者らしいお百姓が、ていねいに頭をさげました。
「なかなかむづかしくて、私どもにはわかりかねますが、先生は、お若ひのに、
大そう学問をなさつたものでございますな。」
と、これは商家の番頭らしい人がいひました。
「先生」といわれて、若ひ男は、いつそうとくいの鼻をうごめかしました。
「いや、なに、たいしたこともないが、これでわしは、ごくおぼへのいひ方でな。
神童といはれたものだよ。」
「神童と申しますと。」
「神童がわからないのか」 --そう思ふと、
若ひ男は、いつそう相手をみくびつて、ことばづかいが、こうまんになります。
「おまえたちはわかるまい。神童とは神の童わらべと書く。童は子どものことだ。」
「へえ、では神様のお子様でございますか。」
「はははは、無学な者には、そうとでも思ふほかあるまい。」
若ひ男は、大きく笑ひました。
しかし、この若ひ男に、ふと一人の人が氣になりだしました。
最初は、これも百姓だらうぐらひに思つて、氣にもとめませんでしたが、
どこか品のある中年の男です。
「医者かな、医者なら、少し学問もあるはずだが、
あの男は、こうしやくを聞くでもなし、聞かぬでもなし、ただ、だまってゐる。
どうせわからないのだらう。
してみると、やつぱりいなか者で、少しばかりの金持ちであらう。」
若ひ男はそう思つて、たつてそれ以上、氣にもとめませんでした。
いよいよ、船が陸おかに着くまぎわになりました。
みんなは、船をおりる用意をします。
「おたがひに、名をいつて別れることにしやう。」
と、あの若ひ男がいひました。
「私は、番頭の半七と申します。」
「早川村の百姓、義作でございます。」
「大工の八造と申します。」
一同が、順々に名のりました。
そうして、あのいなかの金持ちらしい人の番になりました。
「福岡の貝原九兵衛と申す者。」
いかにもおちついたことばでいひました。
この名が、あの若ひ男の頭に、がんとひびきました。
「貝原九兵衛」 とは、世にかくれもない貝原益軒先生であることを知つていたからです。
若ひ男は、そのまま逃げ出すよりほかはありませんでした。
ひらりと岸にとびおりるが早いか、一もくさんにかけ出しました。
「はははははは。」
と笑う声が、後から追いかけるような氣がします。
「ばか、ばか。ばかだな、おれは。」
若ひ男は、、自分自身をあざけるように、
こういひながら、わけもなく走つていました。
・・・第五期(昭和十六年~) 初等科修身書 二(四年生用) 十五

