そよかぜ日記

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高知県・横倉山

2024年02月19日 | 歴史探訪

 2023年12月30日~2024年1月1日に高知県に行ってきました。 2023年は牧野富太郎ブームであったということもありますが、主目的は「日本の貴重なコケの森」にも選ばれている横倉山で、ここには石灰岩が多く、石灰岩につくコケを観察することでした。

 観察したコケは「そよ風のなかで Part2」に載せていきますが、横倉山は安徳天皇にまつわる伝説でも知られている山で、以下はこのことについてです。

 安徳天皇は下関の壇ノ浦の戦いで入水したとされています。 しかし、一説によると、屋島の戦いで源氏に敗れた平氏は、天皇の身代わりを立てた本隊を壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門80余名はひそかに四国に上陸し、1年数カ月の潜幸の後、横倉山にたどり着いたとされています。 この説によると、安徳天皇は23歳で崩御し、横倉山山頂近くに奉葬された所は「越知陵墓参考地」として宮内庁所管地になっています。

 横倉山には、安徳天皇にまつわる遺跡が数多く点在しています。

 上は横倉山山頂にある横倉宮で、巨大な石灰岩の上に建てられています。 祭神は安徳天皇で、崩御された年に平知盛が建てて祭ったとされています。 知盛も壇ノ浦の戦いで自害したとされていますが、上記の説では幼帝と共にこの地に隠れ住んだことになっています。

 上も巨大な石灰岩で、平家が身を潜めた穴とされていますが、今は崩れてしまっています。

 横倉山中およびその周辺には安徳天皇護衛の従臣80余名の墓祠があり、横倉宮の摂社末社として祭祀が行われてきたのですが、戦後腐朽し不明になるものがあったため、御霊を1つの宮に招霊されたのが、上の「平家の宮」です。

 上は横倉宮表参道入口で、横倉山登山道の1つになっています。

 


石清水八幡宮へ

2022年05月14日 | 歴史探訪

 京都府八幡市にある男山(正式名称は鳩ヶ峰?)でコケ観察。 吉田兼好の徒然草でよく知られている所です。
 徒然草第五十二段の「仁和寺にある法師」には次のような話が書かれています。
 ずっと石清水八幡宮を拝みたいと思っていた仁和寺の法師が一人で参詣した。 お参りを済ませた後、みんなが山に登っていくのを不思議に思いながらも、山に登るためではなく神に参りに来たんだと、帰っていった。 しかし法師が石清水八幡宮だと思って拝んだのは、ふもとにある極楽寺や高良で、石清水八幡宮は山の上にあった。
 それを聞いて兼好法師は、ちょっとしたことにもその道の先導者はあってほしいものであると書いています。

 上は境内にあった案内絵図ですが、高良(こうら)神社は①、極楽寺は今は無く、回廊で囲まれた②の頓宮の敷地内にあったようです。

 上は頓宮です。 三大勅祭の一つに数えられる9月の石清水祭では、山上の本宮から頓宮に御神霊をお遷しすると解説板にありました。
 鎌倉幕府の鶴岡八幡宮の創祀など、武人との結びつきが強いイメージを持っていて、勅祭とは意外だったので、八幡宮について少し調べてみました。
 祭神である八幡神は、応神天皇を主座とし、左右に比売神、神功皇后を配する三座一体の神のようです。 本宮は宇佐神宮ですが、東大寺大仏鋳造に神助を与えて入京したことや、道鏡の専横を託宣によって排除したことなどで、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立されたようです。 そして、鎮護国家の神、王城鎮護の神、勇武の神は、武家政権の成立とともに、武人の守護神として全国に普及していったようです。

 上が山上にある石清水八幡宮です。


飯森山歴史紀行

2020年06月06日 | 歴史探訪

 JR四条畷駅からスタートし、野崎駅まで飯盛山を歩いてきました。 飯盛山は大阪府と奈良県の県境に位置する生駒山地の北端にある標高 314mの南北に細長い山です。 北と西はとても険しい急斜面で、東は深い谷となっていて、軍事的に守り易い一方、大阪平野を一望でき、遠くは京都まで見渡せることから、山城を構えるには適地と言えるでしょう。
 現在放映中の大河ドラマ「麒麟が来る」(新型コロナウイルスのため一時放映中断)にも登場する三好長慶は、一時は近畿と四国の大部分を治め、織田信長より早い「最初の天下人」として知られていますが、この山に日本で初めての石垣を使った城を構築しています。

 上の城址マップを見ると、北側(上のマップでは左側)を防衛のための、南側を生活のための空間としていたようで、「天下人の城」にふさわしい威容を誇る山城だったようです。

