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学習会「スウェーデン型社会という解答」について (4)

2009年05月14日 | 学習会
【お知らせ】

間近となりました5月17日(日)に開催予定の当会主催学習会について、皆様のご参加をお待ちしております。
(詳しくは画像をクリックしてください。)



お申込みは受付フォームまで

※なお西岡秀三氏(国立環境研究所特別客員研究員)は海外出張のため欠席となりました。あしからずご了解ください。


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さらに藤井先生は「統治」という概念について、スウェーデンの民主主義の成熟に関わって、私たち一般の日本人の認識とはかなり違うお話をして下さいました。



「統治」という言葉を聞くと、私たち多くの日本人は「上から」の「権力」による「管理‐支配」という印象を持つのではないでしょうか(そういう意味ではあまり印象が良くない言葉かもしれません)。 
これを図に示すと、単純ですがこのような感じではないかと思います。

  公共部門(=権力・お上・官)
      ↓
    市民(=下々・民)

しかし民主主義における「統治」とは本来、そのレベルにとどまるものではなく、むしろ次のような図式で成り立つべきものだということです。

   市民 ⇔ 公共部門

つまり政治・行政(公共部門)のほうからだけでなく、他方で市民の側からもまた公共部門に対する活発な働きかけがあり、そして両者の間の水平的な双方向のはたらきかけの過程こそが、民主主義における統治の本質であることを意味しています。

民意に敏感で機動的・柔軟に動く行政と、その行政に対し「わが町」「わが国」のこととして高い関心を持つ市民の間で、民主主義のよりいっそうの実現という同じ目標に向けた対話と協働が実行されている状態といえるでしょう。

そのような「公的部門の民主化」は民主主義という政治・行政のシステムがよく機能するために本来必要なものです。(もちろん「官から民へ」の民間移譲や民営化の話ではありません)
そしてその実現への努力こそが民主体制における政治・行政の本質そのものであるそうです。



ともかく重要なことは、藤井先生の見られるところ、そのような民主主義本来の仕組みがもっともよく機能していると思われる実際の事例が、まさにスウェーデンにほかならないということです。

一方、日本の民主主義であるはずの政治の状況は、残念ながらマスコミ等を通じてみなさんがよくご存知のとおりの、その本質からはずいぶんもとる実態があるようです。
同じ単語や概念を使っているようでも、そこに込められている意味合い・実質・本気さが、ずいぶん違うように思われます。

さて、20世紀前半以降、現在までのスウェーデンという国の形成に主導的役割を果たしてきたスウェーデン社会民主労働党ですが、そのもとで実現されてきた政治・行政のありかたとは、ひとことで言ってこの「統治の双方向性」を目指す線で一貫していたようです。

このスウェーデン社民党とは、もともと社会的な弱者とされる人々の支持が強い政党なのですが、にもかかわらず、税などの高負担は、富裕層だけでなく低・中所得者層にも皆、所得比例的に適用されているそうです。

ここでとても不思議に思うのは、そのような高負担路線の政策が国民に受け入れられたばかりでなく、なぜ現在まで高い支持を受け続けてこられたのかということです。

それにはまず何より、このような風通しのよい公と民の双方向の働きかけがあり、スウェーデン国民にとって政治・行政がわがこととして身近に感じられるものとなっていたこと、それにより「政治や行政とは自分たちが参加すべきものだ」という基本感覚が醸成されていったこと、つまり「公」にたいする積極的な関心と信頼感があったことが大きい、とのことです。

ところで、スウェーデンの政治・行政の先進性と透明性ということについては、例えば代表的には次のような各事例が個別にすぐれた制度として取り上げられることが多くあります。しかし、実態はそれにとどまるものではないようです。

●一院制議会への改革
(これは1969年のことですから、ちょうどさきの「③高度福祉国家建設期」の真っ最中に当たります。この一院制への移行は急激でかなり劇的なものだったそうです。)

●オンブズマン制や情報公開制度とその強化
(いずれも「政策が正しく運営されているかのチェック」のための制度であり、たとえば「官僚の交際費の領収書開示を求める」というような主旨のものではない、とのこと。)

●地方分権の徹底

重要なことは、これらはいずれもが上記の「公と民の民主主義的な双方向」を円滑に実現するための、一貫した流れにあるものとして位置付けることができる、ということです。

たとえばスウェーデンの議会選挙においては、80%~90%という高投票率がずっと維持されてきました。
私たち日本人からすると驚異的というほかないこの数字は、まさにこの民主主義の本質である「双方向性の統治」が相当程度まで実現し、これまで維持され機能してきた結果によるものと理解できます。

さて、そのように民意・ニーズに敏感に応え、身近な公共サービスを実施して受益感覚をもたらすことができ、また国民にとってわがこととして参加すべき・参加可能なものと実感させることができる公共部門とは、はたしてどこにあるでしょうか?