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偉い人 樺太探検・間宮林蔵

2012年09月15日 10時31分08秒 | 9 昭和の聖代

 間宮林蔵
 
樺太は大陸の地續なりや、
又は 離れ島なりや、
世界の人は久しく之を疑問としたりき。
然るに 其の實際を調査して此の疑問を解決したる人、
遂に我が日本人の中より現れぬ。
間宮林蔵これなり。
今より百二十年ばかり前、
卽ち文化五年の四月に、
林蔵は幕府の命によつて、
松田傳十郎と共に樺太の海岸を探検せり。
樺太が離れ島にして大陸の地續にあらざることは、
此の探検によりて略知ることを得たれども、
更によく之を確めんがために、
同年七月林蔵は單身にてまた樺太におもむけり。
先づ樺太の南端なる白主しらぬしといふ處に渡り、
此處にて土人を雇ひて從者となし、
小舟に乗じていよいよ探検の途に上りぬ。
それより一年ばかりの間、
風波をしのぎ、
飢寒と戰ひ、
非常なる困難ををかして
樺太の北端に近きナニヲーといふ處にたどり着きたり。
これにより北は波荒くして舟を進むべくもあらず、
山を越えて東海岸に出でんとすれば、
從者の土人等ゆくての危険を恐れて從ふことをがへんぜず。
止むなく南方のノテトといふ處に引返し、
酋長コーニの宅に留りてしばらく時機の至るを待ちぬ。
網をすき、舟を漕ぎ、漁業の手傳などして土人に親しみ、
さてさまさてざまの物語を聞くに、
對岸の大陸に渡りて其の地の模様を探るは、
かへつて目的を達するに便なることを知りぬ。
たまたまコーニが交易のため大陸に渡らんとするに際し、
林蔵は好機至れりとひそかに喜びて、切に己をともなはんことを求む。
コーニは
「 容貌の異なる汝が彼の地に行かば、
必ずや人に怪しまれ、なぶりものにせられて、或は命も危かるべし。」 
とて、しきりに止むれども林蔵きかず、遂に同行することに決せり。
出發の日近づくや、
林蔵はこれまでの記録一切を取りまとめ、之を從者に渡していふやう、
「 我若し彼の地にて死したりと聞かば、
汝必ず之を白主に持歸りて日本の役所に差出すべし。」
と。
文化六年六月末、
コーニ・林蔵等の一行八人は、
小舟に乗じて今の間宮海峡を横ぎり、デカストリー灣の北に上陸したり。
それより山を越え、河を下り、湖を渡りて黒龍江の河岸なるキチーに出づ。
其の間、山にさしかゝれば舟を引きて之を越え、河・湖に出づればまた舟を浮べて進む。
夜は野宿すること少からず。
木の枝を伐りて地上に立て、上を木の皮にておほひ、
八人一所にうづくまりて僅かに雨露をしのぐ。
キチーにて土人の家に宿る。
土人等林蔵を珍しがりて之を他の家に連行き、
大勢にて取圍みながら、
或は抱き 或は懐を探り、
或は手足をもてあそびなどす。
やがて酒食を出したれども、林蔵は其の心をはかりかねて顧みず。
土人等怒りて林蔵の頭を打ち、強ひて酒を飲ましめんとす。
折よく同行の樺太人來りて土人等を叱し、林蔵を救いひ出しぬ。
翌日此の地を去り、
河をさかのぼること五日、
遂に目的地なるデレンに着せり。
デレンは各地の人々來り集りて交易をなす處なり。
林蔵の怪しみもてあそばるゝこと、
此處にては更に甚だしかりしが、かゝる中にありても、
彼は土地の事情を研究することを怠らざりき。
コーニ等の交易は七日にして終りぬ。
歸路一行は黒龍江を下りて河口に達し、海を航してノテトに歸れり。
此處にて林蔵コーニ等に別れを告げ、
同年九月半ば、白主に歸着しぬ。
林蔵が二回の探検によりて、
樺太は大陸の一部にあらざること明白となりしのみならず、
此の地方の事情も始めて我が國に知らるゝに至れり。
・・・・国語読本 巻十二(六年生用) 第十七課

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偉い人 仇討・曽我兄弟

2012年09月15日 10時26分54秒 | 9 昭和の聖代

 曽我兄弟
曽我兄弟は
兄を十郎、弟を五郎と いひました。
十郎が五つ、五郎が三つの年に、
父は くどうすけつねに ころされました。
母は 泣きながら 二人の 子どもに、
「 何といふ くやしい事 だらう。 
お前たちが 大きくなつたら、此のかたきを 取つておくれ。」
と いひました。
五郎は まだ小さくて、何も 分りませんでしたが、
十郎は なみだを おさへて、
「 きつと 此の かたきを 取つて見せます。」
と 答へました。
九つと なり、七つと なつたころからは、
遊事にも、兄が 弓を ひけば、
弟は たちを ふりまはし、
早く強くなつて、かたきを 取せらうと 心がけました。
けれども かたきの くどうは、
みなもとの よりとも といふ 大將の お氣に入りで、
いつも 大ぜいの 家來を つれて居ます。
二人の ものは なかなか そばへ よることも 出來ません。
くどうが 東へ 行けば、兄妹も 東へ 行き、西へ 行けば、西へ 行き、
長い間 つけねらひましたが、手を出す すきは ありませんでした。
ある年、よりともは 日本國中の さむらひを 引きつれて、ふじの まきがりを いたしました。
かたきの くどうも よりともの おとも をして 行つて居ます。
兄弟は 今度のこそはと、母に いとまごひを して、ふじの すそ野へ 急ぎました。
五月二十八日、雨のふる ばんの 事です。
二人は たいまつで、道を てらして くどうの やかたへ 向ひました。
今夜かぎりの いのちと 思つて、
十郎 「五郎、かほを 見せよ。」
五郎 「兄上。」
二人は たいまつを 上げて、つくづくと かほを 見合ひました。
兄弟は くどうの やかたへ ふみこみました。
ふみこんで 見ると、くどうは よく ね入つて 居ます。
ね入つて居る ものを きるは ひけふと、
「おきよ、すけつね、曽我兄弟が まゐつた。」
と名のりました。
すけつねも 人に知られた さむらひ、
「心えた。」
と、まくらもとの 刀を 取つて おき上らうと しました。」
二人は すかさず うち取つて 
十郎は 二十二、五郎は 二十、父が うたれてから
十八年目に めでたく のぞみを とげました。
・・・国語読本 巻四 (二年生用) 第二十四課

