花夢

うたうつぶやく

026:垂うた

2006年11月04日 | 題詠2006感想
「垂」という歌でまず浮かんだのは

きっと血のように栞を垂らしてるあなたに貸したままのあの本
兵庫ユカ (「七月の心臓」より)

でした。
ユカさんの代表作ともいえる1首。


垂直に立つかなしみをかなしんでかなしみのなか垂直に立つ
飯田篤史

うわー。
飯田さんー、これは参りましたー。(まるで私信のように)

「垂直に立つかなしみ」を知っています。
それでも「かなしみのなか垂直に立つ」のですね。

それは性のようなものかもしれません。
かなしいね。
かなしいけれど、真っ直ぐで、凛としているね。

どうしようもないけれど、
どうしようもないような自分で在り続けること。


私は、垂直なものをすごく憎んでいます。
なぜなら、自分の中に途方もない垂直さが埋まっているからです。

ごめんなさい。ありがとう。(と言いたい。)



ぐうすかのすかとかあたしに垂れているものとかきみはすごくすてきよ
西宮えり

思わず、うふふ。と口元がゆるんでしまいそうな作品。
とても近しい人への油断しきった歌で、でも、でれでれしているというより、ぱっと飛び込む真っ白な光のような作品。

「ぐうすかのすか」もそうだし
「あたしに垂れているもの」もそうだし、
「きみはすごくすてきよ」と言ってしまえるのもそうですね。

無防備に幸福な作品。すごくすてき。



これ以上だれをゆるすの 垂直にふる五月雨にまで責められる
田丸まひる

こころのせめぎあい。
たぶん、ゆるされたいのは、わたしじしん。

垂直な五月雨は、容赦なくふる。



夢のない日暮れの道を垂直に震わせる海鳴り 飢えている
瀧口康嗣

「飢えている」にどきっとして、日常がその言葉で埋まりそうになりました。

「夢のない日暮れの道」
その乾いた道を、垂直に震わせる海鳴り。
まるで、その海鳴りが「飢えている」ことに気づかせてしまうかのように、日暮れの道を、作中主体を震わせる。
結句まで来て、最初の「夢のない日暮れの道」と呼応してゆき、胸が締め付けられる思いがします。
気づかねば良かった感情に、気づいてしまったようで。



025:とんぼのうた

2006年11月04日 | 題詠2006感想
とんぼ。
叙情溢れる景色が浮かびそうですが。
秋の夕暮れのようにしっとりとした言葉が印象的だった作品たち。


今夜みる水辺のゆめはあの夏のとんぼ群れゆくゆめにしましょう
斉藤そよ

「水辺のゆめ」という湿気を含むゆめは、幻想的でありながら、どこか現実味を帯びている気がします。
「とんぼ群れゆくゆめ」という景色がただの風景とはならず、なにか記憶を連れたものに感じるのも、その湿気のせいかもしれません。

また、「ゆめにしましょう」と誘いかける口調が、作品世界をやわらかくしています。
とんぼ群れゆく心象風景へと、いざなってくれそうな。

ひらがなの「ゆめ」という言葉も幻想的な雰囲気を広げている気がします。
そして、湿気を帯びた、とんぼの群れゆくゆめが心にさわさわと広がります。



春は来てかつてとんぼであった風が庭のミモザを揺らして逃げる
やすまる

「かつてとんぼであった風」とさらりと言ってのけていますが、
秋にはとんぼであったものが、春である今は風なのですね。

作者がそれを知っているのは、
風がそっと吹いたとき、とんぼと違わぬ気配のようなものを察したからなのでしょう。
かつてとんぼであった風は、とんぼの頃の軽快な動きを失わぬまま。

庭のミモザの揺れ方が、
春が来たことと、
風がかつてとんぼであったことを教えてくれる。

なにも嘆くことはない。穏やかに季節は巡り巡る。



つぎに逢うときにはとんぼ さざなみの影立つ夕暮れの水に沿う
ひぐらしひなつ

こちらは、「つぎに逢うときにはとんぼ」。
美しい暮れ際の光景にまるで溶けかけていくような、そんな錯覚を抱く作品です。

ひっそりとした「夕暮れの水に沿う」作者(作中主体)にとって、「つぎに逢うときにはとんぼ」という言葉は、ごくごく自然にうまれたもののように思えます。

「さざなみの影立つ夕暮れの水」
なんて静かでひっそりと美しい。
そして、こころまでその夕暮れの色に染まりながら溶け込んでいく。



クルクルリとんぼをよわすそのゆびがきのうわたしをだいたんだって
ヒジリ

こちらは一転して、少女らしい作品。
漢字のない1首が、すこしたどたどしくて、乙女っぽいです。

「とんぼをよわす」ゆびを凝視してしまう。
あなたはそのゆびでわたしをよわす。