2月8日に記事にした大沢池越しに見えた大覚寺にも寄ってみました。
表門 銅葺屋根の緑青が雪の白さで目立っています
真言宗大覚寺派大本山である大覚寺の前身は、平安時代、都より離れた葛野の地を愛された嵯峨天皇が、后との新居として建立された嵯峨院です。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交深く、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経され、この般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられており、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、「いけばな嵯峨御流」は、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まっていて、お寺に接して「嵯峨華道専門学校」があります。
勅使門
貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王は、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継ぎ、嵯峨院を大覚寺と号しました。
その後、鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれました。南北朝時代には、南朝の上皇が大覚寺にお住まいになられたことから、南朝は大覚寺統と呼ばれました。
建物は火災や応仁の乱によりほとんどの堂を焼失しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
このように、大覚寺は皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院で、あちこちに菊の御紋を見ることができます。
表門 銅葺屋根の緑青が雪の白さで目立っています
真言宗大覚寺派大本山である大覚寺の前身は、平安時代、都より離れた葛野の地を愛された嵯峨天皇が、后との新居として建立された嵯峨院です。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交深く、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経され、この般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられており、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、「いけばな嵯峨御流」は、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まっていて、お寺に接して「嵯峨華道専門学校」があります。
勅使門
貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王は、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継ぎ、嵯峨院を大覚寺と号しました。
その後、鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれました。南北朝時代には、南朝の上皇が大覚寺にお住まいになられたことから、南朝は大覚寺統と呼ばれました。
建物は火災や応仁の乱によりほとんどの堂を焼失しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
このように、大覚寺は皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院で、あちこちに菊の御紋を見ることができます。
菊形の最中なんかは16と区別するため15ですよね。
ちょうど、11月ごろだったかな?
大覚寺では嵯峨菊の展示会やってました。
ボテッとした菊じゃなくって、
糸のように細い花弁でした。
細くもじゃもじゃと咲いてるようで
ちょっと変わってるな?と思ったモンでした
もう、何十年も前のことです。
お庭の植木に積もった雪が、まぶしく見えます