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靖国神社

2012年09月15日 09時46分13秒 | 9 昭和の聖代


 靖國神社

靖國神社は東京の九段坂の上にあります。

このには君のため國のために死んだ人々をまつつてあります。

春四月三十日と秋十月二十三日の祭日には、勅使をつかはされ、

臨時大祭には天皇皇后陛下の行幸啓になることもございます。

君のため國のためにつくした人々をかようににまつり、又ていねいなお祭をするのは

天皇陛下のおぼしめしによるものでございます。

わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、こゝにあつまつてある人々にならつて、

君のため國のためにつくさなければなりません。

・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻四 (四年生用) 第六課
   文部省・大正九年発行

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国民の務 挙国一致

2012年09月15日 09時37分32秒 | 9 昭和の聖代

 擧國一致
明治三十七八年戰役は、
我が大日本帝國が國家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戰つて、
國威を世界にかゞやかした大戰争であります。
明治三十七年二月十日に宣戰の詔みことのりが下ると、
國民は皆一すぢに大御心を奉體して、國の爲に盡さうとかたく決心しました。
出征軍人の元氣は盛なもので、忠勇の美談はあげつくされない程ありました。
病をおし、傷をかくして召集に應じた在軍人もあり、
三人の兄が皆戰死して殘つた末の弟が志願兵になつた家もありました。
戰地では雨霰と飛來る彈丸の中で、
落ちつきはらつて自分の務を盡す者もあれば、
敵彈のために負傷しても、内地へ送りかへされることを拒んで、
「 ぜひ今一度戰線に立たせて下さい・」
と 願ふ者もありました。
戰場に出ない國民も皆一致して、忠君愛國の誠を盡しました。
働きざかりの壯丁そうていが出征した後は、
老人も婦人も少年も皆大決心で、家業につとめ、
儉約けんやくを守つたので、全國の貯金の高は却つて戰前よりも增しました。
國民は喜んで負擔ふたんして納税を怠る者などはありませんでした。
軍人が出征する時には、各地の人々はまごころをこめて送り迎へをしました。
戰地へは慰問袋や手紙を送り、
軍人の家族・遺族にはいろいろと行き屆いた世話をしました。
出征者の妻は心を引きしめて、
家事をとゝのへ、子供を育てて、戰地の夫に心配をかけないやうにしました。
又身分の高い婦人は自分で繃帶を造つて、負傷者に送り、
或は進んで篤志看護婦とくしかんごとなつて、親切に傷病者の世話をしました。
明治天皇御製
國を思ふ道に二つはなかりけり
いくさのにはに立つも立たぬも
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五 (五年生用) 第八課
   文部省・昭和三年発行

 國民皆兵
日本人は、
平和を愛する國民であります。
けれども、一朝國に事ある時は、
一身一家を忘れ、
大君の御楯みたてとして
兵に召されることを男子の本懐とし、
この上ないほこりとして來てゐます。
大日本は、
昔から一度も外國のために國威を傷つけられたことがありません。
これはまつたく御代御代の天皇の御稜威みいつのもとに、
私たちの先祖が、きはめて忠誠勇武であつたことによるものであります。
私たちも、また、
心を一つにしてこの大日本を防衛し、
以來の光輝ある歴史を無窮に傳へる覺悟がなければなりません。
日本臣民中、
満十七歳から満四十歳までの男子はみな兵役に服するの義務があります。
満二十歳になると、
かならず忠平検査を受け、
現役兵となつて陸軍、あるひは海軍にはいるのであります。
もし、國に一大事が起つた場合には、
現役にある者はもちろん、みんな召集に應じて出・・・・・

