そよかぜ日記

写真、メモ、日常のできごと etc. 拡大できる写真も、あちこちに

写真の合成② 飛び立つセグロセキレイ

2010年02月22日 | 写真
フリーのレタッチソフト「JTrim」を使った写真の合成、前回は暗い画素を優先したカワセミの合成写真を載せましたが、今回は「透明度を指定して合成」してみました。
セグロセキレイが飛び立つイメージを、セグロセキレイの気持ちを想像して1枚の写真に表現しようとしたのですが、どうでしょうか。


写真の合成① カワセミのダイビング

2010年02月20日 | 写真
たくさんの写真を加工するソフトがあり、フリーソフトにも優れたものが多くあります。
私は昔からの慣れた「JTrim」を愛用しています。
このソフトも機能が豊富で、そのうちの1つに写真を合成する機能があります。JTrimのメニューからは「編集」の「合成」を選ぶのですが、合成方法もいろいろです。

下は3/40秒間隔で撮った写真を、「暗い画素優先」で重ねて合成したものです。
カワセミが水中の餌を狙って飛び出した後、羽をピタッとたたんで放物線を描いて自由落下し、水面近くで羽を広げてブレーキをかけて狙いを修正する様子が分かります。



「そよ風のなかで」では、このカワセミの行動をGIFアニメにして載せています。
  
  こちら

大覚寺

2010年02月11日 | 旅行
2月8日に記事にした大沢池越しに見えた大覚寺にも寄ってみました。


  表門 銅葺屋根の緑青が雪の白さで目立っています

真言宗大覚寺派大本山である大覚寺の前身は、平安時代、都より離れた葛野の地を愛された嵯峨天皇が、后との新居として建立された嵯峨院です。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交深く、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経され、この般若心経は、現在も大覚寺心経殿に伝えられており、現在も般若心経の根本道場として多くの人々に親しまれています。また、「いけばな嵯峨御流」は、嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けられたことに始まっていて、お寺に接して「嵯峨華道専門学校」があります。


  勅使門

貞観18年(876)、嵯峨天皇の長女・正子内親王は、嵯峨天皇と弘法大師の親交と理想を受け継ぎ、嵯峨院を大覚寺と号しました。
その後、鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれました。南北朝時代には、南朝の上皇が大覚寺にお住まいになられたことから、南朝は大覚寺統と呼ばれました。
建物は火災や応仁の乱によりほとんどの堂を焼失しましたが、江戸時代初期にはほぼ寺観が整いました。昭和13年(1938)には、大覚寺境内全域が大覚寺御所跡として国指定史跡に指定されています。
このように、大覚寺は皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院で、あちこちに菊の御紋を見ることができます。



大沢池・広沢池

2010年02月08日 | 旅行
沢に作られた大きい池と広い池、ほんとうに大きいのはどちら?

なんて、遊ぶつもりはありませんが・・・

京都市の北西部、京都市右京区の嵯峨野に、1kmほど離れて、大沢池(おおさわのいけ)と広沢池(ひろさわのいけ)が並んで存在します。
まだ昨日の雪が残る2月7日、京都市内のあちこちを探鳥目的で訪ねましたが、鳥の方の収穫はもうひとつでしたので、風景などの紹介を・・・

大沢池は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の庭池として作られた日本最古の庭池です。
古来、嵯峨野一帯は現在の桂川の水が流れ込む沼地で、そのために「沢」の字が含まれているのでしょうが、優れた土木技術を持った渡来系豪族の秦氏一族によって、田園地帯に変わりました。
やがて美しい自然に接することのできる場所として、王朝人の別荘が建てられ、そのうちの1つが嵯峨院でした。嵯峨院は後に大覚寺となります。
嵯峨天皇は弘法大師空海と親交を深められ、当時起こった飢饉に際し、般若心経を写経されたということです。


   大覚寺を臨む (写真はクリックで広がります)


   心経宝塔を臨む

広沢池も秦氏の開墾と関連してできた池でしょう。一時廃れましたが、明治時代に地元の人々の協力で修復されています。
現在は鯉などの養殖が行われていて、12月に池の水を抜いて「鯉揚げ」を行い、鯉や鮒を料理屋などへ販売しています。このため訪れた時も水が抜かれたままで、いろんな鳥たちの憩いの場になっていました。



池の周辺は、愛宕山を背景に、田畑を中心としたのどかな風景が広がっています。