17日の水曜日に通った時には、見事に実った稲が立っていましたが、今日歯医者へ行く時
にはこのように刈り取られていました、 今頃は乾燥機の中で乾燥されていることでしょう。
もうすぐコシヒカリの新米が食べられますね。
17日の水曜日に通った時には、見事に実った稲が立っていましたが、今日歯医者へ行く時
にはこのように刈り取られていました、 今頃は乾燥機の中で乾燥されていることでしょう。
もうすぐコシヒカリの新米が食べられますね。
私が80歳の時土庄町老人クラブで、パソコン教室を始めるとの事で入会してより早10年が
経ちました、習ったことは殆ど忘れてしまいました、 歳は取りりたくありません、習っても右
から入りすぐ左より抜けます、又入会しょうかとも思っています。
ブログを習ってより5年が経ち今日現在訪問者が15万人に達し、 閲覧者も44万人を越えまし
た、 これも皆様の暖かいご支援によるものと感謝致しております。
昨日に引き続き神浦地区のアート作品です。
顔は12人目の孫です
中山の千枚田をこしらえているのでしょうか
アートで解りません
これも12人目孫で高校生です
行く途中の石垣の風景
小豆島霊場第31番誓願寺と日本一と言われている大蘇鉄、足が悪いので本堂までは失礼
しました、 さすがに蘇鉄は迫力があります、これが一本とは思えないほどです。
隣の二面の公民館と旧二面幼稚園に展示している東京芸術大学の教授と大学院生の製作
した作品も見学
日本一と言われている大蘇鉄
東京芸術大学、、、、、作品
八坂神社の鐘楼は、文久3年に再建されたもので神仏習合遺物である。
神社に現存しているのは珍しく、梵鐘は明治4年神仏分離により、小豆島71番札所滝の宮堂
に移され遍路さんにより打ち鳴らされている。
鐘は昭和54年土庄町有形文化財に指定されている。
鐘の無くなった鐘楼には八坂神社の守り神、 牛が一頭寝ています
八月十六日は長勝寺で流水灌頂を行う日です。 朝より長勝寺世話役が集まり流水潅頂の
準備をする。10時より昨年の盆以後に亡くなられた長浜、小江親族が位牌を持って集まり長勝寺
住職、 副住職が読経の上供養いたします。
この法は恵果和尚より弘法大師が伝授されて日本へ伝わったそうです。
八月十五日は長浜恒例になりました、 灯籠流しの日、午後7時半より住職先、導追弔和讃の
流れる中、 次々と灯籠が潮の流れにより、沖へ沖へと西方浄土目指して流れてゆきました。
愛する妻が乗ってゆく舟 伊喜末の従兄弟作
流す準備完了
沖へ向う灯篭
左端が妻の舟
送り火の列
昭和二十年八月十四日は, 私にとっては終生忘れる事の出来ない一日でした。
当時、私は大阪陸軍造廠会計課に勤務していました、大阪造兵廠は日本で一番大きな造兵廠
で。京橋駅から森の宮駅まで今の環状線を挟んで東西に工場がありました西は大阪府庁近く。
朝空襲警報艦載機の機銃掃射を受け、やっと解除になりホットする間もなく次はB29、 300機
による一トン爆弾の集中攻撃を受けました、当時は3月13日の焼夷弾攻撃によって焼け野原
になった処に防空壕を掘り其処へ空襲度に避難していましたが一トン爆弾が炸裂するたびに
地響き生きた気持もありませんでした。工場には保安要員が蛸壷の防空壕で看視していました。
やっと空襲警報も解除のなり、 造兵廠に帰ってみれば無残跡形も無く破壊されていました。
茫然自失とはこのことをゆうのでしょう、 しばらくは誰も言葉を発する人もいませんでした。
15日の玉音放送が2日早ければ 造兵廠の工場も500名の尊い命も失う事も無かった。
戦後世話人により発行された、大阪陸軍造兵廠生き残り証人の執筆
八月十三日大阪上空より散布された最後通告のビラ
今日から盆ですね、 恒例になりました長浜老人会が先月24日にこしらえた無縁塔の地蔵さんの
前掛けを朝6時より集合して取り替えの作業です。
地蔵さんも盆です晴れ姿でにお帰りになられることでしょう。
取替え作業中
作業終了して休憩
綺麗になりました
今晩は、今晩も私事で恐縮です。
昨年8月29日に多発性骨髄腫で7年の闘病生活から見放されて、私ひとりにして旅立って
からもう一年が参ります。
今晩長浜の方にお集まり頂き、 初盆のお経唱えて供養して頂きました、13日には仏さんが
お帰りになる日だそうですので妻も帰ってくることでしょう。
皆な、暑い暑いと言ってますが植物はたいしたものです、 この日照りでも花を咲かせます。
水やりも殆どしていませんが今年で三回目です。
蕾もいくらか付いています。