花夢

うたうつぶやく

039:乙女うた

2006年12月21日 | 題詠2006感想
乙女らしい乙女を探しました。
美化しちゃイヤだ。


もう二度とあの日の空に戻れない乙女ごころを3文で売る
暮夜 宴

これぞ、乙女。と思いました。

「乙女ごころを3文で売る」
この潔さ、強さは、本物の乙女。と思います。
決して、かよわいだけの生き物ではない。
そう。乙女って、こういうものだと思うのです。

だって、
もう二度とあの日の空に戻れないのだもの。

失ってしまったもの。戻れないところ。
もう自分の手に入らないのであれば、乙女ごころだって3文で売ってしまえる。
手放したって怖くない。
あの日の空に戻れぬのなら、意味をなさない。
失うものは、もうなにもない。

そのひたむきさ。迷いのなさ。
乙女以外のなにものでもないように思います。



歯に風を感じていると乙女座のあるべき場所に盛り塩がある
我妻俊樹

なんだかわからないのだけれど、とてもとても気になった作品。

どうとっかかっていいのかわからないのですが、多分、そのわからなさがパワーのような気がします。

なんだか、汚れた下町っぽい場所で、神聖な異物(盛り塩)を見つけた気分です。なんでだ。



炭酸の泡がのぼって消えていくくらいの乙女心がほしい
ゆづ

可愛い。乙女ちゃんな作品。
炭酸の泡。ってところが、乙女の小道具で、しゅわしゅわです。

乙女心は、ほんのりと。
刹那的なのがいいの。



夢なんかみたくもないし乙女とか呼ばれたくない十七の夏
瀧村小奈生

十七の夏は、どっぷり乙女な時期ですね。
夢なんかみたくないあたり。乙女とか呼ばれたくないあたり。

このころは、どんなにヤンチャでも、夢を見なくても、乙女でいられた時期に思います。
か弱いものが嫌いで、自由奔放で、だからいろんなものに反発できたのだけれど、それこそが乙女の証だったように思います。

大人になってしまったら、抵抗はおろか、肯定することだって簡単には敵わないのだから。


038:灯のうた

2006年12月17日 | 題詠2006感想
灯のお題。読んでいる過程で、気になるけれどうまく掴めないという作品も多かったです。
自分がどこまで向き合うことができるのか、試されているような気がしました。


ゆうぐれの土手にほのかな黄を灯しタンポポじっと待つだけの花
みあ

やさしい情景。
黄を灯すタンポポがゆうぐれの土手という舞台でほのかに輝いていて、とてもステキ。

タンポポじっと待つだけの花

タンポポは待ち焦がれて、待ち焦がれて、
でも、最後は、待ちきれなくなって、
綿毛になって飛んでゆくの。



息ひそめ灯りを持たず降りてゆく深層心理のCの階段
クロエ

これは、誰かの心なのでしょうか。
それとも、自分の心なのでしょうか。

「深層心理のCの階段」
階級がCということでしょうから、結構な深さとうかがえます。
きっと、真っ暗で、普段では見えないところ。

そこへ、息ひそめ灯りを持たず降りてゆく。
真っ暗な、人の心の奥底で、見つかるものはなんなのでしょう。



さりさりと貴方の骨を噛みながら蒼い灯(ともしび)みたいに泣いた
ことら

「貴方の骨を噛みながら」という部分の意味はよくわからなかったのですが、「さりさり」という骨を噛む音が、奇妙な静けさを保っています。
その静けさのなか「蒼い灯(ともしび)みたいに泣いた 」という部分が、非常に心に残りました。
炎は、高温のものほど青くなるといいます。
そんな蒼い灯のように、熱く、静かに。



囲われて漸く灯る揺れる身が心にもなく生きなきやと言ふ
yurury**

「囲われて漸く灯る」という自分自身。
囲われなければ、おそらく消えてしまうほどにかそけき身。
囲われてもなお「揺れる身」である自分自身。

けれど、それは「生きなきやと言ふ」へと、繋がっていきます。
どっしりと。

「心にもなく」と言っていますが、では、なにが「生きなきや」と言わせたのか。
それは、まさに「囲われて漸く揺れる身」自身だと思うのです。
心ではなく、身体のほうが、「生きなきや」と、消えそうに、揺れながら、それでも言うのです。

