浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

人権としての学問

2017-11-02 22:43:49 | その他
 物理学者の武谷三男氏は「人権としての学問」ということばを発している。戦時下、学生も、もちろんふつうの人々も、学問へのアクセスを禁じられ、また抑圧された。だから学問へアクセスする権利としての、「人権としての学問」を提唱したのだ。

 学生や一般の人々が、学問したいという要求をもとに、学問にアクセスしようとする。もちろん自学自習ができないわけではないが、より専門的な研究をしている人から学ぶ、あるいは同じ問題意識を共有している人々と議論し合う、そういう場も必要である。学問は、一人でも可能ではあるが、学問に関わる人々と交流することにより、学問の質は向上するはずである。

 ところが、専門的な研究をしている人のなかには、あきらかに学力が劣る人がいる。これは驚くべきことだ。大学の教員というと、少なくとも、大学を卒業し、大学院に進み、少なくとも修士論文などを書いてきたはずである。にもかかわらず、その人が書いているものを読んでみると、何が書かれているのか意味不明、日本語の文章になっていない。

 なぜ彼は大学の教員になれたのかを考えると、その背景には、ある政治的立場が存在しているのではないかということが推測できる。ある政治的立場にあるということだけで、同じ政治的立場の人々の間で認めあってしまうのである。その人が本当の学力を持っているかは問わないのである。

 私はそういう人をふたり知っている。研究者としての力をもっていないけれども、研究者となっている人。

 学生や一般の人々が「人権としての学問」を追究する際、人権の行使を本来手助けしなければならない人にその力がない。なんという悲劇であることか。

 そういう人から送られてくる原稿は、私の関係する研究会などの会報には載せられないほどのものだ。しかし、載せなくてはならないので、その原稿を大幅に手直しして載せる。研究会のレベルが疑われるような文章は載せたくはないので、大幅に直すのである。しかし不思議なことに、修正しても、それが修正されたものであることに本人は気付かない。なぜ気付かないのか、私にはわからない、不思議だ。ふたりとも、まったく気付かないのだ。

 「人権としての学問」ということを考えると、そういう方々には「学問の世界」から去っていただきたいと思う。

 
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今日の「中日春秋」

2017-11-02 19:32:58 | その他
 今日の「中日春秋」は秀逸。

セイタカアワダチソウは、傍若無人な気配を漂わす植物である。福島第一原発で汚染された田園地帯を行けば、この草が、そこかしこで一面に生い茂っている。何世代にもわたり耕し続けた労苦が、無に帰してしまったような光景だ

▼稲垣栄洋・静岡大学教授の『たたかう植物』(ちくま新書)によると、日本では二、三メートルにもなり、他の草を圧倒するようなセイタカアワダチソウも、原産地の北米の原野では、大繁殖することはなく、背丈も一メートルに満たないほどだという

▼この草は根から出す毒性物質で、ライバルたちの生育を邪魔する。原産地では周囲の植物も防御策を発達させることで均衡が取られているが、日本の在来種にとっては未知の敵。それで共生が崩れ「一強多弱」になりがちだというのだ

▼そんな歪んだ植生を思わせるのが、今のこの国の政治ではないか。きのう特別国会が召集されたが、一強の自民党はこれまでの国会の慣例を変え、野党の質問時間を大幅に減らそうとしている。それが首相が繰り返し口にしてきた「謙虚」「丁寧」なのだろうか

▼セイタカアワダチソウに話を戻せば、この強力な草も最近は勢いを陰らせているそうだ。原因の一つとして考えられるのは、自家中毒。独り勝ちを重ねた末、自らの毒に毒されるようになってしまったという

▼一強多弱とは、強者にとっても危ういものなのだ。
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『みぎわ』57を読む

2017-11-02 11:43:09 | その他
 今日の朝刊、第一面は座間での大量殺人事件、その隣はNew Yorkでのテロ。何とも悲惨な事件である。人間の尊厳を踏みにじる蛮行としかいいようがない。後者は、ムスリムの仕業である。犯人は、「神は偉大なり」と叫んだそうだ。ムスリムのテロリストは、ほとんどこのことばを叫ぶようだ。

