花夢

うたうつぶやく

ただ裸になってみたいだけのよる

2006年09月28日 | こぼれ短歌
「ただ裸になってみたいだけのよる」


やくそくを白紙にもどすごちゃごちゃのおもちゃ箱かたづけるみたいに

こうふくをねがっていても生みたての「さよなら」はもうあたたかくない

便箋を汚して終わるただ裸になってみたいだけのよるでは

しあわせの青い鳥ならおとなりの子猫がきのう捕って食べてた

ひとりだけ泣くのははんそくかもしれないはやくおとなになりたい

ひらひらのしあわせを脱ぐ拭っても拭ってもまだ消えない ひとり



星屑ぽえめる
HOSHIKUZU POEMAR SPECIAL EDITION vol.2 収録
しなこさんの絵につけました。2005年制作。

010:桜のうた

2006年09月27日 | 題詠2006感想
桜、大好きです。

桜って、
春の代名詞にもなるし、
咲く、散る風景は絵にも比喩にもなるけれど、
やっぱり、桜らしい桜がいいなぁ。


壜詰めの桜貝たち砂浜に放ちて気づく波の冷たさ
佐田やよい

壜詰めの桜貝・・・よくお土産屋さんで売ってますね。
あれを砂浜に放つのは、とても綺麗な光景のように思えるのですが、
放ったとたんに、波の冷たさに気づいてしまうのですね。

――覆水盆に返らず
――It is no use crying over spilt milk
を想像させられました。
直接的にはそういう意味ではないとは思うのですが、感覚として。そのひやっとした冷たさが。

でも、このひやっとした冷たさは、後悔などというよりも、実感。なのでしょうね。



ほどかれてしんと冷たいてのひらにしずかに満ちる桜の気配
なかはられいこ

あぁ。この空気は、とても好きかも。
桜らしい桜のような気がします。このしずかさ。

桜の花びらが地面で吹き溜まるように
さびしい部分に、桜の気配は満ちていきます。
とてもしずかに。

そして、ほどかれた手はとても敏感なのです。


009:椅子のうた

2006年09月23日 | 題詠2006感想
椅子の短歌といえば、この短歌。


喧嘩喧嘩セックス喧嘩それだけど好きだったんだこのボロい椅子
東直子(『回転ドアは、順番に』より)

このお題のときは、この短歌がぐるぐるぐるぐるまわっていました。


「椅子」が主題といえば、
松谷みよ子「ふたりのイーダ」という物語も好き。
トコトコと椅子が歩く、奇妙で悲しい戦争のお話です。
(題詠でイーダのことを詠んでいる方もいらっしゃいました)



あまおとが死ねと聞こえるバス停に半分朽ちた長椅子がある。
みち。

ハンパじゃない言葉の力に、かなり衝撃を受けました。

この作品に出会って以降、
あまおとを聞けば、死ねと聞こえ、
あまおとを聞かない日は、「あまおとが死ねと聞こえる」という言葉が頭をぐるぐるしている、
そんな日々を過ごすことになりました。

長椅子も、朽ちるね。それは。

東さんの作品といい、このみち。さんの作品といい、椅子ってすごいなー。無限すぎ。



籐椅子で私を編んでいたころの母はひじょうに文学でした
笹井宏之

「私を編んでいたころの母」「母はひじょうに文学でした」
という言葉は、なんとなく不思議なようで、けれどとても自然に受け止めることができました。
編まれているのは「私」で、私を編んでいる母は「文学」。
普通ではない取り合わせのようですが、意外とすんなりと受け入れられるのは、
なにか“私のできるさま”や“文学ってそんざい”が、
「つまりはそういうことだ」と言ってしまえるような、そんなシーンのような気がするからです。

籐椅子でゆったりと母によって編まれる私・・・・不思議なようで、でも、イメージが伝わってきます。うーん。文学です。



今はまだ輝きだしたりしないよう教室の椅子がたがた鳴らす
池田潤

椅子といえば、学校ものの作品も多かったのですが、
学校を舞台にしたもののなかでは、この作品が一番印象的でした。

ここでは、今にも輝きそうな椅子をまだ輝きだしたりしないよう、まるで椅子をたしなめるかのようにがたがた鳴らすんですが、
「がたがた鳴らす」行為自体が、まるで輝く時間を待ち焦がれ、急いている。そんな行為のようにも見えるのです。

椅子も僕らも輝きだすのは放課後だ。



<振り返り>
それまでは、「お題」と言われると、そのお題を中心にしてものごとを考えていたけれど、
このお題により、「お題を脇役として扱う」ことができることに気づいた気がします。

