そよかぜ日記

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町石道周辺散歩

2015年02月22日 | 歴史探訪

 世界遺産に登録されている「紀伊山地の霊場と参詣道」、今回も前回の京・大阪道に続き、高野山への参詣道に関する所を歩きました。 コースは、南海高野線の「上古沢」駅をスタートに、古峠から丹生都比売(にうつひめ)神社に寄り、六本杉から町石道(ちょういしみち)の一部を歩き、丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社と慈尊院に寄り、南海高野線「九度山」駅までとしました。

● 丹生都比売神社




 「丹」は朱を意味します。 朱砂(朱色の硫化水銀)は、有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて水に難溶な水銀化合物からなり、適度な低毒性を持つため、古代には古墳の棺の内部に塗られるなど、古来より防腐剤を兼ねた赤色(朱色)の顔料として使用されています。 漆器に使用される朱漆や朱墨の原料なども朱砂です。 なお、朱砂は中国湖南省辰州の産地名から、辰砂とも呼ばれています。
 「丹生」は朱の生じる所、つまり朱砂の鉱脈のある所であり、丹生都比売神社は、全国のそのような所にある丹生神社の総本社です。
 空海は、朱砂の価値をよく認識しており、高野山を選んだ理由の1つは朱砂にあるとも言われています。 丹生都比売神社は、高野山への入り口にあたる場所にあり、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしであったということです。

● 町石道


 町石は、高野山を起点として、慈尊院に至る高野山の表参道約22kmに、1町(約109m)毎に道標として建てられています。 弘法大師開山の頃は木製の卒塔婆だったようですが、鎌倉時代に高さ3m強の五輪卒塔婆形の石柱に変えられています。 この石柱の8割以上は建立当時のものが残っていますが、老朽化したものは、上の写真のように、その近くに新しい石柱が建てられています。

         紀の川を背景に

● 慈尊院



 慈尊院は、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした寺です。 上の写真の中央に見える石段は、丹生官省符神社に続いています。
 慈尊院は、空海の母が息子の開いた高野山を一目見ようとやって来た時、当時の高野山内は女人禁制であったため、ここに滞在して信仰の日々を送ったことでも知られています。 慈尊院のある「九度山」の地名は、空海がひと月に9度も町石道を通って政所の母を訪ねてきたことからということです。

● 丹生官省符神社



 高野山の領する官省符荘(不輸租を認められた荘園)の鎮守のため、空海によって創建されたと伝えられている神社です。