浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

紡績会社のこと

2018-03-28 07:02:51 | その他

 以前、このブログにひどい親ほど・・・を書いた。

 そのなかに、近藤紡績という単語を入れた(HPにアクセスしたら、Don`think,feelという文字を見つけた、Do not think,work.の間違いではないかと思った)。

 今日、そこで働いていた方からコメントが来ていた。

 近藤紡績浜松工場、今は「イオン市野」となっていて、昔、ここで少女たちが働いていたことを知る人は少なくなっているはずだ。

 私はこの工場の内部を知っている。

 当時の労働基準法は、女性の深夜労働が禁止されていた。午前5時から午後10時までは働かせることができるが、それ以外の時間は働かせてはいけない。

 少女たちは、朝5時から13時45分まで働く早番と、13時45分から夜10時30分まで働く後番とに分かれていた。おそらく10時からの30分は何らかの工作が行われていたのだろう(詳しくは、それを記した資料を見なければならないが、今それを調べる余裕はない)。

 ところが、この工場は、4時55分から機械を始動させていた。女子労働者は、したがって、4時55分には自分が任されている「台」の前に立たなければならない。しかしおそらくこの5分間は、ただ働きだ。それをずっと続けていた近藤紡績。

 浜松市には当時、近藤紡績の他に、東棉紡(その敷地はイトーヨーカドーとなり、イトーヨーカドーが撤退した後はコストコ等になっている)、東洋紡(雄踏街道拡張によりなくなった)があった。

 そのなかで、労働環境のもっとも悪いのが近藤紡績であった。

 そこで働く若年女子労働者は、4年制の定時制高校、昼間2交代制の高校に通っていた。そういう高校は、静岡県西部には、浜松城南高校、磐田南高校、新居高校があった。城南だけが単独校で、他は併設であった。いずれも2交代で働く繊維産業で働く女子労働者が通う高校であった。

 彼女たちは、概して貧しく、地元の高校に行けないから全寮制の紡績工場で働き、高校に通った。高校卒業の資格を取得したいために、過酷な労働に耐えながら、高校に通った。4年間、ある週は朝眠い目をこすりながら起床し、ある週は深夜まで働いた。

 4年間が終わり、彼女たちは卒業を迎える。ところが、高校卒業と同時に社会に旅立つことは阻止される。一度に退職したら、工場が困るからだ。だから、「会社、やめさせてくれない」という。

 退職の自由すらも、彼女たちにはなかった。退職させないために、彼女たちが貯金していた社内預金、それをおろさせない。労基法違反である。まだまだ労働法制を知らない彼女たちを、思う存分働かせていた。

 戦前の「女工哀史」は、戦後も存続していたのである。

 しかし、彼女たちが生活し、通っていた学校は、今は残っていない。彼女たちの青春の思い出は、繊維産業の衰退と共に消されていった。

 日本の支配層は、いらなくなったら消す、のだ。そういう社会に、私たちは生きている。

 【追記】 この問題については何度か書いている。ここをクリック

 

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3 コメント

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Unknown (春山桂)
2019-03-13 00:54:51
私もずっと昔近藤紡績で働いてました
早番は朝5時から
遅番は13時45分から
休憩は45分ありました
返信する
こんな動画ありました (Unknown)
2020-02-24 21:26:46
https://www.youtube.com/watch?v=fN46z_tT7rQ
返信する
Unknown (とまえ)
2021-05-27 20:58:04
私も 4年働いて
いましたよ
いま 思うと
良く 働いて
学校に 行ったなーと
返信する

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