008:親うた

2006年09月23日 | 題詠2006感想
視点が面白い作品ばかりが集まりました。
感じたことなどありましたら、ご意見ください。


親ゆびの指紋の天気図によれば夜はしばらく明けないらしい
かっぱ

親指の指紋が天気図になっていたとは知らなかったのです。
その天気図によって、夜がいつ明けるかわかるなんて、知らなかったのです。

とても面白い発想です。
明けない夜、じっと親指を見つめるのでしょうか。



親指をすり替えられた翌朝にきみのおくまで挿していいのか
みなとけいじ

どうコメントしたらよいのやらと思いながらも、
インパクトの強さから外せませんでした。

独特の空気で、なんと言っていいかわからないんだけれど、
普通の情景ではなさそうなのに突拍子もない感じがあまりしない。
このうたの出来事はまるでふつうにありうることのようにして、
とれなくもない気がしてしまうのです。

親指をすり替えられたのはどうも夜のうちらしい。
「すり替えられた翌朝」って言っているくらいだから、すり替えられたばかり。
(なにがあったんだ・・・。)
(しかも、「すり替えられた」ってことは、自分の意志でもなさそう・・・・。)
そして、もう親指は昨日まであった自分の親指とは違うのね。
同じ親指でも、違うものなのね。
そこで、「いいのか」って問うってことは、
その微妙な差が、実は大きな差なんじゃないかって、気づいているのね。

「きみのおくまで挿していいのか」
疑問系になっていますが、なんとなく、自問自答の空気が漂っている気がします。
「きみ」という言葉は出てきているものの、相手に「いい?」と了解を求めているというより、
うーむ。自分は少し変わってしまったのだけれど、これはどうなのだろうか?
と思っているような感じがします。

この冷静な雰囲気は、戸惑い。なのでしょうか。
そんな戸惑いのなかに、
すこしだけ、自分の欲望と、「きみ」への配慮が交錯しているような気も。



親切なひかりを放つ信号の青に僕らはだまされている
松本響

この少年チックな香りが好きです。
当たり前の世界を疑ってかかるところから始めなければ、「ほんとう」は見れない気がする。

この親切な青色を疑うその姿は、都会で迷子になっている少年のよう。
だまされているものに気づいてゆけ自分で。



ぞんぶんにわたくしたちは親しんだ月も砂漠もしわくちゃにして
なかはられいこ

この激しさに衝撃です。
「月も砂漠もしわくちゃにして」
カッコイイです。
むちゃくちゃのようだけど、むちゃくちゃじゃないような気がします。
ほんとうは、そうなんだよ。愛って。きっと。

ぞんぶんに親しむと、なんでも、しわくちゃになっちゃうのね。
世界をしわくちゃにして愛しあっていく。わたくしたちは。


・・・・・でも。
これは「親しんだ」っていう過去形のうたなんですね。
しわくちゃになっちゃうような親しみ方は、ほんとに夢中で夢中でたまらない一瞬のものなのかもしれない。


007:揺れるうた

2006年09月18日 | 題詠2006感想
揺れるって様々なんですね。
目に見えるもの、目に見えないもの。

そのなかでも、見えているように書かれているけど、実際は見えないような光景がえがかれている。
そんな微妙な揺れを見せているふたつの作品が目に留まりました。


残された時間の中で僕達は何度世界を揺らせるのだろう
松本響

「世界を揺らす」というのはどういう意味なのでしょう。

たとえば、改革や革命というようなことで「世界を揺らす」と言うことができます。
つまり、実際に世界を動かすことに加担する。というような意味合いです。
しかし、ここではそういう意味ではなさそう。

ここに出てくるのは「僕達」
「僕達」が世界を大きく動かすことができるのかといえば、そういうことではなくて。
私は、ここで「僕達」が揺らすのは自分の身の周りにあるものたち(=世界)ではないかと思いました。

たとえば、
ふたりでいるときに、動いた空気が風となったり、コップにある水を揺らしたり、落ちる葉っぱの行く先をちょっとそらしたり。
そんな、ふたりが行動することで少しずつ揺れるもの。
そういった非常に些細なものを見つめている気がします。

うーん、いや。もしかしたら、もっと直接的なことを詠んでいるのかなぁ?

