このタイトルで内容がわかる方は
この話は百もご存じ。ぼくにとっては
繋がったぁというひそかな喜びがある。
☆
先般から読んでいた、ドナルドキーンさんの
『足利義政』を読了したんだけど、
最後の方に茶の湯創出の話がある。
義政以前にもよく茶は飲まれていたけど、
銀閣寺東求堂で生みだされた書院造の
4畳半は、彼が自らお茶をたて、当時の
人達のお手本になったそうだ。
そればかりか、現在に至るまでの
多くの日本人(一部の外国人)が見習うべき
カタチとなった。
「義政は単なる気晴らしに過ぎなかったものに、
将軍家のお墨付きを与え、儀式化された茶道へと
発展させる道を開いたのだった。」(p.186)
☆
茶の湯を担当したのは能阿弥。
義政が東山文化創出のプロデューサだと
するなら、能阿弥はさしずめディレクター。
肩書きをwikipediaをみれば
水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師と
幅広いところを担当していたことがわかる。
彼は奈良にいて30年来茶の湯に打ち込んできた、
村田珠光に秘伝含め学んだことを
義政に言上し、茶の湯の師匠として
引きあわせている。
でた、村田珠光(1422-1502)。
珠江の孫弟子が武野紹鴎(1502-1555)であり、
紹鴎に師事したのが千利休(1522-1591)。
ちなみに義政(1436-1490)だから
15世紀から16世紀にかけてバトンを
渡しながら茶の湯が完成していく
時の流れが体感できた。
ま、お茶でも一服しましょかね。
この話は百もご存じ。ぼくにとっては
繋がったぁというひそかな喜びがある。
☆
先般から読んでいた、ドナルドキーンさんの
『足利義政』を読了したんだけど、
最後の方に茶の湯創出の話がある。
義政以前にもよく茶は飲まれていたけど、
銀閣寺東求堂で生みだされた書院造の
4畳半は、彼が自らお茶をたて、当時の
人達のお手本になったそうだ。
そればかりか、現在に至るまでの
多くの日本人(一部の外国人)が見習うべき
カタチとなった。
「義政は単なる気晴らしに過ぎなかったものに、
将軍家のお墨付きを与え、儀式化された茶道へと
発展させる道を開いたのだった。」(p.186)
☆
茶の湯を担当したのは能阿弥。
義政が東山文化創出のプロデューサだと
するなら、能阿弥はさしずめディレクター。
肩書きをwikipediaをみれば
水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師と
幅広いところを担当していたことがわかる。
彼は奈良にいて30年来茶の湯に打ち込んできた、
村田珠光に秘伝含め学んだことを
義政に言上し、茶の湯の師匠として
引きあわせている。
でた、村田珠光(1422-1502)。
珠江の孫弟子が武野紹鴎(1502-1555)であり、
紹鴎に師事したのが千利休(1522-1591)。
ちなみに義政(1436-1490)だから
15世紀から16世紀にかけてバトンを
渡しながら茶の湯が完成していく
時の流れが体感できた。
ま、お茶でも一服しましょかね。