ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

ヤッチンの全ての世界輪西町

2015年01月14日 21時08分17秒 | 釣夜話
親父(遠藤家)の一番番頭は室蘭の高久さんだった戦前は商工会議所に席を置いていた、赤紙1枚で激戦が続くビルマ戦線に連れて行かれた、此処で親父の持ち味が発揮された残った奥さんにデパートの一角を借りて釣具店を開き支援し続けた 、それは戦争が終わり高久さんが帰国してくるまで続く、帰国後駅の近くに釣具店を開業させる。
その後高久さんは遠藤商店の一番番頭的に、酒宴で盛上がって来ると「私のラバさん集長の娘」を歌いながら面白く可笑しく踊っていたのを覚えている。

親父に釣りを教わったのは白老のポロト沼の鮒釣りだった何か遠い所に感じていたのは少年の感覚だったと思っている、駅から降りてダートの一本道を歩いて行った映像が今でも鮮明に残っている、沼に到着しさて竿の下ろす所まで浮草の浮島を歩いていた事も記憶に残るシーンで、私も竿を出しているはずだが鮒を釣り上げたシーンは出てこない。
釣果はあったが獲物は魚籠に入れ換え自宅まで持ち帰っている、親父の哲学か釣った魚は命を戴くと自ら処理していた、鮒も鱗を落とし背割りにし一度七輪で焼き上げその後甘露煮や残ったものは藁で編んで囲炉裏の上にぶら下げていた、これが晩酌時の酒の魚になっていた、鮒釣りの最後に沼の周りはで 山菜の蕗採りをやっている、此方も直伝と思っている。

親父は酒は年季が入っていた、一升酒は飲まないが定量は銚子2~3本で晩年には朝昼晩と酒は増えて行った、室蘭時代は酒屋から12本入れの箱買いで銘柄は多聞だった、命を縮めるたのも酒で満80歳を前にして逝ってしまった、私は酒は全くやらなかったので親父の酒のお相手は出来なかった。
一緒に酒を飲めていたら、沢山の教えを戴いていたと思っている。


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