「残された時間の中で」
リミットつきのふたりの時間。
そのリミットも、はっきりとわかっているのか、予感として感じているものなのか、
また、ふたりの歩む結果としての「残された時間」なのか、不可抗力的な「残された時間」なのか、
その辺りが詳しくは書かれていないので、状況をはっきりとは掴むことはできないのですが、
そんな限られた時間の中で、些細な揺れがとても大切でかけがえのないものに思えてくる。
そんな様子がえがかれているように思いました。

「揺らせるのだろう」という疑問系は、同時に、不安でもあるのだと思います。
残された時間が終わることが、そして、その間に、どれだけふたりが同じ時間を共有することができるのか。
そんな刹那的な作品に思いました。



いまちょうど揺れているからだいじょうぶ泣いているけれどだいじょうぶ
村上きわみ

こちらの「揺れている」はまた不思議な「揺れ」です。
目に見える動きなのか、それとも、感情の状態なのか。
この「揺れ」とはいったいなんなんでしょう・・・。

迷いながらも、私は、ここの「揺れ」は、感情の表現のひとつだと思います。
しかし、「揺れ」を感情表現のひとつだとされると、とてもとてもとても難しいラインにあるのですね。

まず、「揺れ」がいいことなのか悪いことなのかで、歌意が変わってきます。

<いいことの場合>
「揺れ」が、ゆりかごのような心地よい揺れで、自分をなだめている状態。
実際の動きである「揺れ」とも取れますが、心を安定させようという試みの「揺れ」になります。
泣いているけれど、だいじょうぶと思わせるのは、その心地よい揺れが存在するから。

「揺れているからだいじょうぶ」と言っているからには、「揺れている」というのはいいことだと取れるのですが・・・・。

<わるいことの場合>
揺れる。というのは、大抵、安定していない状態を指すわけです。「動揺」のような「揺れ」だったり。
だから、もしかしたら、揺れているから泣いているのではないかな。と思ったりもするのです。
けれど「だいじょうぶ」と言ってしまえるのは、まだ完全にどちらかに転んで(決定されて)はいないから。
「揺れている」というのは原因にはなり得ても、まだ結論ではないから。
でも、それが不安でもあるし、「だいじょうぶ」と2回繰り返しているのは、その不安の現れのようにも見えるのです。
まるで言い聞かせているような、強がっているような。


どちらかといえば、私は後者のようなイメージを受けながら、でも、もしかしたらこの中間なのかもしれないなぁ。などと考えています。
その「揺れ」自体が、良い意味と悪い意味両方を兼ね備えていて、だから泣いているけど、だからだいじょうぶ。というような。
なにせ「揺れている」のですから、どちらか一方とは言えないようなきがします。


006:自転車のうた

2006年09月16日 | 題詠2006感想
自転車って青春の王道ですねー。
その中でも好きな色はこれです。


自転車の後ろに乗せるひとがもうわたしではなくなって花冷え
田丸まひる

「花冷え」ってとても綺麗な言葉で好きなんだけど、
綺麗すぎて「効果」だけを狙って使われがちな言葉だと思う。
(私が作歌するときに、よくハマるのですが・・・)

そんななかで、このまひるさんの「花冷え」は収まるべき場所に収まってきたな。
と思わせられる、とても空気感のある作品でした。
この最後の「花冷え」はオチのように最後にパチンと決める。というより、グラデーションの最後の色。って感じがします。
この「花冷え」は、ただ最後に与えられた結果でしかないようなイメージ。

緩やかに温度が変わっていく果ての花冷え。
それが心の温度と連動していて、しずかに、しずかに沁みこんで来ます。



倒されてよりよいかたち見せているわたしの青いよわい自転車
村上きわみ

村上きわみさんの作品は、どれも題との接し方がなにかちょっと違うので、かなり引き寄せられます。
なんなのでしょう。
この「自転車」も、先にとりあげさせていただいた「風」の短歌も、
なにか、もののもつ個々の性格のような雰囲気を捉えているように感じます。

“もの”を詠んでいても、それは単純な“もの”ではないように感じるのですね。
“もの”自身が纏っている濃厚な空気みたいなものを掬っているような気がします。
だから、風も、自転車も、ただの“もの”ではない。
それらは、人間の周りに存在する道具としてではなく、
存在感のあるひとつの“もの”として捉えているように感じます。

世界の接し方がとてもやわらかく、そしてひそやかな重さを帯びているように感じます。



自転車で走る海岸通りこの風景とまだ溶け合えないまま
フワコ

この作品を読んで気づいたのですが、
自転車って、風景と溶け合いやすいものですよね。比較的。
自転車の走る光景ってのはたいてい、絵になるのです。
青春の1ページみたいな。

しかし、ここでは、「風景とまだ溶け合えないまま」と言っています。
自転車で走る海岸通りなんて、とても自転車に似合う風景なのに。
風景と溶け合えない。

こころになにかわだかまりかなにかあるのかなぁ。などと思います。
なにか、その海岸通りを漂う空気と違う空気を自分がまとっていて、
だから、溶け合えないのではないだろうか、と。
こころがなにかに捉われたまま走っているような。そんな印象を受けました。


