ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

只今サイボークで~す。

2015年01月24日 18時08分25秒 | 釣夜話
緊急入院して三週間が過ぎた、何回目のお風呂に入る首までざっぷり湯壺に入れる訳ではないが人間に戻ってゆく感覚は何とも云えない、異物が臍の下にぶら下がっている、此も我が身の内と思うと、とうとう劇画のサイボーグになったと異次元世界に入り込んだ気持ちになる。
主治医の話では近々此のままで一旦退院してもらいます、そして3ヶ月ほどしてから人口肛門を処置しますとのお話しだった。
多分現在の体力では手術は困難で少し体力が付き次第と、私は解釈した、病院のベット生活だけでは運動量が足りな過ぎる、此で病院の食事では食欲がなく正直食べるものが無い、普段食べているものを家から持って来て貰って食事を済ませて要るが、それでも半分程度しか食べれない。
手術痕も回復し安定して来たので今日から、院内トレーニングを開始した、と大げさに言っても軽い運動靴に履き替え病棟の階段歩きで手に杖を付き手摺に掴まっての歩行、5階までだったが息が切れた、ついでに階下院内を一周して来る。
明日からは徐々にトレーニング量を増やすことにしている。

現在でも私の幼名のヤッチャンと呼んでくれる人がいる、私より七歳上の姉さんで子供の項から親戚付き合いの女性で今は恵庭の末息子が住む近で一人住まいをしている、今でも交流を続けている。
遠藤製網時代前々から付き合いのあった日通の長谷さん、この時は萩野駅の日通の所長だったと思うけど、病身の奥さんに先立たれ親や兄弟それに自分の子供と大所帯の彼の苦境を案じて会社ぐるみで後妻のお世話、厚岸の婚期が遅れていた女性を言葉巧みに長谷さんの後妻に納めてしまった、中にたった人の話では子供は一人ということにに乗せられたか考えた末に長谷家の一員に、嫁いだ日は一人だった子供が翌日になると二人に一日ごと家族が増え最期は父親迄いたことが解ったが、もうその時は運命かとあきらめて添い遂げたと後になってその時の心境を話してくれた。

私も女房をもらい嫁舅問題で親父から家から出て行けと言われて、実家にも帰れずその頃すっかり親しくなっていた長谷さん宅に赤子を背負い避難していた、大変な頑固親父だったが時間がたちお袋から諭され薄々感じていた長谷さん宅に私を連れ戻し役として長谷さん宅に行き一晩泊まって帰ってきた事があったが、狭い借家の部屋に収まらなくて朝起きると父親が押し入れから現れたり、子育て時代の貧乏を身をもって経験した、本当にいま思うと懐かしくさえ思える時代だった。

その長谷さんが日通の所長時代登別辺りから苫小牧までの各駅を渡り歩いた時に、沿線の各川のヤマメ釣りをやっていた時に、親父に代わってヤマベ釣の先生になってくれたのが長谷さんだった、後妻に入って二人の男の子を育て上げたが、少し年がい離れていたが一人になってからもう20年もなっている。
あと数年で90歳に到達する、年々老化は進んでいる様に見えるが血はつながらないが姉の長命を心から願っている。


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