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偉い人 忠義・楠木正成

2012年09月15日 05時45分38秒 | 9 昭和の聖代


                                         皇居外苑の楠木正成像
楠木正成
後醍醐天皇に呼応して挙兵
建武の中興に功績をたてた
明治以降、
大楠公 だいなんこう』
と、呼ばれる


忠孝
北条氏が滅びて、
後醍醐天皇は京都におかへりになりましたが、
間もなく足利尊氏が叛そむきました。
楠木正成は諸將と共に尊氏を討つて九州に追払ひましたが、
その後、
尊氏が九州から大軍を引きつれて京都に攻上つて來ると知らせがあつたので、
勅を奉じて、尊氏を防ぐために兵庫に赴おもむきました。
正成はこれを最後の戰と覚悟して、途中櫻井の驛でその子正行まさつらに向ひ、
「父が討死した後は、お前は父の志をついで、きつと君に忠義を盡し奉れ。
 それが第一の孝行である。」
と ねんごろに言聞かせて、河内へ返しました。
この時正行は十一歳でした。
正成はそれから兵庫に行つて遂に湊川みなとがわで討死しました。
家に歸つていた正行は、
父が討死したと聞いて、悲しさの余り、
そつと一間に入つて自殺しやうとしました。
我が子の様子に氣をつけていた母は、この様子を觀て走りより、
正行の腕をしつかとおさへて、
「父上がお前をお返しになつたのは、
父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安め奉らせる為ではありませんか。
その御遺言ゆいごんを母にも話して聞かせたのに、
お前はもうそれを忘れましたか。
そのようなことで、どうして父上の志をついで、忠義を盡すことが出來ますか。」
と 涙を流して戒めました。
正行は大そう母の言葉に感じ、
それから後は、父の遺言と母の教訓とを堅く守つて、
一日も忠義の心を失はず、遊戯にも賊を討つまねをしてゐました。
正行は大きくなつて、
後村上天皇にお仕へ申し、たびたび賊軍を破りました。
そこで尊氏は正行をおそれ、大軍をつかはして正行を攻めました。
正行は勝負を一戰で決しやうと思ひ、弟正時をはじめ一族をひきつれて、
吉野の皇居に赴き、天皇に拝謁はいえつして最後のお暇乞いとまごを申上げました。
天皇は正行を近く召され、親子二代の忠義をおほめになり、
汝をふかく頼みに思ふぞとの御言葉さえ賜はりました。
正行はそれから四条畷に向ひ、
僅かの兵で賊の大軍を引受けて花々しく戰ひましたが、
此の日朝からはげしい戰に、
味方は大方討死し、正行兄弟も矢きづを多く受けたので、
とうとう兄弟さしちがへて死にました。
格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 巻六 (六年生用) 第六課
   文部省・昭和二年発行

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國民の務・忠君愛國

2012年09月15日 05時20分13秒 | 9 昭和の聖代

忠君愛國
 民のため心のやすむ時ぞなき
  身は九重の内にありても
これは明治天皇の御製ぎょせいでありますが、
この有難い思召は

すなはち御代々みよよの天皇が我等國民の幸をお思ひになる大御心です。
我等國民は先以來、
かやうに御仁慈ごじんじであらせられる天皇をいたゞて、
君のため國のために盡すのを第一の務としてゐます。
昔から國に大事が起つた場合には、
楠木正成や廣瀬武夫のやうな人が、身命をさゝげて君國を守りました。
また平時にあつては、
作兵衛・伊藤小左衛門・高田善右衛門のやうな人が、
それぞれ農・工・商等の職業に勵んで我が國の富強を增し、
中江藤樹・貝原益軒・圓山應擧のやうな人が、
學問や技藝につとめて我が國の文明を進めました。
我等はよく我が身を修めて善の人となり、
先の美風をついで、
國の大事に際しては身命をさゝげて君國を守り、
平時に於ては各その職分を盡して我が國の富強を增し文明を進め、
忠君愛國の實を擧げなければなりません。
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 巻六 (六年生用) 第三課
   文部省・昭和二年発行

