今日図書館に行ったら、予約していた本が届いていた。そのなかに、堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社)があった。
堀川の本は、永山則夫に関する本を今までも読んでいて、その内容にはいつも心の底から揺り動かされる。
今日は雨。畑にも行けないため読み始めたら、次々と浮かび上がる活字の束が、私に襲いかかる。読まずにはいられない。本の方が、私を離そうとしないのだ。それで一気に読んでしまった。
この本には、八田をはじめとして、たくさんの人のことが記されている。その人々が生きた治安維持法体制下の時代、そこには無数の生きにくさが壁のように立ちふさがった。人々はその時代であったからこそ、きわめて限られた選択肢しかなかった。その時代に生きた人々の苦しさを、読みながら、私は彼らの生を「体験」していった。
私は八田元夫となり、俳優の丸山定夫になり、そして三好十郎になり・・・・・・・そして著者の思いに深く共感した。
桜隊は、演劇集団である。演劇界は、軍国主義体制下、厳しい弾圧に遭った。演劇人の多くは、治安維持法により監獄へと送られた。また上演する劇の内容にも厳しい制限が加えられた。
アメリカのノーベル文学賞受賞者のユージン・オニールの『初恋』。当局は、「日本で親子の情というものは天皇と臣民の関係である、それなのに舞台では親子がまるで親友の如く会話をし、恋愛問題についてまで話し合っている、これは日本の家族制度さらには国体を破壊するものだ。
長田秀雄の『大仏開眼』は、奴隷的な存在が大仏を建造するために使役されている、日本では天皇の御稜威によって奴隷というものは存在しない。
村山知義はこの2作を演出したが、それにより監獄へ。
アジア太平洋戦争が劇化するなか、劇場での上演はできなくなり、国策に則り、帝国臣民の戦意を高揚させるために戦意高揚の劇を、全国各地を歩いて上演せざるを得なくなった。
桜隊は、広島にいた、そして、8月6日を迎え、原爆に遭遇した。八田は、俳優の丸山が病気になったので、その代役をもとめて東京にいて被爆しなかった。演出家であった八田は、すぐに広島へ行き、桜隊のメンバーをさがしてあるきまわった。運良く即死することなく逃げることができた隊員もいたが、結局放射能により全員が亡くなった。
八田は、桜隊全員死亡という事態を正面から見つめ、戦争責任について考える。
木下順二は、戦争責任を考える人間の有り様は、三つあるという(340ページ)。「自分の罪を積極的に忘れるもの、自分の罪を忘れようとするもの、痛みを忘れずに常に反芻して生きるもの」。八田は最後の「もの」である。
だがしかし、本当に戦争責任がある者たちは、「戦争責任って何?」という態度である。戦争責任ということばすら、彼らの脳裏には浮かばない。彼らは、ただ戦争責任を追及されたくないから、それを証明する文書を、ひたすら、ただひたすら、燃やし続けたのである。
かくて、戦争責任は雲散霧消し、それが前例となり、いかなる事態が起きても、支配層は責任をとらない。福島原発事故を見ればよい。
著者の、この本を著す意味が痛いほどわかる。
演劇人が、不当に弾圧され、戦時体制下に苦しめられたような時代が、そこに来ているから。
この本は、絶対に(私はこのことばをほとんどつかわないのだが)、読むべきものである。
この本には、桜隊の人々の「無念」が描かれているからだ。その「無念」を知らなければならぬ。
堀川の本は、永山則夫に関する本を今までも読んでいて、その内容にはいつも心の底から揺り動かされる。
今日は雨。畑にも行けないため読み始めたら、次々と浮かび上がる活字の束が、私に襲いかかる。読まずにはいられない。本の方が、私を離そうとしないのだ。それで一気に読んでしまった。
この本には、八田をはじめとして、たくさんの人のことが記されている。その人々が生きた治安維持法体制下の時代、そこには無数の生きにくさが壁のように立ちふさがった。人々はその時代であったからこそ、きわめて限られた選択肢しかなかった。その時代に生きた人々の苦しさを、読みながら、私は彼らの生を「体験」していった。
私は八田元夫となり、俳優の丸山定夫になり、そして三好十郎になり・・・・・・・そして著者の思いに深く共感した。
桜隊は、演劇集団である。演劇界は、軍国主義体制下、厳しい弾圧に遭った。演劇人の多くは、治安維持法により監獄へと送られた。また上演する劇の内容にも厳しい制限が加えられた。
アメリカのノーベル文学賞受賞者のユージン・オニールの『初恋』。当局は、「日本で親子の情というものは天皇と臣民の関係である、それなのに舞台では親子がまるで親友の如く会話をし、恋愛問題についてまで話し合っている、これは日本の家族制度さらには国体を破壊するものだ。
長田秀雄の『大仏開眼』は、奴隷的な存在が大仏を建造するために使役されている、日本では天皇の御稜威によって奴隷というものは存在しない。
村山知義はこの2作を演出したが、それにより監獄へ。
アジア太平洋戦争が劇化するなか、劇場での上演はできなくなり、国策に則り、帝国臣民の戦意を高揚させるために戦意高揚の劇を、全国各地を歩いて上演せざるを得なくなった。
桜隊は、広島にいた、そして、8月6日を迎え、原爆に遭遇した。八田は、俳優の丸山が病気になったので、その代役をもとめて東京にいて被爆しなかった。演出家であった八田は、すぐに広島へ行き、桜隊のメンバーをさがしてあるきまわった。運良く即死することなく逃げることができた隊員もいたが、結局放射能により全員が亡くなった。
八田は、桜隊全員死亡という事態を正面から見つめ、戦争責任について考える。
木下順二は、戦争責任を考える人間の有り様は、三つあるという(340ページ)。「自分の罪を積極的に忘れるもの、自分の罪を忘れようとするもの、痛みを忘れずに常に反芻して生きるもの」。八田は最後の「もの」である。
だがしかし、本当に戦争責任がある者たちは、「戦争責任って何?」という態度である。戦争責任ということばすら、彼らの脳裏には浮かばない。彼らは、ただ戦争責任を追及されたくないから、それを証明する文書を、ひたすら、ただひたすら、燃やし続けたのである。
かくて、戦争責任は雲散霧消し、それが前例となり、いかなる事態が起きても、支配層は責任をとらない。福島原発事故を見ればよい。
著者の、この本を著す意味が痛いほどわかる。
演劇人が、不当に弾圧され、戦時体制下に苦しめられたような時代が、そこに来ているから。
この本は、絶対に(私はこのことばをほとんどつかわないのだが)、読むべきものである。
この本には、桜隊の人々の「無念」が描かれているからだ。その「無念」を知らなければならぬ。