ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

故郷は懐かしきかな

2013年12月30日 19時25分02秒 | ペタンク爺さんの一日
1926年(大正15年)父(22)と母(20)で結婚していると憶測しいいる、翌年長男が誕生し二つ違いで姉が生まれている、この後5年(1934)後に私が誕生したが姉との間に次女が誕生していたが2歳で他界している、父母が結婚し私が誕生するまでに世界状況はめまぐるしく変わっている、1910年今もめている日韓関係で日韓併合があった、1915年第1次世界大戦に日本参戦、1923年関東大震災があり1926年治安維持法発布、私が生まれる前の年に日本は国連を脱退している。

そんな時代背景の中父は母親との確執で家を出て行く道を選んだ、家督は次男に移り長男と長女は祖父に託し私(3歳)と妹(1歳)を背中に4人で北海道に移住してきた、此の辺りから私の中の歴史の一辺が記録されていることになる、室蘭市内の市営病院の直ぐ目の前の魚屋の二階に間借りしていたことを覚えている、朝私を幼稚園に預けると妹を背中にしたまま大工の父のテコ仕事の共稼ぎをやっていた。

此のころ父は34歳と母は32歳ころと若い父母だった、生れ故郷の記憶は小学校1年の時の夏休みに兄と二人で帰省した数日間が故郷五ヶ浜の全てだった。
今みたいに海岸通りは開通していなかったりトンネルも無く陸の孤島であった、乗り物は無く峠下から森の中を歩いて五ヶ浜峠までくると小さな故郷の家々の屋根が見えて来た、短い夏休みの楽しい記憶として生涯私の心の支えとなった。

母は父母の葬儀で故郷を訪れているが、父は32歳の時に故郷を捨ててしまったのか二度と戻ることは無かった、余程のことがなければと推察するだけの息子です。
60歳に生れ故郷を訪ねた時に父の遺骨の灰を散骨して廻ってきた、母の兄弟とは行き来はあったが、父の兄弟とは一切なかったし今は縁も切れている。

砂浜から故郷と山々を望む

日韓併合とは
明治43年(1910)8月22日調印された日韓併合に関する条約によって、 日本が韓国を完全にその支配下におた。日露戦争後、日本の朝鮮支 配は急速に露骨となり、 明治37年(1904)2月京城において、 日韓議定書 を締結した。
第一次日韓協約では、財政 ・外交その他の顧問の採用を認 めさせ、 第二次では韓国保護条約を結ばせ 韓国外交権をにぎり、第 三次では韓国の内政権をも支配下に置き 韓国の警察権を 日本の憲兵 によって完全に握った。また明治43年(1910)にはじまる土地調査事業は、 朝鮮人の土地を大規模に取り上げる結果になり、 日本に対する抵抗運動 が 根強くつづけられたが、日本はこれらを徹底的に弾圧した。 明治42年 伊藤博文が、ハルピンで安城根に 射殺されたことを口実に、 韓国内閣 と交渉を進め、 日本軍の示威と警戒のもとに調印を完了した。