昭和二十年八月十四日は, 私にとっては終生忘れる事の出来ない一日でした。
当時、私は大阪陸軍造廠会計課に勤務していました、大阪造兵廠は日本で一番大きな造兵廠
で。京橋駅から森の宮駅まで今の環状線を挟んで東西に工場がありました西は大阪府庁近く。
朝空襲警報艦載機の機銃掃射を受け、やっと解除になりホットする間もなく次はB29、 300機
による一トン爆弾の集中攻撃を受けました、当時は3月13日の焼夷弾攻撃によって焼け野原
になった処に防空壕を掘り其処へ空襲度に避難していましたが一トン爆弾が炸裂するたびに
地響き生きた気持もありませんでした。工場には保安要員が蛸壷の防空壕で看視していました。
やっと空襲警報も解除のなり、 造兵廠に帰ってみれば無残跡形も無く破壊されていました。
茫然自失とはこのことをゆうのでしょう、 しばらくは誰も言葉を発する人もいませんでした。
15日の玉音放送が2日早ければ 造兵廠の工場も500名の尊い命も失う事も無かった。
戦後世話人により発行された、大阪陸軍造兵廠生き残り証人の執筆
八月十三日大阪上空より散布された最後通告のビラ