花夢

うたうつぶやく

033:鍵のうた

2006年11月30日 | 題詠2006感想

どうしようどうしようもなくてのひらに花 やさしさの鍵がこわれて
飯田篤史

このあふれだす感じはなんだろう。
華やかにあふれだして、どうしようと思ってしまう、
この気持ちはなんだろう。

(恋に似てるな。)

「やさしさの鍵がこわれる」というのは、
私だったら、やさしくなくなる。という意味で使ってしまいそうなんだけど、
ここでは、鍵がこわれたことでやさしさがとめどなく溢れる・・・というような。いっぱいいっぱいまで溢れてる。光。

こういうあふれんばかりのやさしさ。
とまどってしまうほどのやさしさ。
もてあましながらもとどまることのないおもい。

とてもまぶしくて、うらやましくもおもいます。



実らない果実のほうが好き鍵を太陽にかけたから笑おう
ハナ

うん。うん。笑おう。(強く)

女子だなぁ。
この気持ちも。
この気持ちを共有できるのも。

笑い声がきこえる気がする。
蝶々のように舞う女子たちの。

逃げ場をさがした言い訳も、
どうしようもなく自由でいられたことも、
そうだよね、って確認しあった、
私たちという存在も、
ぜんぶぜんぶ、
泡のようで、でも真剣だった。

からっぽのようで、でもそこにはなにかあった。
私たちは、私たちのままでいられた。
だから、笑えたの。うん。



あなたまでゆくのか春の鍵盤に淡い指紋を残したままで
村上きわみ

「あなたまでゆくのか」という言葉がやわらかく重く横たわっていて、また、きわみさんの言葉に呑まれてしまう。

あなたまでゆくのか
あなたまでゆくのか

落胆のようで、
でも、どこか覚悟していたような強さと重さを帯びていて、
どうしようもなくなる。
子供のようには泣けなくなる。

淡い指紋を残したままというのが、
悲しいとか、恨めしいなどという感情よりも先に、
そのひとが確かにそこにいたという、さいごの証として息づいているみたい。

「春」と「淡さ」が、作品を暗くさせなくて。
とてもほのかに、去りゆく人の面影を残し、
たたずむ残されたものの心を、そっと包み込んでいます。



屋上の鍵を盗んでわたしたちこれから( )のはなしをしよう
遠藤しなもん

「( )のはなし」とは、「かっこのはなし」と読めばよいのでしょうか?

内緒話とか、秘密の話とか、二人だけの話とか、
そんなありきたりな言葉ではなく、( )のはなし。
ちょっとわくわくしました。

( )のなかには何が入るんだろう。
どきどき。わくわく。

「屋上の鍵を盗んで」
という、やんちゃなシチュエーションも、好きです。
縛られているものに気づいていて、そっから飛び出したがってる感じ。
これもわくわく。

なににもとらわれない場所で、なににもとらわれないはなしをしよう。



<振り返り>
この辺のお題は難しかったです。消化試合のような気分が強い期間。
広がりのある単語は、その広がりとどう向き合えばいいのかわからずに逃げ、広がらない単語は、広がらないために自分の限界と思いのみこんでいた・・・そんな時期だった気がします。

032:上海のうた

2006年11月26日 | 題詠2006感想

これ以上海月の呼吸見ていてはだめだひみつもほどけてしまう
おとくにすぎな

海月の呼吸。
ふわふわといつまでも。
そんな呼吸を見ていたら、「ひみつもほどけてしまう」ような、ゆったりと緩んでいくこころ。

お題が「上海」とは思えないほど巧みな詠みで、くらげの呼吸に吸い込まれていきます。

全体がくらげのまったり感で、とろけそうな雰囲気。
けれど、その分、普段こころをしっかりと締め、秘密を閉じ込めていることもよくわかります。



似合わないことばこぼれて手拭いでぬぐえばしみる上海ブルー
斉藤そよ

上海ブルーって言う青色があるのかな。と思って検索をかけたのですが、どうやらお酒の名前のようです。いい名前ですね。
でも個人的に、この作品の「上海ブルー」は青色そのものであってほしいなぁ。などと、勝手なことを思っています。
私が見つけたお酒には「上海碧」と書いてあるから、きっとくっきりと濃い「碧色」なのでしょう。上海ブルー。

