ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

故郷は遠くにありて思うもの

2015年01月13日 16時07分19秒 | 釣夜話
三歳から20歳後半まで私の人間形成の土台造りとなった土地が輪西(室蘭)で、幼児、少年期から果敢な青年期をここで過ごす。
この輪西の町は日本製鉄室蘭の城下町で、奇くも1934年に創設され同じ年に新潟五ヶ浜で私も産声を上げ運命的なもある。
そして父と母の町でもある、戦前戦後の時代背景をバックに子育て教育の場ででもあり生業確立の場所が輪西だったが北海道に渡って来て此処を決めた親父の先見を見つめる目は確かと思っている。

親父の目は鋭かつた、鼻は高く馬ずら顔の武士の風貌で足は長く、ただ教育を受けていないのに博学だつた、自分から先頭に立たず人を動かした話術に長けていたと思っている、普段からその味方の人作りは考えてのことだつた、兎に角尋常な人でなかった。
そんな親父の風貌、内面 は私には引き継がれてはいない、母方の遺伝子が勝っている。

山女魚・実戦編
輪西を拠点に鉄道沿線が主戦場、近くは苫小牧までの駅ごと各河川全て太平洋に流れ込んでいる川で良く山女魚は鮭の子で親は同じと話して聞かされていた、戦後の食糧難時代は食糧調達の手段と魚釣りは一般に広がっている、現在は鮭も釣魚の対象になっているが当時は鮭は捕獲することは出来なかった、同じ親から生まれた山女魚は別で食べても美味しく釣り期間も長かった。
釣り竿も子継ぎにし長さも9~11尺が使い良く、川の大きさで竿を決めていた、普通は下流から上流へと釣り上がりるが、大事なことは魚がどの辺に潜んでいて魚影が見えていなければと、魚に先に人影をサッチされる様では人間の負けで、時には木陰岩影に身を潜め竿を振り上流からそっと流し入れる、いつ匹掛かったら静かに下流まで流し音を立てない様に釣り上げ、また同じ様に今度は下流にいる魚から釣り上げて行くとそのポイントにいる魚は全部釣り上げられるとの山女魚釣り名人の話しを聞いている。
親父は少し遠征する時はその名人と一緒に出掛けていた、親父は人を釣り上げるのが名人で沢山の取り巻きも自然に出来ていて、親父の情報の元はこの辺にあつたと後になってから解る。
地下たびでこけで滑る川は鞋をと携帯していた、エサは一般的にいたどり虫で少し高級なぶどう虫、鮭の卵のいくら、それに毛針も忘れてはならない、この毛針釣りは奥が深い。
今日はここまで

春を探しに屋上の温室まで、アザレアが咲いていた。


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