よい日本人
天皇陛下は
明治天皇の御志をつがせられ、
ますます我が國をさかんにあそばし、
又 我等臣民を御いつくしみになります。
我等はつねに天皇陛下の御恩をかうむることの深いことを思ひ、
忠君愛國の心をはげみ、
皇室を尊び、
法令を重んじ、
國旗を大切にし、
祝祭日のいはれをわきまえなければなりません。
日本人には忠義と孝行が一ばん大切な つとめであります。
家にあつては
父母に孝行をつくし、
兄弟たがひにしたしまなければなりません。
人にまじはるには、
よく禮儀を守り、
他人の名を重んじ、
公益に力をつくし、
博愛の道につとめなければなりません。
そのほか規律たゞしくし、
學問にべんきやうし、
迷信におちいらず、
又常に身體を丈夫にし、
克 己のならはしをつけ、
よい慣を養はなければなりません。
大きくなつては
志を立て、
自立自榮の道をはかり、
忠實に事にあたり、
志を堅くし、
仕事にはげまなければなりません。
我等は上にあげた心得を守つて
よい日本人とならうとつとめなければなりません。
けれどもよい日本人となるには多くの心得を知つて居るだけではなく、
至誠をもつてよく實行することが大切です。
至誠から出たものでなければ、
よい行のやうに見えても
それは生氣のない造花のやうなものです。
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻四 (四年生用) 第十一課
   文部省・大正九年発行

よい日本人
我が大日本帝國は萬世一系の天皇を戴き、
御代々の天皇は我等臣民を個のうにおいつくしみになり、
我等臣民は數千年來、心をあはせて克く忠孝の道に盡しました。
これが我が國の世界に類のないところであります。
我等は常に天皇陛下・皇后陛下・皇太后陛下の御高德を仰ぎ奉り、
先の志を繼いで、忠君愛國の道に勵まなければなりません。
忠君愛國の道は君國の大事に臨んでは、
擧国一致して奉公の誠を盡し、
平時にあつては、
常に御御心を奉じて各自分の業務に勵んで、國家の進歩潑達をはかることであります。
我等が市町村の公民としてよく其の務を盡すのは、
やはり忠君愛國の道を實行するのであります。
父母には孝行を盡して其の心を安んじ、
兄弟は仲よくして互に助け合ひ、
主婦はよく家を治め子供を敎養しなければなりません。
人に交わつては信義を重んじ、大きくし、殊に朋友・・・・・
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五 (五年生用) 第二十七課
   文部省・昭和三年発行

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國旗・日の丸

2012年09月15日 05時04分34秒 | 9 昭和の聖代

 國旗

この繪は紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、
 子供たちが見て、よろこばしさに話をしてゐる所です。
どこの國にもその國のしるしの旗があります。
これを國旗と申します。
日の丸の旗は、我が國の國旗でございます。
我が國の日や祭日には、學校でも家々でも國旗を立てます。
その外、我が國が外國の港にとまる時にも之を立てます。
國旗はその國のしるしでございますから、
我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。
又禮儀を知る國民としては外國の國旗もさうたうにうやまはなければなりません。
・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻四 (四年生用) 第六課
   文部省・大正九年発行

 ・
 日の丸の旗
どこの國でも、その國のしるしとして、旗があります。
日本の旗は、日の丸の旗です。
朝日が、勢よく、のぼって行くところをうつした旗です。
若葉の間にひるがへる日の丸の旗は、
いかにも明るく、海を走る船になびく日の丸の旗は、元氣よく見えます。
青くすんだ空に、高々とかかげられた日の丸の旗は、い・・・・・

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至誠を以て務める

2012年09月14日 18時13分54秒 | 9 昭和の聖代

 女子の務つとめ
三宅尚斎みやけしょうさい
或時 藩主の旨にさからひて とらはれの身となりたり。
尚 斎家を出づるにのぞみ、
其の妻に母及び二人の子の事を頼み、奉養の為にとて金二十兩を渡せり。
妻は留守を預りて心細く暮せしが、
これより倹約を守り、己おのが衣食を薄くし、
いとまあれば人の為に裁縫、洗濯をなし、
これによりてよく姑しゆうとめに事つかへ、又其の子どもを養育したり。
三年の後
尚斎赦ゆるされて家に帰れり。
此の時妻はさきの二十兩を出して返せしに、
尚 斎之を觀て大いに怒り、
「かくては母の奉養を怠りしならん。」
と 云ふ。
妻は静かに留守中の事を語りて、
「母君を養ひまいらせし費用は 我自ら之を弁じたり。
此の金は御身が歸り給う時の用にあてんとて殘しおきたるなり。」
と 云ひしかば、
尚斎は深く妻の労を謝したり。