似合わないことばのこぼれた先。
まるで影のように、一点の碧色を落とす。

そんな印象をもって、私の心に残りました。

ひらがなのせいか、全体的にやわらかい雰囲気で、静かにしっとりとしみる作品です。



強烈な夏のうねりに飛び込もう上海ハニーのリズムにのって


オレンジレンジの「上海ハニー」という選択がありましたか!
しかも、意外にも、題詠の中に上海ハニーを詠みこんだ作品はけっこうありました。
そのなかでも、この作品はカラっとしていて、読んだ瞬間、私の頭のなかにも上海ハニーが流れ出しちゃいました。

「夏のうねりに飛び込もう」というのが勢いがあっていいですね。
ノリノリです。



031:寂しいうた

2006年11月25日 | 題詠2006感想
「淋しい」と「寂しい」はなにが違うのでしょう。

私のなかでは、
「淋しい」は泣き濡れて湿っているけど、
「寂しい」はカラカラと乾いている気がします。

「淋しい」は胸がつまっているけれど、
「寂しい」はからっぽのような。

「淋しい」は迫ってくる感情のように激しく、
「寂しい」はゆっくり時間をかけたもののようにも思えます。

なんとなくのイメージですが。

そういうことを考えていたので、「寂しい」の意味や内容を考えさせる作品に引き寄せられました。


バビロンの塔があき地に立っている あんまり大きくなくて寂しい
aruka

不思議な光景です。
シュールと言うのでしょうか。マグリットの描く世界のような静かで不思議な空気を感じます。

その光景を前に「あんまり大きくなくて寂しい」。
圧倒される大きさではなく、あき地にポツンと立つバビロンの塔。
その塔をポツンとながめ、寂しいと思う作中主体。

余白のような空間が、ぽっかりと残る作品です。



対になるワイングラスの一方をわざと割ってはよけい寂しい
五十嵐きよみ

この「寂しい」は、まさに心に穴の空いた感じの寂しいなので、私の感じた「寂しい」のイメージにぴったりでした。

対になるワイングラスの一方を割る行為。
おそらく、その一方はもう必要のないグラスなのでしょう。
その寂しさを捨て去ろうと、グラスを割れば、もっとリアルに寂しさが押し寄せてくる。
心の空白をなんとかしようとあがき、さらに深まる空白。というのでしょうか。

このワイングラスをわざと割る様子。
レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」にて、最後に年老いたヒロインのローズが、宝石を海に落とすシーンがありますが、
それに似た光景に思いました。

まるで、なにかの間違いで海に落としてしまったかのように。
まるで、なにかの間違いで割ってしまったかのように。

空白を埋められないことを知っていて。
知っていることを形にしてあらわしてしまえば、さらに広がる空白。



寂しいと言へばたちまち寂しさの形をとつてなだれる心
萱野芙蓉

こちらも、自らの感情をはっきりと意識することで、加速してしまう心をあらわしているようです。

うっすらと感じていることを、「寂しい」という言葉にしてしまう。
そうして言葉にしてしまった瞬間から、体も心も全身が「寂しい」へと向かっていってしまう。
「なだれる」という言葉が、その感情の重みと勢いをあらわしているようです。

うっすらと感じて凍えている夜も、それがくっきり形となってなだれる夜も。
心はそうして整っていこうとしているのだと思います。



あの朝に二人で分けた寂しさを今も大事に胸に抱いてる
逢森凪

こちらは「二人で分けた寂しさ」と来ました。うわー。
二人でいても寂しいのではなく。二人で分けた寂しさ。
寂しさなんていうものは、きっと、相当近くにいないと分けあえないと思います。
(それに比べれば、嬉しさはなんて単純に分け合えられるもんだろう)
けれど、分けあうのは、結局、寂しさなのですね。

わー。せつない。
近いからこそ分けあえる寂しさだから、せつない。

だから、きっと今も大事に胸に抱いているんでしょうね。



もう二度と会えぬと思っていた日々を思えば何も寂しくはない
お気楽堂

これは、『もう二度と会えぬと思っていたあの日々よりも寂しい(淋しい)ことはもうなにもない。』という意味の作品なのでしょう。

ここで、作者さんの意図を離れる恐れのあることを承知で、私の「寂しい」「淋しい」の概念から見ると、
「もう二度と会えぬと思っていた日々」は「淋しい」日々だったと思います。
けれど、今、作中主体が抱えているのは、
「もう二度と会えぬ」ということへの「淋しさ」ではなく、
「もう二度と会えぬと思っていた日々」を抱えていた自分への「寂しさ」だと思います。

