わたしが会員となっている研究会で、丸山真男をとりあげるという。
今パソコンを打つ右側の書棚には、『丸山真男集』全巻があるし、『戦中と戦後の間』、『現代政治の思想と行動』なども並んでいる。それだけではなく、座談、回顧談などもある。もちろん、『日本の思想』(岩波新書)もある。とにかく丸山真男に関する本は、『現代思想』の臨時増刊号など、たくさんある。なぜそんなに揃えているのかというと、丸山真男の「「である」ことと「する」こと」に、青春期に読み、考えさせられたことがあるからだ。
それは高校時代、「現代国語」の教科書に載っていた。『日本の思想』にもそれが載っているが、わたしはそれを何度も読んできた。かなり影響されたといってもよい。そしてそれからは、「「する」こと」を重視しながら生きてきた。
昨年わたしは、歴史講座のなかで、丸山真男について話したことがある。そしたら、丸山真男ってどんな人なんですか、という質問がなされた。丸山真男を知らない人がいるのだと、その時わたしは驚いた。しかし、よく考えてみると、丸山を知っているのが当たり前という世界と、丸山なんて聞いたこともないという世界があるということ、なのだ。
ある種の「知的世界」(丸山の語彙でもある)に生活している人と、そうでない人がいて、その世界は併存している。本来なら、それぞれの世界は溶けあっていなければいけないのであるが、なかなかそうはいかない。逆に現代は、それぞれの世界が大きく乖離しているのではないかと思う。
その乖離状態を見据えながら、わたしは歴史講座で話をしている。
わたしも会員である研究会は、当初、市民生活の場と「知的世界」との融合を図るためにつくられたと記憶している。
丸山真男をとりあげるなら、丸山真男という人間を知らない、という人びととどのようにつながるのか、ということも問わなければならない。しかし研究会は、おそらくアカデミックな議論で終始することであろう。