浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

鶴見俊輔(1)

2017-11-04 22:18:37 | その他
 鶴見俊輔が亡くなったのは、2015年。『現代思想』は、その年に「鶴見俊輔」という臨時増刊号を編んで発刊した。私もそれを購入してあった。今それを読んでいる。

 伊藤野枝の講演が終わったので、それを読みはじめている。例によって赤線を引きながら、付箋をつけていく方法である。読みはじめて付箋の数が増えるばかりである。

 鶴見の本はあんがい読んできている。書棚をみれば鶴見の本や鶴見が編集した本はどっさりある。読んだものもあるし、読んでないものもある。

 『現代思想』の臨時増刊号を読んでいると、鶴見の思想はきちんと読んでおいたほうがよいという気持ちになる。

 私は高校時代にベ平連の活動をしていた関係で、その頃から小田実ともに鶴見の書いたものを読んできた。きっと私の思想には、小田や鶴見の思想が織り込まれているはずだ。

 高橋武智の文に、ベ平連とは何だったのかについて、こう記されていた。

 「国家に呑み込まれない人」、「国家のいう通りにならない人」、「国家から自立しようとする人」とあった。

 そうだな、そういう志向をもっていたし、今も同じだ。

 海老坂武の文には、鶴見のこのことばが記されていた。

 私たちは国家指導者ほどの悪をなしえないことの故に、私たちのほうが倫理的に優位に立っている。

 政治家に対して、私は間違いなく倫理的優越性を保っている。確かに、私は彼らほど悪事を働いていない。悪事をまったく働いてこなかったといえる自信は私にはないが、しかし政治権力に少しも関与していない私には、大きな悪はなし得ない。

 海老坂は、このことばを「抵抗のバリケードの礎」だと書いている。

 国家権力に異議を立てる政治家に、いろいろな「悪事」があばかれたりした。しかしその「悪事」は、「国家指導者ほどの悪」ではない。

 「悪」には、プライベートな悪とパブリックな悪とがある。後者の方の悪が勝ると私は思っている。
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自宅に車が・・・

2017-11-04 20:12:12 | その他
わが家の裏はアパートの駐車場になっている。先ほど、フェンスを壊して車が飛び込んできた。壁にヒビが入り、2階のトイレからでているパイプが壊された。

 原因は、アクセルとブレーキを踏み間違えたとのこと。もちろん運転していた方は高齢者。

 2階のトイレが使えなくなった。

 ニュースで高齢者の車の飛び込み事故がしばしば報じられているが、まさか自宅に飛び込んでくるとは・・・!!

 高齢者には、クラッチ、チェンジの車しか乗れないようにすれば、こうした事故は防ぐことができるのではないかと思う。ただその場合、クラッチの踏み込みを軽くすることが必要だ。

 私はオートマティック車が好きではなかったので、ずっとクラッチ・チェンジ付きの車に乗っていた。あるとき、左の足を捻挫してしまい、その際クラッチの踏み込みになかなかの力が必要であることを実感し、それ以後オートマティック車にかえたのである。

 高齢者が車に乗り始めたとき、オートマ車はなかったから、誰でも運転できるはずだ。

 しかしこういう事故が我が身に降りかかると、精神的に落ち込んでしまう。
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出過ぎた杭は打たれない

2017-11-04 12:30:18 | その他
 大阪府立高校は、凄まじい人権侵害を行っている。今日の『中日新聞』の「特報」欄。大阪府羽曳野市府立懐風館高校について「茶色の地毛 黒染め強要」という記事。

 地毛が茶色であるにもかかわらず、黒く染めさせ、不十分だとさらに染めさせ、驚くことに、黒くしないなら学校に来る必要はない、などといわれ、さらには文化祭、修学旅行に参加させず、名簿から名前を消した、というのだ。

 人権侵害の典型的な例である。

 そもそも私は、学校に制服があることが問題だと思っていた。

 高校時代、今まで自由であったオーバーコート(最近の高校生は着ないようだが)が、女子にはグレーの一種類、男子には黒か茶の色にせよという規制が発表された。当時高校2年生であった私は生徒会の一員としてこの規制に反対し、生徒会内にコート規制問題小委員会を設け、校内アンケートを実施したり、生徒課の教員と話し合ったりし、最終的にはこの規制を撤回させた。1年生の女子が購入を強いられたコートが不良品でもあったことから、その業者に補償について話し合いをしに行ったりもした。

 小委員会の委員長であった私は、『蛍雪時代』に載っていた高校生宛にアンケートを行った。どんなコートを着るかは、生徒の自由になっている高校があちこちにあった。それらの高校には、そもそも制服はなかった。私は、東京都や長野県の制服がない高校をうらやましく思った記憶がある。

 制服ではなく、私服にしたい、服は「表現の自由」の範疇であるというのが、当時の私の認識でもあり、今もそう思っている。

 もちろん髪をどうするかは個人の自由である。しかし私は、髪を金髪や茶髪に染めるという風潮には反対である。なぜわざわざそんな色にするのか。その背後に、理由なき西洋崇拝があると思うのだ。欧米人みなが茶髪や金髪ではなく、地中海地方には白人であっても黒髪も多い。そして世界では、黒髪が圧倒的に多いのだ。

 また髪の色もそうだが、スカート丈など、ある種の流行に高校生が呑まれているという風潮にも問題があると思う。日本は、「みんな一緒」が好きである。学校でもそう指導する。だから、ある種の流行が始まると呑まれてしまうのだ。

 流行に呑まれない「個」の確立をめざした教育を展開すればいのに、学校は「みんな一緒」の教育を強制し、そこから外れた子どもを排除する。

 「みんな一緒」というのは、日本の「国民性」でもあるというが、私はそんなの糞食らえだと思って生きてきた。自由に生きる、それが悪いのか、と居直ろう。

 出る杭は打たれる、出過ぎた杭は打たれない。出過ぎちゃえばいいのだ。日本社会は、そういう社会なのだ。

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