 私は、イスラム教には大いなる欠陥があると思う。それはスンニ派とシーア派が、相互に殺し合うからだ。同じ宗教同士でこうしたことを行う宗教には内在的な欠陥があるのではないか。

 もちろん殺し合うことなく、平穏な生活を望み、そうした生活をしている多くのムスリムがいることも事実である。だからイスラム全てがダメだという気はまったくないが、殺し合うことのないように、両派は話し合いをし、共存の努力をするべきだと思うのだが、そうした報道はない。

 さて、無教会派のキリスト者の『みぎを』を読み終えた。とはいえ、『聖書』の解説に関わるところには理解できないことが多い。

 『みぎわ』に書いている方々が、『聖書』のどういうところを参照しているかをみるとき、そこにその人の人間性が示されているように思う。こういう言い方をすると怒られるかもしれないが、それぞれの人があって『聖書』があるという気がしてならない。『聖書』から何を学び取るのかは、それぞれの人に任されている。学び取る側の人間の主体性が、そこに出現している。『聖書』があってその人があるのではなく、その人があって後に『聖書』がある、というように思えるのだ。

 昔職場の同僚に、無教会派ではないクリスチャンがいた。彼は毎日曜日教会に通う敬虔なるクリスチャンではあったが、日常生活においては驚くべき利己主義者であった。

 さて、キリスト教愛真高校の教員をされていた方の文を読んだ。なかなか含蓄のある内容が記されていた。なかにこういう記述があった。

 「良心に従い、判断し行動する、これができるか否かで、その人が判断されます。神の前に立つか、それとも人間の側に立つかが問われるのです」

 良心=神ということであろうが、これは非キリスト者である私にも思い当たることで、私も心の中の良心にしたがって判断するが、私の場合はそこに神が介在しないということだ。

 また「社会に出てすぐに役に立つ知識や技術などと最も遠いと思われる学びをすることが、実は人間にとって重要な意味を持っているのです。それが人間存在に深みを与え、人間としての価値を蓄積する」という文に、まったく同感する。文科省による教育課程の変化は、そうしたものをそぎ落とすものとして展開してきた。現在の日本の困難は、そういうところからも生まれていると思う。

 山形県の方の手記は悲痛である。息子さんが自死されたということで、その悲しみは想像できないほどだ。私にも子どもがいるが、子どもに唯一言っていることは、私より先に死ぬな、である。子どもの死を決して体験したくはない。

 反戦主義者・末永敏事という方がいたことを教えられた。その本を読もうと思う。

 石原さんの詩。ここにでている父とは、正一氏のことだ。正一氏から毎年送られてくる年賀状には、平和に関する『聖書』からの引用が記されていた。後年、溝口先生のはからいでお会いできたが、とてもすばらしい方であった。父の、軍隊時代の上官であった。正一氏も、昇天された。

 デンマーク牧場の牛舎改築のことが記されていた。1000万円の寄付金募集に私も参加したが、読んでいたら、「一新したのは牛舎の一部」だということだ。毎年少しずつ「一新」されていけばよい。毎年少しずつなら、寄付に応じようと思う。

 最後に。新井奥𨗉のことが記されていた。新井が開いていた塾には、田中正造だけではなく、いろいろな人がその薫陶を受けていた。1923年に虐殺された伊藤野枝が通った上野高等女学校の教頭も、その塾出身であった。そこで野枝は、自治と友愛、実学という自由な教育を受けた。そして新井もキリスト者であった。

 他にも教えられたことがたくさんある。線を引き、付箋をつけ、書き込みもした。

 相模原市の障害者殺傷事件にふれたものもあった。この世に生まれた者は、すべて皆「生きてごらん」といわれて、生まれてきたのである。I was bornなのだ。受け身で誕生したのである。この世に生まれたくて生まれてきたのではない。この世で「生きてごらん」ということで、この世で皆生きているのである。

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