埋め草のような仕事で名を知られ食うに困らぬ境遇だとは! 五十嵐きよみ 五十嵐きよみさんの題詠は「ドン・ジョヴァンニはアリアを歌わない」というタイトルで連作となっています。 モーツァルト作曲 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物がそれぞれの立場でうたを詠んでいるという設定で、縦糸(「ドン・ジョヴァンニ」)と横糸(題詠100首の各題)が見事に織り成されています。 こんなこともできるのだと、ただただ眼を見張るばかり。 ただ、お恥ずかしい話、私はもともとオペラになんの知識もないため、あらすじを読んでストーリーを掴もうとするも、どうも心もとないというか、たどたどしい感じで、もっと「ドン・ジョヴァンニ」のことを知っていたら楽しめただろうに。という気持ちもありました。 そんな私にとって、五十嵐さんの題詠で親しみやすかった存在がレポレロでした。 従者という立場が、ジョヴァンニにとても近く、しかしながら第三者的であるので、登場人物やストーリーがうまく掴めていない私にも、まるでト書きのような感じでジョヴァンニの様子を教えてくれるのです。 そんなレポレロが発するこの台詞。 しかも、歌劇という舞台に、短歌で台詞を挿入してしまうなんて! かっこよすぎる! |
草原を青一色でぬりつぶす売れない画家の靴下のよう 富田林薫 ぱぁっと、鮮やかな、鮮やかすぎる、鮮やかすぎて突拍子もない感じの青色が浮かびます。 売れない画家の靴下といえば、そうなんだろうと思います。 妙なとこで自己主張が強いの。アイツ。 草原をぬりつぶすのが、売れない画家を連想させるのかと思いきや、売れない画家の靴下のところまで飛んじゃう突拍子もなさ。 それがまた、妙にあざやかにくっきりと残ります。 らくがきみたいだけど、自己主張だ。 |
廃屋が草に食べられゆっくりとあるべきものに戻されていく みち。 廃屋ってときめきます。 朽ちていくものって、どうしてあんなにときめくんだろう。 廃屋が草にさわさわさわとゆっくり侵食されていく。 残されるさびしさとおだやかさ。 |
今生の最後の月を見るように煙草屋までを並んで歩く ひぐらしひなつ ドラマのような光景で、せつないです。 ドラマでは、寂しげなBGMが流れたりするんだろうけれど、 実際は静かな静かな夜の道。 |
<振り返り>
このあたりは、立ち止まってしまったら、走れなくなる。という恐怖感があり、うまくはまらないお題はとりあえず妥協して詠んだりしちゃってました・・・。
廃屋、ときめきますよねー。
人間がつくったものを食べていく自然を見ていると、やっぱりかなわないって思います。
廃屋好きにはたまりません。
ほんとうゆっくりなのに、確かに蝕み、浄化していくような。
そういえば、みち。さんの撮る写真にもそういうものへの視線を感じます。
普段写真を撮るときもどうしても錆びたものや朽ちたものにカメラを向けてしまいます。
ちなみに遺跡も好きです。
人間が作ったものが壊れていくのが好きなのでしょうか。うーむ。
朽ちゆくものには、さびしさがあるけど、それは必ずしも悲しいさびしさではないような気がします。
みち。さんの言葉も似た雰囲気を持っていますよね。
遺跡といえば、沖縄がお勧めです。行ったことありますか?
(と言っても、私も何年か前に一度しか行ったことないけれど。)
沖縄といえば首里城ですが、私は首里城ではない遺跡をめぐりました。
石の塀や道を残すのみの遺跡に、がじゅまるという木の根っこがうねうねと張っていて、長い長い時間が経ったことを感じさせる場所でした。
まるで天空の城ラピュタの世界のようでしたよ。