この作品には、会えぬことの淋しさを越え、それを抱える自分への寂しさを越えるという、2重の脱出があるのではないかなぁ。と私は思います。

ゆっくりと時間をかけ、人はさびしさに耐えうるほどの強さを得るのね。



ひとり野に立つ寂しさがここちよく関わることの重さを思う
林本ひろみ

こちらは、「ひとり野に立つ寂しさ」からうまれるもの、気づくことに思いを馳せた作品です。
ここでは「寂しさ」が「ここちよく関わることの重さ」へと導いています。
はっとしました。

よく、寂しさと嬉しさは対比され、寂しい人間は、単純に、心を埋めようと願い、温まることを欲するけれど、
そのために大切なことを、この作品はぐっと見据えているような気がします。

寂しいことも、ここちよいことも、それだけに満足し、浸り、おぼれてしまわないで。



これらの作品の「寂しい」を「淋しい」と言いかえると、やっぱりなにかイメージが変わる気がします。
このお題。様々な「寂しさ」に触れられてよかったです。

030:政治のうた

2006年11月23日 | 題詠2006感想
やはり、自分の好みだと、作者さんが偏ってしまう部分があります。
自分はどの人の作品をどれくらい選んでしまうのだろう。というのも、すこし楽しみです。

逆に、ときどき、やっぱりこの作品、選んでおくべきだったーとか、このひと見逃してたー。という思いをするときもあります。

小説でもなんでも好きな作品を見つめると、その作者さんの経歴がとても気になります。
性別や年齢、どんなところでどんなふうに育ってきたんだろう。と。
たぶん、その言葉を生み出す根幹が知りたいのだと思います。


仰向けの政治家の像ひび割れた隙間を虫と水が這い出る
紫女

倒れた像のひび割れた隙間から虫と水が這い出る光景。
・・・すこしぞくっとします。

メッセージ的なことを強く叫んでいる作品ではないけれど、
だからこそ、そこにある光景を見せられてたたずんでしまいます。
流れる時間と、無常さ。
哀しくてさびしいため息のようなものが聞こえてきそうです。



はるの日はためらいがちなぼくたちのやさしい王の政治のように
飯田篤史

「政治」のお題は政治に否定的な作品が多かったのですが、飯田さんの政治はあくまでやわらかい。
肯定的というよりは、単純にあかるいものへのまなざし。という感じで。

ためらいがちなやさしい王の政治。
ためらいがちでやさしい秩序。
それは、はるの日。



合併の町に小さな政治あり曇硝子を塞ぐポスター
水須ゆき子

政治なんていうと大層なことのように思われるけれど、実は身近にあるものなんですね。
私の住む町も合併の議論がなされた町でした。

「曇硝子を塞ぐポスター」というのが印象的。
曇硝子というのは中が見えないように加工されている硝子なのですが、
そこをさらに見えなくするかのように塞いでしまうポスター。

合併の対象になる町は、そもそもとても小さな町なんですね。
それこそ、国を動かす政治など遠い出来事のような、日々の暮らしが根付く町。
そんな小さな町の閉塞感を感じるような作品です。



あからさまにあかるいあそびあの人をあくまで政治的においつめる
村上きわみ

ちょっと楽しいいじわる。
あの人が苦しむのを見て、ふふふと笑っていられるような。

内容は子悪魔的なのに、「あ」で韻が踏まれていて、とても明るく小気味良い作品。
からっとしているところがスキ。



029:草のうた

2006年11月23日 | 題詠2006感想

埋め草のような仕事で名を知られ食うに困らぬ境遇だとは!
五十嵐きよみ

五十嵐きよみさんの題詠は「ドン・ジョヴァンニはアリアを歌わない」というタイトルで連作となっています。
モーツァルト作曲 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物がそれぞれの立場でうたを詠んでいるという設定で、縦糸(「ドン・ジョヴァンニ」)と横糸(題詠100首の各題)が見事に織り成されています。
こんなこともできるのだと、ただただ眼を見張るばかり。

ただ、お恥ずかしい話、私はもともとオペラになんの知識もないため、あらすじを読んでストーリーを掴もうとするも、どうも心もとないというか、たどたどしい感じで、もっと「ドン・ジョヴァンニ」のことを知っていたら楽しめただろうに。という気持ちもありました。

そんな私にとって、五十嵐さんの題詠で親しみやすかった存在がレポレロでした。
従者という立場が、ジョヴァンニにとても近く、しかしながら第三者的であるので、登場人物やストーリーがうまく掴めていない私にも、まるでト書きのような感じでジョヴァンニの様子を教えてくれるのです。

そんなレポレロが発するこの台詞。
しかも、歌劇という舞台に、短歌で台詞を挿入してしまうなんて!
かっこよすぎる!