・・・第二期 (明治四十三年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五 (五年生用) 第二十七課 

 忠実
おつな は若狭のりょうしのむすめで、
十五歳の時、子もりぼうこうに出ました。
或日 主人の子どもをおぶつて遊んでいると、
一匹の犬が來て、おつな にとびかかりました。
おつな はおどらいて、にげやうとしたが、にげるひまがなゐ。
きやうにおぶつていた子どもをぢめんにをろし、
自分がその上にうつぶしになつて、子どもをかばひました。
犬ははげしく おつな にかみつひて、
多くのきづをおわせましたが、おつな は少しも動きませんでした。
そのうちに人々がかけつけて、犬を打ちころし、
おつな をかいほうして、主人の家にかえらせました。
子どもにはけがゞなかつたが、
おつな のきづは大そう重くて、そのために、たうたう死にました。
これを聞いた人々は
いづれも深くかんしんして、おつな のためにせきひを立てました。

・・・第三期 (大正七年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻四 (四年生用) 第十一 

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偉い人 度量・西郷隆盛

2012年09月14日 18時10分53秒 | 9 昭和の聖代

 度量
西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃、
或日、友達や力士を集めて庭で相撲をとつていると、
取次ぎの者が來て、
「 福井藩の橋本佐内といふ人が觀えて、ぜひお目にかかりたひと申されます。」
と 言ひました。
一室に通し、着物を着かへてあつて觀ると、
佐内は、二十歳余りの、色の白い、女のやうなやさしゐ若者でした。
隆盛は、心の中で、
これではさほどの人物ではあるまひと觀くびつて、
余り ていねひにあしらひませんでした。
佐内は、
自分が軽蔑けいべつされていることをさとりましたが、少しも氣にかけず、
「 あなたがこれまでいろいろ国事にお骨折りになつていると聞いて、
したわしく思つていました。
私もあなたの教おしえを受けて、及ばずながら、國のために盡したいと思ひます。」
と 言ひました。
ところが、隆盛は、
こんな若者に国事を相談することは出來まいと思つて、
そしらぬ顔で、
「 いや、それは大変なおまちがひです。
私のやうなおろかな者が國のためをはかるなどとは、思ひも寄らぬことです。
ただ相撲が好きで、御覧の通り、若者どもと一しよに、毎日相撲をとつているばかりです。」
と言つて、相手にしませんでした。
それでも、佐内は落着いて、
「 あなたの御精神は、よく承知しています。
そんなにお隱かくしなさらづに、どうぞ打ちあけていただきたい。」
と 言つて、
それから国事について自分の意見をのべました。
隆盛はじつと聞いて居ましたが、
佐内の考かんがえがいかにもしつかりしていて、
國のためを思ふ眞心のあふれているのにすつかり感心してしまひました。
隆盛は、
佐内が歸つてから、友達に向かひ、
「 橋本はまだ年は若ひが、意見は實にりつぱなものだ。
觀かけが余りやさしいので、始め相手にしなかつたのは、自分の大きな過あやまちであつた。」
と 言つて、深く恥じました。
隆盛は、翌朝すぐに佐内をたづねて行つて、
「 昨日はまことに失礼しました。
どうかおとがめなく、これからはお心安く願ひます。」
と 言つてわびました。
それから、二人は親しく交り、心をあはせて國のために盡しました。
佐内が死んだ後までも、隆盛は、
「 学問も人物も、自分がとても及ばないと思つた者が二人ある。
一人は先輩の藤田東湖ふじたとうこで、
一人は友達の橋本佐内だ。」
と 言つてほめました。
・・・第四期(昭和九年~) 尋常小學修身書 兒童用 巻五(五年生用) 第十五課

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