中国貴州省で日本語教師

2007年春~2009年春、青年海外協力隊

期末試験

2007年06月26日 | Weblog

今日は自分を褒めます。マジメモードです。

一日中、自分の講座の期末試験をやった。私と一対一で話す口頭試験で、全57人。

感想。
三十代の今、この仕事を始めてよかった。今まで、色々なことに傷つきながら生きてきてよかった。

日本語の会話力をみる試験なので、全員が力を発揮できるように、話を引き出す。緊張している人にはこちらの態度や言葉数をコントロールする。最初のほうに受けた人と後半の人とで不公平にならないように、質問数と内容を調整する。返答で使われる文型と語彙を予測して、レベルに応じた質問を与える。その場で考えた言葉ではなさそうだったら混ぜ返す質問をする。全員に対して常にリラックスした態度で話を聞く。

5分という短い時間を計りながら、あいづちを打ち、相手にしっかり向き合いながら、これだけのことを同時に考えている自分に気づいた。

終わった後、さほど疲れていないので、6時間のテープを半分ほど聴きなおし、5項目(発音、文法、語彙、答えの適切さ、流暢さ)×2の成績をつけ終えたところだ。
10年前の自分だったらとてもできなかったと思う。どうやら成長しているらしい。

相手の話を促し、全身全霊を傾けて聴きながら、先生として評価する客観的な自分も保っている状態は、心理カウンセラーのようだなと思った。こんなことなら、苦しい経験をするたびに本格的にカウンセリングを受けて彼等のワザを盗んでおけばよかったかも・・・なんて思ったりした。

この2ヶ月間、学生たちと話していて気づいたことがある。
言葉が不自由だと、相手の表情、口調、態度にとても敏感になる。
まるで片想いの人と話すように。

だから私はいつも心穏やかでいたいと思う。
話す人が安心して話せるように。
外国語を話したいという気持を受け容れたいと思う。

人間だから不調な時や疲れている時もあるけれど、年をとって、自分の態度をコントロールできるようになった気がする。コントロールできないときは、相手に貴方のせいではないよと分かる言葉を伝えるか、一人になって自分を守る注意深さを身につけたような。理想主義だろうか?完璧主義だろうか?

もう一つ気づいたことがある。
それは、喜怒哀楽がはっきりしていて、日本語が不自由だと「幼い」という印象を受けがちだけど、それは錯覚なんじゃないかということ。感情表現の濃淡を大人らしさの基準にするなら、それは日本の色眼鏡で異文化を見ることになるかもしれない。彼等は19歳なり20歳なりに大人だ。子供のような日本語を話しても、大人として尊重する態度を忘れないようにしたいと思った。まあ、私のほうが時々バカみたいに子供だからなんだけど・・・