風景と溶け合えないようなこと、感じることがある気がします。
ひどく落ち込んでいるのに、美しい夕焼けが空にひろがっている日とか。



まったくの余談ですが、
一青窈の「今日わずらい」という歌に
「使い道ない景色」
という歌詞が出てきて、お気に入りのフレーズです。


005:並うた

2006年09月10日 | 題詠2006感想
並の歌はとても、とても悩みました。
身近な言葉ほど難しいのだと、思い知らされた題でした。

ああでもない、こうでもないと、短歌を作っては消し、作っては消している過程で、題詠の皆さんの作品を読んでいました。
その時に、目にとまった作品がこの二つでした。


未来都市博物館の片隅にアルカリ性の埴輪が並ぶ
松本響

この異質な感じ。
冷たい感じの未来都市博物館。
そこには過去の遺物があって、でもそれはアルカリ性で、未来的な産物になってしまってる。
埴輪は異様だ。なにが異様だって、過去の遺物のくせに、未来的な顔をしている。

この作品は、過去と未来が混沌と混ざっていて、埴輪の奇妙さを浮き立たせ、とても独特の不思議な空気が漂っているように思います。
個人的に好きな空気です。




実は、この異様な埴輪はどっかで見たことがある気がしていて。
以前からこういう奇妙な温度を放ったものが好きで、そういうものを求めて図書館に通っていた時期があって、その時に出会っていた。ような気がする。

あれは・・・・あれは、そう・・・・・

『夜の子どもたち』 芝田勝茂・作 小林敏也・画
こいつ!



おもいきり殺ってください。テーブルに並べられてるひよこ饅頭
みあ

なんかもう、ひよこ饅頭が可愛いのです。
ぴよぴよと並べられていて。
一口で食べてやろうか、それともあたまからガブッといこうか!?

「並」という文字でぐるぐる悩んでいる自分がおかしく感じるほど、
あっさりと、とても自然に「並」の文字を使ってあるのが、とても印象的でした。
しかも、テーブルに並べられてるひよこ饅頭の愛らしさ。



<振り返り>
このお題はかなりかなり悩みいろんな光景を書いては消したのですが、最終的にぽんっと出てきたものを詠みました。
生みの苦しみと、面白さが混じったような体験でした。

004:キッチンのうた

2006年09月03日 | 題詠2006感想
キッチンって、近い言葉のようで、実はあまりなじみがない気がする。
台所のほうが身近かも。
私はイメージだけで詠んでしまったので失敗でした。

そんななか、情景に「キッチン」がするりと自然に入り込んでいると感じた作品です。


ふりだしにもどってしまうぼくたちの最後もファーストキッチンで雨
小軌みつき

言葉の旋律が流れるようでとてもステキ。

最後なのにファースト
ふりだしにもどる日なのに雨
ぴったりとはいかないものごとの隙間を織り交ぜながら、
作為的なものを感じさせないような滑らかな文字列。

いろんなものの狭間をさらりと流して、最後に体言止めでストンと落とされる。
かなりオシャレな作品だと思いました。
そして、最後に「雨」が残るので、すこしさみしい余韻なのです。



なげつけて死ぬはずだったものたちもやわらかく煮る白いキッチン
末松さくや

なげつけて死ぬはずだったものたち。
きっと負の感情なんだろうな。
感情にまかせてぐちゃぐちゃにしてしまうはずだったものたちを、やわらかく煮てくれる場所。白いキッチン。
なんだか、こころの浄化する場所を感じました。
その白さがまぶしいのです。



朝の光線に包まれるキッチンの野菜達はいまふっと笑う
kitten

野菜達の無敵っぽさがかっこよかったのですが、誤投稿?だったのでしょうか?



<振り返り>
題詠100首は、当初、ひとつのテーマで100首を詠んでみたいな。と思っていて、ひっそりとテーマを持って書いていたのですが、このあたりで、挫折しました・・・。(早いよ)

003:手紙のうた

2006年09月02日 | 題詠2006感想
手紙は立ち止まらせる力を持った作品が多くどうしよう。って感じでした。
掴まれてしまった。


砂浜にこわれてしまったきみがいて砂に手紙をずっと書いてる
aruka

忘れられない絵本の1ページみたいです。
波にさらわれても書き続けるのかしら。ずっと、ずっと。



母からの手紙はいつも頼りなくみの字が泳ぐ 帰れないのよ
水須ゆき子

とても深い色をしているので、通り過ぎることができませんでした。
みの字が泳いでいる手紙は、どんな内容なんだろう。
頼りなく泳ぐ「みの字」と「帰れないのよ」が引っ張りあいっこをしています。
その糸の心細さ。でも、きっと切れないのだろうな。



