そよかぜ日記

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能勢の妙見さん

2010年11月30日 | 歴史探訪
 能勢の妙見さんとして親しまれている能勢妙見山は、大阪府の能勢町と豊野町、兵庫県猪名川町の境に位置します。妙見大菩薩をお祀りする日蓮宗のお寺ですが、神仏習合の名残を残していて、鳥居があります。




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 多くの菩薩はインド由来ですが、妙見菩薩は中国の星宿思想から北極星を神格化したものです。 「妙見」とは「優れた視力」の意で、いつも誤らず北を指し示す北極星のように、善悪や真理をよく見通すのが妙見菩薩なのでしょう。 北極星が旅人の指針として仰ぎ見られてきたように、人生の道を導き開いてくれる開運の守護神として深く信仰されてきました。 また「妙」という字は、美しい、清らか、「見」は目で見える姿形という意味として理解され、「妙見」は「妙なる姿」「美しい姿」ということで、古くから歌舞音曲を志す人々にも信仰されてきました。





 妙見山は「信仰の山として古い歴史を持ち、山頂や参拝堂からの眺望がすばらしい。山頂には府下では珍しいブナの自然林があり、小鳥や昆虫類が豊富である」ことから「大阪みどりの百選」にも指定されています。

桃太郎と桃

2010年11月28日 | 旅行
 室町時代に広まったとされる、よく知られたおとぎ話の「桃太郎」、この物語の成立については、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたもので、第7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)が桃太郎のモデルである、とするのが、有力説の一つとしてあります。 しかし、桃太郎の出生の地や鬼ヶ島がどこなのか、ゆかりの地をはっきりさせないことで、全国で身近な話となっているのかもしれません。
 その中で、吉備の国であった岡山県は県のPRとして「桃太郎」を積極的に“利用”しました。 桃の産地であったことも関係したのかもしれません。
 ちなみに、江戸時代からある地元土産品「吉備団子」は吉備の国の名物の団子であり、桃太郎が持っていたのは「黍団子」、つまりキビを原料とした団子で、両者は元来別物です。 現在販売されているものの多くはそのあたりを曖昧にして「きびだんご」とひらがなで書いているものが多いようですが・・・。 この「きびだんご」には少量のキビを混ぜたものもありますが、キビの全く入っていないものもあります。
 とにかく、岡山駅の駅前には立派な桃太郎の銅像がありますし、後楽園のある中州の南端には、「おかやま百周年記念事業」の一環として平成3年度に設置された「水辺のももくん」という銅像があります。


   岡山駅前の桃太郎像
   桃太郎はハトも引き連れていたのでしょうか。


   水辺のももくん

 このももくんの持っている桃も桃太郎の絵本などに出てくる桃も、先が尖っています。 しかし、果物店の店先に並んでいる桃は先が尖っていません。 じつは先が尖っている桃は日本古来からある野生の桃で、実を放置していても萎びてくるだけで、腐ってきません。
 古くから桃には邪気を祓う力があると考えられていましたし、果実の形状と色彩が女性の臀部に似ていることから、性と豊饒の象徴でもありましたが、この桃は、もちろん先の尖った桃の方です。 明治時代に入ってきた、先の尖らない甘味の強い水蜜桃系の桃のように、簡単に腐ってしまうようでは、仙果とは成り得ません。

後楽園

2010年11月25日 | 旅行


 岡山市にある後楽園は、旭川を挟んで、岡山城の対岸に、江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する大名庭園です。



 岡山城や周辺の山を借景とした池泉回遊式の庭園で、日本三名園のひとつとされ、国の特別名勝に指定されています。



 太平洋戦争中には、食糧事情の悪化に伴って園内に畑が作られ、さらには空襲で園内の建造物の多くが焼失してしまいました。 終戦後には進駐軍の宿舎として使用されていましたが、進駐軍の撤退後に園内の復元がはじまり、1967年(昭和42年)には園内の全ての建造物の復元が完了しています。




岡山城

2010年11月23日 | 歴史探訪


 背景が黒い夜の大阪城に続いては、外側が黒漆塗の下見板(したみいた)で覆われていて、城自体が黒い岡山城です。 隣の兵庫県の姫路城が「白鷺城」と呼ばれるのに対し、「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。
※ 下見板:外壁に使用する板材で、互いの板が少しずつ重なり合うように取り付ける。
 ちなみに「烏」はカラスで、黒い体に黒い眼で、眼の見分けがつかない鳥ということで、「烏(う)」は「鳥(とり)」の漢字の眼の位置に当たる1画がありません。



 岡山城は、戦国時代に宇喜多氏が本拠とし、宇喜多秀家は、豊臣政権下で57万4千石の大大名となりました。 城はその後、小早川氏、両池田氏により整備、拡張され、元禄時代の古地図には、五重の濠に囲まれた城郭が描かれています。
 その後、明治6年の廃城令により、堀は順次埋め立てられ、昭和初期頃までには本丸を残し、巨大な城郭は市街地へと姿を変えていきました。
 天守は昭和6年に当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのですが、その天守も昭和20年の空襲で焼失し、現在の天守は昭和39年~昭和41年に鉄筋コンクリートにて再建されたものです。
 なお、再建された天守は、瓦に桐の紋が使われるなど、宇喜多秀家当時の天守のイメージで再建されています。

 城の城郭配置は極端で、城郭が西側だけに広がる平山城です。 本丸の北から東には郭が無く、旭川の流路を変更し、天然の堀としています。 そのために、東側から見ると、旭川に映る美しい天守を見ることができます。