それは地元、つまり地方行政にほかなりません。
そのためにこそ、スウェーデンではきわめて徹底的な地方分権が図られてきたようです。


歴史的にいうと、一部の自由都市を除き、もともとスウェーデンの伝統的な自治体とはイコール教会の教区のことだったそうです。

ちょっと脇道ですが、スウェーデンの「福祉国家レジーム」の基礎にあったのは、国教でもあったルター派のプロテスタント・キリスト教の精神だったと思われます。それは「国民の家」や「自立と連帯」といったモットーとして今も表現されています。
そしてまた、同じプロテスタンティズムがこれら自治体が生まれた背景にはっきりとあるわけです。
伝統的な土壌というものが、その国の現在の文化だけでなく政治体制・社会制度にも及ぼす強い影響力を垣間見る思いがします。

そのスウェーデンにおける地方自治制度は、早くもすでに1862年の勅令に始まっていたそうです。
日本は幕末・維新の動乱の真っただ中という時代ですから、ほかの諸制度と同様、その始まりがきわめて早かったことが注目されます。

その後スウェーデンの地方自治制度は改正・拡大を続けてきましたが、2500ほどであったコミューン(基礎自治体の名称。市町村に相当します)の数はほとんど変わることはありませんでした。
しかし、ちょうど「②戦後成長期」と「③高福祉国家建設期」のそれぞれに行われた2度の大統合の末、コミューンはおよそ300弱にまで統合され、それがいまのスウェーデンを構成しています。





その後現在に至るまでに、自治体の財政力の強化拡大のため、税制の大きな改革が数度にわたり実施されています。

そうしたスウェーデンの地方自治制度の特色は、国・県(ランスティング)・コミューンの間で、社会保障制度の実施においてきわめて明確な役割分担・機能特化があることです。
この事情については「手当・給付は国、医療は県、その他はすべてコミューンで」という藤井先生の端的な要約がよく表していると思います。



(「スウェーデン型社会という解答」中央公論09年1月、125頁より)


また教育においても、大学以上の高等教育は国、専門教育は県、そのほかはすべてコミューンが担っています。
(もちろん私立学校も多く存在し、公立学校との間には健全な競争があるそうです。学費は有名なように私立も含め無料! 「高負担」はしっかりと国民の暮らしに還元されているわけです。)

これらのことからも、スウェーデンにおける地方自治の実施主体はまずコミューンにあることがわかります。

そのように、身近なコミューンが主体となりサービスの実施を行うことでニーズに機敏に応え、住民にとって納税の「目に見え実感できる受益」を示すことができたようです。
こうして高度福祉国家の建設とそれを実現するための増税路線が成功していきました。

ここには、たとえ課税等の負担が増えても、自分たちの声を反映した社会保障サービスが身近で目に見える形で実現し、それによって安心感が増していけば、いわゆる「高負担」にも納得できるという国民感情の成熟があるようです。

それに関して、日本ではずっと「スウェーデンは小国だから」「日本とはまるで人口規模が違うから」といったステレオタイプ的な懐疑的反論がなされてきています。
そのこともあってスウェーデン型モデルは、米国一辺倒であり続けてきた日本の主流においてはほとんど無視されてきたという状況を、さきの小澤徳太郎先生の講義でも気づかせていただきました。

しかし藤井先生は、「人口規模の論義に逃げるべきではない」とおっしゃいます。

面白いことに、上記のような統合・強化の過程を経たスウェーデンのコミューンと、いわゆる「平成の大合併」を経た日本の市町村という両国の基礎自治体の人口規模は、現在ちょうど平均して8000人程度と、ほぼ同じ大きさなのだそうです。

そのように、両国間に横たわる差というのは、国全体の人口規模などではなく、むしろ地方自治に代表される社会の仕組み・システムがいかによく機能しているかの違いにあるのではないでしょうか。

つまり、政治・行政とそれが担う社会保障のシステムに関して言えば、

・どれだけ地方に権限を与え任せて国民のニーズをくみ取ることができているか
・公共部門の民主化を通じた、政治・行政への国民の信頼があるかどうか
・高度な社会保障を実現するための相応の負担への支持を得ることができているか
・それらのことを通じてどこまで安心の協力社会を実現することができているか

――そこにこそ違いの本質があるようです。

このように、同じ地方分権ということにも、その背後にある思想と、それが目指す目的には、日本とスウェーデンの間には相当な違いがあるようです。
(一日本人としてはきわめて残念なことですが。)

藤井先生は政府高官として80~90年代の日本の行財政の枢要を担ってこられたのですが、その方が「地方に任せればいいのです」と確信をもって語っておられました。
そのことが私たちにとってはとても新鮮に、印象的に聞こえました。

(以下続く)