草原を青一色でぬりつぶす売れない画家の靴下のよう
富田林薫

ぱぁっと、鮮やかな、鮮やかすぎる、鮮やかすぎて突拍子もない感じの青色が浮かびます。
売れない画家の靴下といえば、そうなんだろうと思います。
妙なとこで自己主張が強いの。アイツ。

草原をぬりつぶすのが、売れない画家を連想させるのかと思いきや、売れない画家の靴下のところまで飛んじゃう突拍子もなさ。
それがまた、妙にあざやかにくっきりと残ります。

らくがきみたいだけど、自己主張だ。



廃屋が草に食べられゆっくりとあるべきものに戻されていく
みち。

廃屋ってときめきます。
朽ちていくものって、どうしてあんなにときめくんだろう。

廃屋が草にさわさわさわとゆっくり侵食されていく。
残されるさびしさとおだやかさ。



今生の最後の月を見るように煙草屋までを並んで歩く
ひぐらしひなつ

ドラマのような光景で、せつないです。

ドラマでは、寂しげなBGMが流れたりするんだろうけれど、
実際は静かな静かな夜の道。



<振り返り>
このあたりは、立ち止まってしまったら、走れなくなる。という恐怖感があり、うまくはまらないお題はとりあえず妥協して詠んだりしちゃってました・・・。

028:おたくうた

2006年11月21日 | 題詠2006感想
また走ります。

お!もう「おたく」まで来た!
なぜか「おたく」のお題はひとつの目安のようでした。私のなかで。
パタパタと立つ旗のようで、とりあえずあそこを目指せ!というような。
目立つお題だからでしょうか。


昼のあいだ星座おたくの少年は動物園で息をしていた
aruka

その頃のおたくというのは、寡黙で、でもひっそりと心をあっためている少年でした。
自分の夢中になれる場所はごくごく狭い夜だけで、
そうではない昼の間はただ息をするだけで、体をこわばらせじっとしているのでした。
それでも、少年は自分の輝く場所をしっていて、だから息をしていられたのでした。

忘れられない1首です。
おたくって、本来こういう少年であったはず。
ちっぽけで愛しいおたく。

今は広くて浅い情報が膨大に溢れすぎていて、こういう愛しいおたくは絶滅寸前ではないのでしょうか・・・悲しいことに。



おおたくさんの楔形文字散りまどひさけてくだけて発芽するかも
謎彦

ブログのほうに飛んで、ふふふふふっと口元がゆるみました。
ほんとうに、「おおたくさんの楔形文字散りまどひさけてくだけて発芽するかも」でした。
楔形文字から、思わぬ広がりを見せつけられた気分です。

それにしても、「散りまどひさけてくだけて発芽するかも」という言い回しはステキ!
見たままを形容したというより、心の広がりからうまれる非常に豊かな形容であるので、ただただ感嘆してしまいます。

謎彦さんの題詠はとても面白いです。
必ずなんらかの画像と並んで詠まれているんのですが・・・・いったいどこから・・・・と思われるような、幅広い方面から画像を持ってこられています。すごい・・・。
レトロなものや、えぇ!?これに注目!?というものから、日常で見かけなさそうな不思議なものから・・・。
これはきっと、謎彦さん独自の着眼点と、博識のなせる業なのでしょう。
しかも、題詠で詠まれた短歌と画像が可笑しな接点で繋がっていて。思わず笑ってしまう。面白すぎる!

あらためて100首。
通して読んで見てみたらかなり頬が緩みまくりでした。



鈍色のフォークふるえば(だい、じょう、ぶ)おたおたくずれ落ちるオニオン
田丸まひる

(だい、じょう、ぶ)とおたおたくずれるオニオンが妙なインパクトで残ってしまいます。絶妙なふるえかた。

個人的にはオニオンスープが浮かんでます。しかも丸ごと1個入ってるやつ。
だって、おたおたくずれ落ちるようなオニオンは、丸ごとを煮込んでとろけんばかりのオニオンに決まってます!
うーん。でもフォークなのかぁ。スプーンではなく。
難しいなぁ。(食べるのが)

まるごと煮込んだオニオンは、とろっとしていて、ぽたぽたと溶けそうで、
(だい、じょう、ぶ)って、おたおたくずれたんだな、って思うのです。
そのおたおたっぷりが浮かぶ。いとしい。
きっとそのオニオン。甘いんだろうなぁ。