人間は、蝋燭の灯火のように、弱くて、強い。


037:花びらのうた

2006年12月16日 | 題詠2006感想
「花びら」といえば、やはり、桜の花びらを連想される方が多いかな。と思いました。
私もまた、そうでした。

ただ、花びら=桜ではないんですよね。


どんどん絞れなくなってきているのですが、
自分のキャパシティーも結構いっぱいいっぱい。
息切れしかかっていますが、皆さんの作品はこれからますます勢いを増す予感。


坂道をころがるひかりひとひらの花びらそして君のまなざし
暮夜 宴

言葉がころころと連鎖的にころがっていて、心地よいです。
「ひかりひとひらの花びら」というH音の多用が、言葉をひらひらと舞わせている気がします。

坂道をくだって、ひかりから、花びらを経由し、最後に着地する場所が君のまなざし。
まるで舞い散る花びらのようにひらひらと視点がうつり、最後に、春のようにほんわりとしたストーリーを感じさせる場所へ。
華麗で、とても明るい作品です。



花びらとわたしを呼んだその声に毟られたくてわざと震える
ハナ

ハナさんの作品は、まぎれもなく女性の詠む歌。

毟られたいと思うのも、わざと震えるのも、
なんて女性らしい美しい作品でしょう。
どきっとするくらいに。
ぞくっとするくらいに。

女は、可憐さと、強かさが共存しているんです。



やはらかき花びらにふれ指先は指先であることに気がつく
野良ゆうき

花びらって、薄くて軽くてやわらかい。
自分がほんとうに触れたのかどうかわからなくなるほどに。

そんな花びらという対象に触れることで、普段より、より繊細に指先は触れるということを意識する。
花びらがあまりにも空気に近い存在なので、花びらに触れるとき、指先は花びらを自覚するより、自分の指先を自覚してしまうのですね。

とてもとても繊細。
まるで空気の振動のように、そっと。
花びらと指先でしか紡げない繊細な感覚。



花びらが舗道を埋めているけれど昨日と同じ電車で僕は
クロエ

花びらが舗道を埋める景色。
これは、きっと桜の花びらでしょうね。
桜の花びらで敷き詰められた、とても美しい道。

けれど、そんな舗道を尻目に、作中主体は行かなければならない。
昨日と同じ電車で。

日常はすでに完成されていて、立ち止まる時間も与えられていない。
同じリズムで、進んでゆく日常。外れることすら敵わぬ日常。

「昨日と同じ電車で僕は」
途中で切られているような終わり方が、
後ろ髪を引かれているような、気がかりな気持ちをほんのりと抱えながらも、今日もまた、顔をあげていつもの日常に飛び込んでいく姿に見えます。


大学時代、通っていた電車から見えていた、とても綺麗な桜並木を思い出しました。
川沿いの、舗装されていない小さな道に桜が咲いていて。川に落ちた花びらがとても綺麗で。
けれど、その場所はどうしたって降りることのない駅にあったので、いつも電車の窓から見るだけで、通り過ぎることしかできませんでした。
あのときのことを思い出しました。

結局、私は、在学中に4回めぐった春のなかで、我慢できずにその駅を降りて桜並木を歩きましたが。
あの頃の私には、自由な時間がいっぱい転がっていました。



花びらで数えて決めた運命と僕らがすれ違ってゆく夏
内田誠

好き・きらい・好き・きらい の花うらない
そのうらないの導いた運命に従ったのか、従わなかったのか、
僕らはすれ違ってゆく。

花うらないをしたのは、おそらく春。
そして、すれ違ってゆく夏。

季節も、想いも、僕らも移り変わってゆく。



春風に舞う花びらをひざの上で
開げたノートに閉じ込めて立つ

文月万里

この花びらも桜のはなびらでしょうね。
一読して、鮮やかに情景の浮かぶ作品でした。

ゆるやかな空気にまどろみながらノートを広げていたのでしょう。
そのノートに目を落としていたけれど、はっと意識を取り戻し、没頭していた世界から日常に返り、どこかにむかうために立つ。
没頭していた自分の世界から日常に返る様子が、ノートを閉じて立つという行為によってパチっと切りかわっています。
そして、その瞬間、春の空気も一緒にノートに閉じ込められているのですね。ごくごく自然に。

春の穏やかさ、清々しさの伝わってくる作品です。



036:組うた

2006年12月11日 | 題詠2006感想
目に止まる作品がいっぱいあって、収集がつかなくなってきます。
このところ、どんどん選べなくなってきています・・・。

かなりいろいろと惹かれました。
ここに載せなかったものでも、まだ気になっているものはあるのですが・・・。
とりあえず、パチンと濃く気になったものだけを残しました。


