物理学者の武谷三男氏は「人権としての学問」ということばを発している。戦時下、学生も、もちろんふつうの人々も、学問へのアクセスを禁じられ、また抑圧された。だから学問へアクセスする権利としての、「人権としての学問」を提唱したのだ。
学生や一般の人々が、学問したいという要求をもとに、学問にアクセスしようとする。もちろん自学自習ができないわけではないが、より専門的な研究をしている人から学ぶ、あるいは同じ問題意識を共有している人々と議論し合う、そういう場も必要である。学問は、一人でも可能ではあるが、学問に関わる人々と交流することにより、学問の質は向上するはずである。
ところが、専門的な研究をしている人のなかには、あきらかに学力が劣る人がいる。これは驚くべきことだ。大学の教員というと、少なくとも、大学を卒業し、大学院に進み、少なくとも修士論文などを書いてきたはずである。にもかかわらず、その人が書いているものを読んでみると、何が書かれているのか意味不明、日本語の文章になっていない。
なぜ彼は大学の教員になれたのかを考えると、その背景には、ある政治的立場が存在しているのではないかということが推測できる。ある政治的立場にあるということだけで、同じ政治的立場の人々の間で認めあってしまうのである。その人が本当の学力を持っているかは問わないのである。
私はそういう人をふたり知っている。研究者としての力をもっていないけれども、研究者となっている人。
学生や一般の人々が「人権としての学問」を追究する際、人権の行使を本来手助けしなければならない人にその力がない。なんという悲劇であることか。
そういう人から送られてくる原稿は、私の関係する研究会などの会報には載せられないほどのものだ。しかし、載せなくてはならないので、その原稿を大幅に手直しして載せる。研究会のレベルが疑われるような文章は載せたくはないので、大幅に直すのである。しかし不思議なことに、修正しても、それが修正されたものであることに本人は気付かない。なぜ気付かないのか、私にはわからない、不思議だ。ふたりとも、まったく気付かないのだ。
「人権としての学問」ということを考えると、そういう方々には「学問の世界」から去っていただきたいと思う。
学生や一般の人々が、学問したいという要求をもとに、学問にアクセスしようとする。もちろん自学自習ができないわけではないが、より専門的な研究をしている人から学ぶ、あるいは同じ問題意識を共有している人々と議論し合う、そういう場も必要である。学問は、一人でも可能ではあるが、学問に関わる人々と交流することにより、学問の質は向上するはずである。
ところが、専門的な研究をしている人のなかには、あきらかに学力が劣る人がいる。これは驚くべきことだ。大学の教員というと、少なくとも、大学を卒業し、大学院に進み、少なくとも修士論文などを書いてきたはずである。にもかかわらず、その人が書いているものを読んでみると、何が書かれているのか意味不明、日本語の文章になっていない。
なぜ彼は大学の教員になれたのかを考えると、その背景には、ある政治的立場が存在しているのではないかということが推測できる。ある政治的立場にあるということだけで、同じ政治的立場の人々の間で認めあってしまうのである。その人が本当の学力を持っているかは問わないのである。
私はそういう人をふたり知っている。研究者としての力をもっていないけれども、研究者となっている人。
学生や一般の人々が「人権としての学問」を追究する際、人権の行使を本来手助けしなければならない人にその力がない。なんという悲劇であることか。
そういう人から送られてくる原稿は、私の関係する研究会などの会報には載せられないほどのものだ。しかし、載せなくてはならないので、その原稿を大幅に手直しして載せる。研究会のレベルが疑われるような文章は載せたくはないので、大幅に直すのである。しかし不思議なことに、修正しても、それが修正されたものであることに本人は気付かない。なぜ気付かないのか、私にはわからない、不思議だ。ふたりとも、まったく気付かないのだ。
「人権としての学問」ということを考えると、そういう方々には「学問の世界」から去っていただきたいと思う。