<振り返り>
実は、「おたく」にトラウマがあるのは自分自身なのでした。
高校の頃、おたくの悪口を複式呼吸で叫んでいました。(なにそれ)

5首選、よろしくおねがいします。

2006年11月11日 | 題詠2006
「からだにやさしい感情」 ~題詠100首から5首~

同じ土から生えた百合になりそういつしか匂うように親しい

感情がチョウチョのように放たれる流行り病 に浮かされている

アパートの窓辺にいつも富士山がいる 幸福なふたりの陣地

ひとさじの豆乳プリンをくちにふくむ からだにやさしい感情らしい

地下道にこだましている歌声と同じリズムで揺れるピアスで




いつも心の中の冷たさには敏感で、まるで固形物のようにそこにあるのがわかるのに。
心の中の温かさに関しては、ぼんやりとしたままくっきりと形をもたない。
孤独や痛みを言葉にするより、幸福な言葉を紡ぐほうがずっと難しいのではないかと思う。

今回、自分の詠んだ100首のなかで、幸福な感情の歌はとてもとても少なかったので挙げてみました。


中村成志さんの五首選会に参加します。
本来は、選んでいただくために100首のリストを作成するべきなのですが、いろんな思いがありまして、リスト作成は見送りました。
もし5首選してくださる方がいらっしゃいましたら、ご面倒ですがカテゴリ「題詠2006」からご覧ください。ごめんなさい。
よろしくお願い致します。

027:嘘のうた

2006年11月05日 | 題詠2006感想

パステルの淡さでなぞる嘘なのにやさしくなんかなれない夜更け
暮夜 宴

こころがうまく消化できていない様子の夜更け。

この「なぞる」というのは、
相手の嘘を、パステルの淡さでなぞっているのでしょうか。
輪郭もぼかしてしまって。
嘘の存在はわかっているけれど、それをくっきりさせないまま。

けれど「やさしくなんかなれない」と言ってしまうのは、
そこに嘘があることを知ってしまっているからでしょう。

嘘をどこまでもぼかすことまではできても、
それをなかったことにして、やさしくなどはできない。
むしろ、なかったことにできないがために、
パステルほどの淡さで「なぞる」のかも知れないですね。嘘を。

やさしさと、嘘の関係について考えてしまいました。
なんのために嘘をつき、
なんのためにやさしくなるのだろうか、と。



ひとつだけ嘘を許して見送れば 雨の匂いを連れてくる風
青野ことり

こちらは、嘘を許すひとの作品。
「嘘を許して見送れば」とすらりと言えるのが大人です。
ひとつだけ、ですけど。

この作品は、下の句で
「雨の匂いを連れてくる風 」
と繋がるんですね。

ふわっと湿った、雨の匂いを連れてくる風に吹かれる。
その雨の湿気が、まるで流れなかった涙のようにも思えてしまう。

嘘を許したところで幸せになれるということでもなく、
ただただやるせない思い。
湿り気を帯びた雨の匂いを含む風に吹かれ、立ちすくむ。
雨が来たら、泣くかもしれない。



玉葱の皮むき作業するように剥がしても嘘剥がしても嘘
きじとら猫

「剥がしても嘘剥がしても嘘」が頭にこびりつく作品です。
どんどん剥がして剥がしてゆくけれど、見えゆくのは嘘ばかり。
嘘ばかりでどんどん必死になる。本当はどこ?
・・・・途方もない。

玉葱の皮むきに例えられているけれど、涙も一緒に流れるのでしょうね。



ジャンクフード@シブヤの嘘つきな味に飼い馴らされている日々
まほし

ジャンクフード@シブヤ!!カッコイイ!

「嘘つきな味」なんて言いながら、ヤミツキな感じがするのはシブヤの魅力なのでしょうか。
ジャンクフードって、体に良くはないんだろうけど、食べだしたらやめられない味を含んでる。
しかもそんなジャンクフード@シブヤに「飼い馴らされている」と言う。

ジャンクフード@シブヤを歩く彼女は、はっきり感じているのでしょう。
シブヤがジャンクフードであることも、その嘘つきな味にも、自分達が飼い馴らされていることも。
わかっているけれど、だからと言って、そこから抜け出してなにがあるのか。
オトナはなんにも教えてくれない。



026:垂うた

2006年11月04日 | 題詠2006感想
「垂」という歌でまず浮かんだのは

きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本
兵庫ユカ (「七月の心臓」より)