かたくなに拒めばこばむほど枠組みをはみでるわたしの向日葵のこと
小軌みつき

向日葵の大きさ、明るさが、うわっと迫ってきます。
たぶん、向日葵はとても肯定的な花だと思います。
これでもかというくらい、目立つ黄色の花弁を大きく広げ、太陽に向かって咲く向日葵。
なにかを守ろうとしているものにとっては、まぶしすぎるほどに。明るすぎるほどに。

無条件に肯定的な存在を拒もうとするのは、そこに、手放しにしていられない守りたいものがあるからでしょう。
それが「枠組み」となり、作中主体を囲っている。
けれど、拒もうとすればするほど、向日葵は自分の心に広がっていく。
拒もうとしていること自体が、その存在をはっきりと意識してしまっているということだから。

心のなかは、きっと、いろんなものが絡み合い、せめぎあっているのでしょう。
けれど、そのなかにうわっと嫌でも広がる向日葵は、いつしか「わたしの」という所有格となっています。
いつのまにか、心の中には、そのまっさらで肯定的な向日葵がしっかり根付き、枠組みをはみ出しながらも「わたしの」一部となって咲いているのではないでしょうか。



遺伝子の組み換えよりも複雑な心の微分積分を解け
松本響

うわー。なんてこと!と思いました。
通りで解けないわけです。
難問・・・・というより、不可解な領域。
ふつーの人にとっては。

しかし、その難解さを「解け」と目の前にばっと投げられた感じ。カッコイイ。

響さんの作品には、時折、学校で習う用語がぽろぽろと出てきて、私はそれがとても好きなのです。
学校で習う用語は、たいてい、その意味や、その使い方、教室以外ではなにひとつ役にたちません。
けれど、響さんは、それを街中のあちこちに放り投げ、散りばめることで、教室で得られない別の「答え」を導こうとしているように思います。



全身の皮下組織には広がって青い匂いがそれから消える
やすまる

一瞬、ん?と思いましたが、野暮を承知で、少し継ぎ足すと・・・・
全身の皮下組織には(○○○が)広がって青い匂いが(広がって)それから消える
という意味なのでしょう。

ここに入る主語(○○○)とは、なんなのでしょう。

全身の皮下組織に広がるもの。青い匂いが広がるもの。

ただ、わかることは、なにかの感情の一種だ。ということです。
いや、むしろ名づけられぬ感情ゆえに、こういう形になったのかもしれません。
全身の皮下組織に広がり、青い匂いを放ち、消えていくもの。

そこに、うれしいとか、悲しいとか、せつないとか、そういうものは付随せず、ただ、そういう“感覚”に似たものが通りぬける。
そういう瞬間を切り取られたような気がします。



神様がぼくらを組み立てたときに願ったことが思い出せない
みち。

神様は、ぼくらを組み立てたのか。と思いました。
なんだか、レゴみたい。「作った」と言われるより、不思議な感覚。
私たちは、説明書つきで、いろんなパーツを寄せ集め組み立てられたものだったのか。

そして、そこに願いがあったのか。

組み立てられていたことすら、忘れていた。
そこに願いがあったのかどうなのか、私はもう覚えていないらしい。



<振り返り>
遊び心にのって、ここから4首は春夏秋冬を詠みこんでみました。
(みつきさんに気づいてもらえて嬉しかったです。笑)
お題をふたつ盛り込むような感じで、季節の雰囲気が出るような歌を。という試みでした。

035:株のうた

2006年12月08日 | 題詠2006感想
「株」のお題は、植物の根株のことと、株式のことにわかれていました。

植物みっつと、株式ふたつ、お借りしました。


切り株に触れれば柔らかに湿り諳んじられるお祈りがある
斉藤そよ

この切り株は、ひっそりと苔のはった、湿り気のある切り株のような気がします。
その切り株の湿り気が、お祈りの湿り気へとすっと移動していく。

諳んじられるお祈り。
きっと、自然とくちをついて出ていくような、そんな静かな重みをもつ言葉なのでしょう。

切り株の持つ空気と、お祈りとなる言葉の空気は、どちらも柔らかに湿り、しっとりと濃厚な空気でそこにいるひとを包みこむように思います。


ブログに飛んで、わー!ってなりました。
写真がかわいいですー。
リサだ!リサが切り株にいるよー!(有頂天)