 上のような石垣の跡も所々に残っています。 しかし初めに書いたように、軍事上の重要性に着目されていたのは三好長慶に始まりません。

 上は二の丸跡に地元の中学校校友会が大正時代に建てた飯盛山の史蹟を刻んだ碑です。 碑文は次のように書かれています(読み易くするため、スペースを入れました)。

標高三一八米 地質花崗岩
建武年中北條氏の餘黨此に據り楠木正成之を討ちたりと傳ふ 正平三年一月四條畷の戦に方り高師直の軍此を占む 楠氏没落後畠山氏河内を領するに及び天文年中其臣木澤長政をして城郭を構へしむ 永禄のころ三好長慶威を近畿に振ふに至りこれを略取して数修築を加ふ 其規模頗る宏大 三好氏十有餘年間軍事庶政の本據たりしが後織田信長の近畿一統に至りて城廢せらる 現存せる城址は実に當年のものなり
大正十三年一月廿六日  大阪府立四條畷中學校校友會

 上の碑文にも書かれていますが、南朝の楠木軍が高師直・佐々木導誉らの北朝室町幕府軍と戦った「四條畷の戦い」で後者が勝利したのは、高師直が飯盛山を占拠していたことも大きいと言われています。 飯盛山の山頂にはこの戦いで戦死した楠木正行(まさつら:楠木正成の嫡男)の像が立てられており、麓の四條畷神社の主祭神は楠木正行です。

山頂の 楠木正行像

 ところで、この4月から、上記の高師直・佐々木導誉らも登場するNHK大河ドラマ「太平記」の再放送が始まっています。 同じ年に飯盛山が関係する2つの大河ドラマというのも、何か不思議な気がします。


住吉大社

2015年03月16日 | 歴史探訪

 近くに行く用事があったので、久しぶりに大阪市住吉区にある住吉大社に行ってきました。 初詣にはとても混む神社ですが、ゆっくり見学できました。 ちょうど大相撲大阪場所で住吉大社には立浪部屋の宿舎があることから、お相撲さんにも出会いました。








 住吉大社は、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社で、全国に約2,300社ある住吉神社の総本社です。 創建は、神功皇后が三韓征伐より帰還した時に、神功皇后への神託により、住吉三神を祀ったのに始まるとされています。
 江戸時代までは境内馬場(現在は住吉公園となっています)は海に面していて、大和王朝では外交と航海に関連した神社で、遣隋使や遣唐使も、大社の南を流れる細江川(細井川とも呼ばれ、阪堺電軌阪堺線の駅名にもなっています)にあった住吉津(すみのえのつ)から出発しました。
 「一寸法師」の話も、子宝に恵まれなかった夫婦が住吉大社に祈って子供を授かり、その子供が住吉津から大阪湾に出て淀川を上り、京都へ向う話です。
 主祭神は、底筒男命(第一本宮)、中筒男命(第二本宮)、表筒男命(第三本宮)の「住吉三神」と息長足姫命(=神功皇后:第四本宮)で、第一~第四本宮全てが国宝に指定されています。

 上は右が第四本宮、左が第三本宮で、その奥に第二本宮と第一本宮が並んでいます。

     第一本宮


町石道周辺散歩

2015年02月22日 | 歴史探訪

 世界遺産に登録されている「紀伊山地の霊場と参詣道」、今回も前回の京・大阪道に続き、高野山への参詣道に関する所を歩きました。 コースは、南海高野線の「上古沢」駅をスタートに、古峠から丹生都比売(にうつひめ)神社に寄り、六本杉から町石道(ちょういしみち)の一部を歩き、丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社と慈尊院に寄り、南海高野線「九度山」駅までとしました。

● 丹生都比売神社




 「丹」は朱を意味します。 朱砂(朱色の硫化水銀)は、有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて水に難溶な水銀化合物からなり、適度な低毒性を持つため、古代には古墳の棺の内部に塗られるなど、古来より防腐剤を兼ねた赤色(朱色)の顔料として使用されています。 漆器に使用される朱漆や朱墨の原料なども朱砂です。 なお、朱砂は中国湖南省辰州の産地名から、辰砂とも呼ばれています。
 「丹生」は朱の生じる所、つまり朱砂の鉱脈のある所であり、丹生都比売神社は、全国のそのような所にある丹生神社の総本社です。
 空海は、朱砂の価値をよく認識しており、高野山を選んだ理由の1つは朱砂にあるとも言われています。 丹生都比売神社は、高野山への入り口にあたる場所にあり、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしであったということです。

● 町石道


 町石は、高野山を起点として、慈尊院に至る高野山の表参道約22kmに、1町(約109m)毎に道標として建てられています。 弘法大師開山の頃は木製の卒塔婆だったようですが、鎌倉時代に高さ3m強の五輪卒塔婆形の石柱に変えられています。 この石柱の8割以上は建立当時のものが残っていますが、老朽化したものは、上の写真のように、その近くに新しい石柱が建てられています。

         紀の川を背景に

● 慈尊院



 慈尊院は、空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした寺です。 上の写真の中央に見える石段は、丹生官省符神社に続いています。
 慈尊院は、空海の母が息子の開いた高野山を一目見ようとやって来た時、当時の高野山内は女人禁制であったため、ここに滞在して信仰の日々を送ったことでも知られています。 慈尊院のある「九度山」の地名は、空海がひと月に9度も町石道を通って政所の母を訪ねてきたことからということです。

● 丹生官省符神社



 高野山の領する官省符荘(不輸租を認められた荘園)の鎮守のため、空海によって創建されたと伝えられている神社です。