南房総旅の帰り、目白で「古道具坂田」をやってはる
坂田和實さんが1994年にオープンしはった美術館「as
it is」へ立ち寄る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/90/c196ca029194874ae40193392c0f2834.jpg)
2003年に行って以来だから、11年ぶりの再訪。企画展が
ちょうど終わって常設展だったから、当時とあまり変わら
ない物たちに迎えられる。
坂田さんが世界中で見つけてきはった、美しいもの。作
られた年月も場所も関係なく並んでいるから、新しいも
のなのに大昔のものと勘違いしたりする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/b3/fad65097984f87285a3fe36a9c3d7c9a.png)
この丸い金属製の物は、20世紀の日本の「裂織(さきお
り)」(写真左)と、写真には写ってないけど右側の 15
-16世紀のフランダースの「ゴシックオーク材 ドア」に
挟まれていて、さぞ古いものかと思った。
錆加減や色合いが絶妙。ところがこれは、20世紀の日本
の「ドラム缶 ふた」だそうだ。やられるwどこかの古道
具屋で見つけはったのか、はたまたゴミ置き場で拾いは
ったのか。
松濤美術館での展覧会を見逃したことはここに書いた
けど、そのショックも癒え、やっと買えたカタログに
書かれた序文が坂田さんのやられたいことが集約され
ている。
道具屋を始めはって、去年2013年で40周年だったそう
だけど、最初の20年間は;
美術や骨董の本を読み、美術館を見てまわり、近世ヨー
ロッパの人たちが考え 世界中に広がった美しさの基準や、
著名な日本の数奇者の言葉を丸暗記し、これでいくらか
は美しさが解かってきたと思い込んでいた時期でした。
その時に求め、選んでいたものは、より古く、より珍し
く、技術の完成度が高く、作り手の自己表現の強い物だ
ったように思います。
ところがある時から、ふと、それらの物が少し重くて、
うっとうしく感じるれるようになってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b7/a9ab255e62a516607b21b29c5524a1e5.png)
(中略)
やっとその時、私にとって、長く連れ添えるものは、技
術の完成度の高さや、めずらしさを誇る美術作品ではな
く、用途のために素材と形が硬く結びついた普段使いの
日常工芸品で、使われ育まれたものなのだと気づきまし
た。 ここではもう作り手の自己表現も、臭いも消え去っ
ています。
(中略)
利休を始め、日本の美術や骨董を選び出す眼のその芯
の部分と大きく重なっているように思えます。 利休に
次ぐ、眼の天才柳宗悦が選んだ物も、又、私たちの前
の世代の青山二郎や白洲正子さんたちが選んだ物もそ
うです。
その大半は日常的なものの中から、各々の想定した建
築空間にぴったりとはもの見立て、選び出し、他の物
と絶妙に取り合わせる、日本の数奇者の眼とはそのよ
うなものでした。
そこでは、作者や作品よりも、選び使う側の眼に高い
評価が置かれていたともいえるのでしょう。
このことは、物に自立や、完成度の高さや、強い骨格
を求める、従来私たちが学校で教わってきたヨーロッ
パの近世美術の見方とは大きく異なっています。
長い引用となったけど、素晴らしい。日本の美に関す
る基準を世界が知りたがっているのだと、坂田さんは
言う。日本の自然観も知りたがっている様だし。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b5/bc9a0fe30e7a5f5a70e975f057b3e56b.png)
「as it is」という名前は、柳宗悦が世界工芸者会議と
いうところで自分の美学を発表する時に書いた原稿に
由来したそうだ。
坂田和實さんが1994年にオープンしはった美術館「as
it is」へ立ち寄る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/90/c196ca029194874ae40193392c0f2834.jpg)
2003年に行って以来だから、11年ぶりの再訪。企画展が
ちょうど終わって常設展だったから、当時とあまり変わら
ない物たちに迎えられる。
坂田さんが世界中で見つけてきはった、美しいもの。作
られた年月も場所も関係なく並んでいるから、新しいも
のなのに大昔のものと勘違いしたりする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/b3/fad65097984f87285a3fe36a9c3d7c9a.png)
この丸い金属製の物は、20世紀の日本の「裂織(さきお
り)」(写真左)と、写真には写ってないけど右側の 15
-16世紀のフランダースの「ゴシックオーク材 ドア」に
挟まれていて、さぞ古いものかと思った。
錆加減や色合いが絶妙。ところがこれは、20世紀の日本
の「ドラム缶 ふた」だそうだ。やられるwどこかの古道
具屋で見つけはったのか、はたまたゴミ置き場で拾いは
ったのか。
松濤美術館での展覧会を見逃したことはここに書いた
けど、そのショックも癒え、やっと買えたカタログに
書かれた序文が坂田さんのやられたいことが集約され
ている。
道具屋を始めはって、去年2013年で40周年だったそう
だけど、最初の20年間は;
美術や骨董の本を読み、美術館を見てまわり、近世ヨー
ロッパの人たちが考え 世界中に広がった美しさの基準や、
著名な日本の数奇者の言葉を丸暗記し、これでいくらか
は美しさが解かってきたと思い込んでいた時期でした。
その時に求め、選んでいたものは、より古く、より珍し
く、技術の完成度が高く、作り手の自己表現の強い物だ
ったように思います。
ところがある時から、ふと、それらの物が少し重くて、
うっとうしく感じるれるようになってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/b7/a9ab255e62a516607b21b29c5524a1e5.png)
(中略)
やっとその時、私にとって、長く連れ添えるものは、技
術の完成度の高さや、めずらしさを誇る美術作品ではな
く、用途のために素材と形が硬く結びついた普段使いの
日常工芸品で、使われ育まれたものなのだと気づきまし
た。 ここではもう作り手の自己表現も、臭いも消え去っ
ています。
(中略)
利休を始め、日本の美術や骨董を選び出す眼のその芯
の部分と大きく重なっているように思えます。 利休に
次ぐ、眼の天才柳宗悦が選んだ物も、又、私たちの前
の世代の青山二郎や白洲正子さんたちが選んだ物もそ
うです。
その大半は日常的なものの中から、各々の想定した建
築空間にぴったりとはもの見立て、選び出し、他の物
と絶妙に取り合わせる、日本の数奇者の眼とはそのよ
うなものでした。
そこでは、作者や作品よりも、選び使う側の眼に高い
評価が置かれていたともいえるのでしょう。
このことは、物に自立や、完成度の高さや、強い骨格
を求める、従来私たちが学校で教わってきたヨーロッ
パの近世美術の見方とは大きく異なっています。
長い引用となったけど、素晴らしい。日本の美に関す
る基準を世界が知りたがっているのだと、坂田さんは
言う。日本の自然観も知りたがっている様だし。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b5/bc9a0fe30e7a5f5a70e975f057b3e56b.png)
「as it is」という名前は、柳宗悦が世界工芸者会議と
いうところで自分の美学を発表する時に書いた原稿に
由来したそうだ。
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