一株から庭で増やした野いちごが疎まれていた 春は終りだ
やすまる

野いちごという存在が好きです。
なんであんなに無造作に宝石のような実をつけるんだろう。

そんな野いちごを一株とってきて、庭で増やす。
ステキな庭のようにも、荒れた庭のようにも見えることでしょう。
庭で育つとしても、自由奔放に伸びる野いちご。

「疎まれていた」というのが、果たして誰からなのか。それはなぜなのか。
それはまったくわかりませんが、なんとなく“はっ”とした感じがします。
そして、一拍置いたのちに、「春は終わりだ」と。

はっとした後の落胆・・・と言ってしまえば、すこし平らな表現な気がします。
広がるだけ広がった世界の前で、予期せぬ思いに足元がぐらつき、佇んでしまっているような。
そんな空気を感じました。



切り株の、そこだけがとてもあかるくて待ってなさいと言われて待った
村上きわみ

凛としている、きわみさんの言葉。
「待ってなさいと言われて待った」
有無を言わせない、あがらいがたい、なにか。

切り株の、そこだけがとてもあかるい。
そのあかるさがぱぁっと残って、佇むことも、また――。



株式化された僕等の終値はしずかに夜の街に流れる
内田誠

「上がった」だの、「下がった」だの、株式化され、日々変動し、存在価値の定まることがない僕等の生活。

今日一日は、どんな感情を抱いて終えた?

今日、最後に残された感情と、すこしの疲れが、夜の街で冷やされている。

うーん。カッコイイ作品です。



果物がおやつに入らないとしても株取引はギャンブルだろう
保井香

アハハハハ。
そうかも、です。株取引はギャンブルだと思います。(笑)

果物(主にバナナ)がおやつに入るか入らないかが、遠足のときになると必ず問われてきたように、
株取引だって、ちゃんとした投資活動なのか、ギャンブルなのかなんて、わかったもんじゃないんです。

「株取引はギャンブルだろう」と、さも当たり前のように言っているところがとても可笑しい。
バナナがおやつに入るか入らないかよりも、ずっと簡単にわかる問題のようで。


034:シャンプーのうた

2006年12月04日 | 題詠2006感想
うーん。うーん。シャンプーはいろいろすぎて迷ってしまいました。
迷いのままに、シャンプーの泡のようにぽわぽわ読みます。


特売のシャンプーまみれ特別に愛されたとか譫言まみれ
ハナ

特売のシャンプーというお手軽さが、日常にまみれている感じ。
「譫言」と言ってしまっているから、きっと、感じているのでしょうね。
熱に浮かされているような感情に。
泡にまみれ、今日一日のいろんな感情にまみれて。

そして、さいごにさっと洗い流すの。



今ごろは別の誰かのシャンプーの香りを褒めているのでしょうか
五十嵐きよみ

女ったらし(と言ってしまっていい?)のドン・ジョヴァンニ!!
これを詠んだ女性はせつなく、胸のしめつけられる思いだと思うのですが、女友達だったら、間違いなく「そんな男はやめなさい!」と言うでしょうね~。

先日、ラジオで、「男性は“シャンプーの香りが好き派”と“香水の香りが好き派”にわかれる。」と言われているのを聞きました。
ドン・ジョヴァンニは香水派ではなく、シャンプー派でしょうか。
なんて。

物語と現実がごっちゃになって身近に感じられて面白かったです。



つい同じシャンプーなんか使ってるうちに家族になってしまった
水須ゆき子

いつのまにか、つい、うっかりって雰囲気だけれど。
そんなふうにゆるやかに家族になれていたら、いいなぁ。なんて思います。



ハミングもされなくなってひとり湯に忘れられゆくシャンプーの歌
斉藤そよ

忘れられゆくシャンプーの歌に対してのさみしさというより、ハミングのなくなったひとり湯に思いを馳せてしまいました。
おふろは一番、こころの無防備な場所かもしれません。



はつなつはマジシャンプードル犬たちはふんふんふんと空をお散歩
あおゆき

はつなつはマジシャン/プードル犬たちはふんふんふんと空をお散歩
という切り方で良いのでしょうか?

「マジシャンプードル」というのも面白いと思いましたが・・・・。
大胆で面白い題の詠みこみかたです。

プードル犬って雲っぽいから、ふんふんふんと空をお散歩していてもあまり違和感なさそう。
なので、すんなりと、可愛いイラストのような光景がぽわわんと浮かびました。



シャンプーをしている君のくちびるがドナルドみたいで また好きになる
彼方

ドナルドみたいなくちびる。可愛い。
そういうところを見てしまうと、いとしく思っちゃいますね。(笑)

ディズニーランドにドナルドの顔のマグカップが売っていました。くちだけが出っ張っていて可愛いのです。
お勧めです。プレゼントしてあげて!