青インクの魚になって逢ひにゆく夜の手紙は滲んで届く
ふふふふふふふ

手紙の青いインクが滲んで魚の形になる。
自分がそのインクの魚となって、手紙の中にこっそり紛れて逢いにゆく。
そんな光景を思い浮かべました。

・・・・それとも。
青インク自体が海(もしくは湖)で、
そこに自分が魚となって、もぐりこんでいるのでしょうか。
滲んだ手紙のインクの海(または湖)の中にひっそり潜んでいる。

前者だと、開封したときに相手に見つかりやすいですが、
後者であったら、開封してもただインクの海が広がるばかり。
・・・でも、「青インクの魚」だから、やっぱり前者でしょうか。

ブルーの美しい絵本のようで、視覚的にひきつけられました。
青と夜がまた滲んでいて、境界線がなくなっているような雰囲気。



さくら舞ふ便箋 ありがたうとしか書けぬ手紙をまた反故にする
丹羽まゆみ

ありがとうとしか書けない手紙。
心当たりがありました。

ありがたうとしか書けぬことへの、その深い重みと、その意味のなさ、を。

さくら舞う便箋の奥ゆかしいピンク色が浮かんで、
反故にしてしまったその気持ちをすこしだけ慰めてくれます。



あたたかい言葉まみれの決別の手紙ちいさくちいさくたたむ
田丸まひる

「ちいさくちいさくたたむ」にやられてしまった私です。
この手紙は誰かに届けるため、というよりも、ちいさくちいさくたたむために書かれたみたい。
決別の手紙に「あたたかい言葉まみれ」というのもすごいですね。
その温度って、がむしゃらにあたたかいものをぶつけた感じだ。
でも、最後は、ちいさくちいさくたたむ、のね。ちゃんと。

<補足>
「あたたかい言葉まみれの決別の手紙」はもらったものと捉えている方が多いみたいです。
しかし、私は「あたたかい言葉まみれの決別の手紙」を出す。のだと捉えていました。
手紙を「出す」という実際に変化を起こす行為を明記せず、「ちいさくちいさくたたむ」という目先のことに視線を落としているのが面白いと感じていました。



きもちわるい私の部屋がきもちわるい手紙ばかりで埋めつくされる
西宮えり

きもちわるいの連発で、なにがきもちわるいのかもわからないのに、
確かにきもちわるいものが私の部屋にも、私にも、手紙にも、手紙の言葉にも、私の言葉にも、含まれているみたいです。



002:指のうた

2006年09月01日 | 題詠2006感想
感想のページを読みやすくしようとしていたらどんどんややこしいことになってきてしまいました。
この忍耐はどこまで続くんでしょう・・・・。


さみしいと言えばどこまで伸びて来るあなたの指の爪の冷たさ
水須ゆき子

さみしさを助けてくれる指なのかと思えば、そうではなく、そのひんやりとした温度が好きです。
さみしさを知って伸びてくるあなたの指。でも、感じるのはその指の冷たさ。なんですね。
どこまでもひとつになれない。そして、どこまでも埋められることのないさみしさ。



こんなにもうみがとおくにみえるからこのまま指をつないでほしい
飯田篤史

飯田篤史さんの短歌は、どれもとても叙情的でほんわりとします。
すべてをひらがなのやわらかい世界に落とし、紡がれている感じ。
「手をつなぐ」のではなく、「指をつなぐ」というたどたどしさがステキ。
ただ「うみがとおくにみえる」と言うだけなんだけど、そのなんとない心細さが、指先の心もとなさに繋がっている気がします。



その指はどういう風に私を狂わせそして捨てるのだろう
nao-p♪

指ひとつに凝縮されてしまって参りました。

予感みたいな、怖いみたいな、でも抜けられなくなりそうな。

とても静かなようで、冷静なようで、
けれど、自分でも捉えることのできない感情と、予感に満ち満ちていて。
冷やりとドキドキするのです。



<振り返り>
この題詠はコミュニケーションのとりやすいブログが利用されているおかげで、走り始めて早々、この「指」の短歌をはじめとして感想を頂けるようになりました。
このことは私が題詠100首を完走できた理由にもなりました。
感想をくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

しかし、この頃は「見られている」ということに嬉しさを感じながら、同時にかなりのプレッシャーを感じていました。
15首ぐらいまでは、かなり人目を気にしながら不安定なものをふらふらと詠んでいます。