でした。
ユカさんの代表作ともいえる1首。


垂直に立つかなしみをかなしんでかなしみのなか垂直に立つ
飯田篤史

うわー。
飯田さんー、これは参りましたー。(まるで私信のように)

「垂直に立つかなしみ」を知っています。
それでも「かなしみのなか垂直に立つ」のですね。

それは性のようなものかもしれません。
かなしいね。
かなしいけれど、真っ直ぐで、凛としているね。

どうしようもないけれど、
どうしようもないような自分で在り続けること。


私は、垂直なものをすごく憎んでいます。
なぜなら、自分の中に途方もない垂直さが埋まっているからです。

ごめんなさい。ありがとう。(と言いたい。)



ぐうすかのすかとかあたしに垂れているものとかきみはすごくすてきよ
西宮えり

思わず、うふふ。と口元がゆるんでしまいそうな作品。
とても近しい人への油断しきった歌で、でも、でれでれしているというより、ぱっと飛び込む真っ白な光のような作品。

「ぐうすかのすか」もそうだし
「あたしに垂れているもの」もそうだし、
「きみはすごくすてきよ」と言ってしまえるのもそうですね。

無防備に幸福な作品。すごくすてき。



これ以上だれをゆるすの 垂直にふる五月雨にまで責められる
田丸まひる

こころのせめぎあい。
たぶん、ゆるされたいのは、わたしじしん。

垂直な五月雨は、容赦なくふる。



夢のない日暮れの道を垂直に震わせる海鳴り 飢えている
瀧口康嗣

「飢えている」にどきっとして、日常がその言葉で埋まりそうになりました。

「夢のない日暮れの道」
その乾いた道を、垂直に震わせる海鳴り。
まるで、その海鳴りが「飢えている」ことに気づかせてしまうかのように、日暮れの道を、作中主体を震わせる。
結句まで来て、最初の「夢のない日暮れの道」と呼応してゆき、胸が締め付けられる思いがします。
気づかねば良かった感情に、気づいてしまったようで。



025:とんぼのうた

2006年11月04日 | 題詠2006感想
とんぼ。
叙情溢れる景色が浮かびそうですが。
秋の夕暮れのようにしっとりとした言葉が印象的だった作品たち。


今夜みる水辺のゆめはあの夏のとんぼ群れゆくゆめにしましょう
斉藤そよ

「水辺のゆめ」という湿気を含むゆめは、幻想的でありながら、どこか現実味を帯びている気がします。
「とんぼ群れゆくゆめ」という景色がただの風景とはならず、なにか記憶を連れたものに感じるのも、その湿気のせいかもしれません。

また、「ゆめにしましょう」と誘いかける口調が、作品世界をやわらかくしています。
とんぼ群れゆく心象風景へと、いざなってくれそうな。

ひらがなの「ゆめ」という言葉も幻想的な雰囲気を広げている気がします。
そして、湿気を帯びた、とんぼの群れゆくゆめが心にさわさわと広がります。



春は来てかつてとんぼであった風が庭のミモザを揺らして逃げる
やすまる

「かつてとんぼであった風」とさらりと言ってのけていますが、
秋にはとんぼであったものが、春である今は風なのですね。

作者がそれを知っているのは、
風がそっと吹いたとき、とんぼと違わぬ気配のようなものを察したからなのでしょう。
かつてとんぼであった風は、とんぼの頃の軽快な動きを失わぬまま。

庭のミモザの揺れ方が、
春が来たことと、
風がかつてとんぼであったことを教えてくれる。

なにも嘆くことはない。穏やかに季節は巡り巡る。



つぎに逢うときにはとんぼ さざなみの影立つ夕暮れの水に沿う
ひぐらしひなつ

こちらは、「つぎに逢うときにはとんぼ」。
美しい暮れ際の光景にまるで溶けかけていくような、そんな錯覚を抱く作品です。

ひっそりとした「夕暮れの水に沿う」作者(作中主体)にとって、「つぎに逢うときにはとんぼ」という言葉は、ごくごく自然にうまれたもののように思えます。

「さざなみの影立つ夕暮れの水」
なんて静かでひっそりと美しい。
そして、こころまでその夕暮れの色に染まりながら溶け込んでいく。



クルクルリとんぼをよわすそのゆびがきのうわたしをだいたんだって
ヒジリ

こちらは一転して、少女らしい作品。
漢字のない1首が、すこしたどたどしくて、乙女っぽいです。

「とんぼをよわす」ゆびを凝視してしまう。
あなたはそのゆびでわたしをよわす。