ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

釣具の変遷

2015年01月21日 12時22分02秒 | 釣夜話
戦後食糧難時代は遊び半分ではなかった、捕ってきた獲物は生きる為の食糧に明日の糧となった、沢山釣ろうと思うと釣り場の選定が大事で我が家の茶の間が情報集めの場所に、移動方法はこの頃は鉄道一本の時代だった、非番が多い鉄道マンが多かったのも頷ける、太平洋海岸は砂浜が多い、波打ち際から100Mほとの所へ餌を付けた針を投げ込むには手竿では不可能だ、ぞこで遠投が出来る投げ竿が改良して出来上がって来る、親父が考え出した竿は、竹継ぎ竿で扱いやすい長きを15尺としそれを四本にする事で汽車で 持ち運びの時でもと考えての事で、普通は2セットでそれに付帯する竿立て角形魚籠、リックサックの中は弁当と雨合羽、時には特長も用意するので結構な重装備になる。
装備で忘れてはならないものにリールがあるが戦後はドラムの金属性でメーカーは確かオリンピックと記憶している、大きさは三寸五分でがっちりとしたリールだった。
その他矢張スチール製の富士リールでこちらは四寸が主体だった戦後中のドラムはプラスチックに変わって行ったが少し重くなったと感じていた。
重いものに重しがあるが最初は純正の鉛の三角で投げ釣り用は20グラムを使っていた。
仕掛けは三角を使い針二本が標準だった、餌はもっぱらえらこが主役だった。
室蘭時代はまだグラスフアイバーが発明されぬ前だったので天然物の鯨のひげを削って穂先に取り付けた竿でひとランク上に、釣果期待出来た竿だった。

山女魚釣・1年生
初めてヤマメ釣りに挑戦したのも親父のお供で始まっている、川は竹浦川で手頃な川だった、出で立ちは竿一本腰には蓋付き魚籠それに餌入れがセツトされていたと思う、背中にはオニギリとお茶が足元は地下タビに草鞋履、兎に角一人前のスタイルだった。
下流から釣り上りで1ヶ所に止まらない釣りスタイル、親父の後を必死に付いて行った、親父の釣り方を真似て竿を出すが、そう簡単には釣れてくれなかった、腰くらい深い川を何回も渡る、その内とうとう初めての山女魚を釣り上げる、その日はそれ一匹の釣果だったが楽しかった、それに用意して行ったオニギリの美味かったこと忘れる事は出来ない。
以後やまべ釣の先生は、長谷さんになった。続く


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