昨日は父の三十五日法要でした。三月に跨がらないようにと、四十九日の法事は行わず、これで忌明けです。
あっという間の1ヶ月でした。
大阪の次男坊
まずは長勝寺での法要
その後、お墓に
墓参りのあと、食事会です。
昨日は父の三十五日法要でした。三月に跨がらないようにと、四十九日の法事は行わず、これで忌明けです。
あっという間の1ヶ月でした。
大阪の次男坊
まずは長勝寺での法要
その後、お墓に
墓参りのあと、食事会です。
昨日長浜から滝の宮の道中で、あちこちのオリーブ畑のオリーブの木がどこも剪定済みなのを見て、うちも今日やっとこうということになりました。
天気予報では雨が降ってきそうなので、午前中に済ませてしまうことに。
裏庭に植えているオリーブ数本の垂れ下がっている枝、上に伸びすぎている枝、密集している枝を思い切り良く落としました。
剪定が終わった後、しばらくして雨が降り出しました。今日の雨は結構な降り。
暖かかったせいか、夜には霧が立ち込めてました。
また、今夜は近所の親類に家に集まってもらい、「おかんき」を執り行いました。父が亡くなってから3度目のおかんきです。
追伸
剪定作業中、これまでは地鳴きしかしていなかったウグイスが一声だけでしたが、「ホーホケキョ」と鳴きました。
春近し、です。
大阪の次男坊
以上2枚、剪定前
剪定後
おかんきの様子
まだ正式に二代目になったわけではないですが、今日写真を撮ってきたので書き込みますね。
長浜~滝の宮~目島~長浜と約2時間かけて、姉と二人でのんびりと散策してきました。
滝の宮の丘から目島に下る道筋は対岸の牛窓方面を望み、広々として、しかものどかな雰囲気です。
大阪の次男坊
主のいなくなった宿ですが、先月と変わらず一日中家の廻りをメジロ、ウグイス、ジョウビタキ、シロハラなどの野鳥が飛び交っています。手前側はコスモス畑。今秋もいっぱい花を咲かせてくれるでしょう。
滝の宮の集落から目島に下る坂道。至る所でオリーブの植林を見かけます。
途中、オリーブ牛の牛舎に立ち寄りました。上の写真は堆肥。オリーブ牛の牛糞とおが屑が材料です。
手前の牛は出産間近。お腹が大きいです。今月末出産予定とのこと。
奥にいるのは生まれて間がない仔牛。一緒にいるのが母牛です。
この正月に家の前で撮影しました。父との最後の集合写真となりました。
(2年前、地元、四国新聞の記事に浜ちゃんの小豆島写真日記の事が取り上げられた時の記事です)
皆様
昨日、父の告別式を終えました。
父が亡くなった後、沢山の方から惜別のお言葉を頂き、有難うございました。
皆様のコメントを心待ちにしていた父が喜んでくれるだろうと、皆様のコメントをプリントして父の棺の中に届け、父と共に荼毘に付しました。きっと、旅立ちながらコメントを読み、感謝していることと思います。
父は最後のブログ更新となった1月16日のあと、1月20日(水)に高松の病院で診察を受けたあと念のために入院してもらいましたが、その時点ではまさかこのようなことになろうとは思ってもいませんでした。
入院後も普段と変わらぬ元気な姿を見せてくれていたのでした。
金曜日に肺炎の悪化傾向があり一時は心配したのですが、翌土曜日にはレントゲン写真でも前日と比べてすっかり回復して元気な様子であったので、これで一安心と思ってました。
しかし日曜日の朝、容態が急変して呼吸が困難で苦しむ状態が続き、とうとう覚悟をしなければならない時を迎えることになってしまいました。
先生からもこれ以上治療を続けるのは父の苦痛を増すだけ、苦痛を取る処置をしてあげることが今残された治療です、との宣告を受けました。
できることなればその処置を受けるまでに遠くにいる家族にも会えたらと願っていましたが、火曜日の朝、父の病床に子、孫9名とその連れ合い、ひ孫4名も含め20名が駆けつけてくれました。
呼吸困難が数日続いていた父ですが、意識ははっきりしていて、声をかけると気丈な父は懸命に喋ってくれるのでした。
しかし去年、同じ肺炎を克服した父も、今度は死を覚悟したようでした。
ベットを起こして父に呼びかけました。
「おやじよう、みんなと会えるのはこれが最後になってしまいそうや。みんなと一人ずつ別れの挨拶を交わして握手でお別れしよかー」、と呼びかけました。
一人ずつ父と別れの言葉を掛け合いました。間に合わなかった孫娘二人とは携帯電話でお別れをしました。
父と別れを告げる者、励まそうとする者。。。。。。。 そして握手。
しかし、みんな涙声になってしまって。。。。
気丈な父は苦しい息の中、我々を逆に励ますよう、「泣くなー」と言ったり、冗談を言ったり。
凛々しい姿でした。
二人目がお腹にいる孫娘の番になりました。
「じいちゃんにお腹をさすってもらいー」。
じいちゃんはお腹をさすりながら、「今度はどっちどー?」。
孫娘が「男」と答えると、廊下にも響くような大きな声で「また男かあ」。
みんな大笑いでした。
そしてまた、大泣き。
姉に対しては裏庭の畑に植えている玉ねぎをことや、生け垣の剪定のことなど、死にそうな状態やのに自分が死んだ後のことの身の回りの心配をしてしまう父。
私、「親父、心配せんでもええでー。ねえちゃんと俺がちゃんとやるからー」と叫ぶと、「お前の畑仕事はあてにならんー」とダメ出し。また、皆大笑いです。
泣いて笑って、また大泣き。
長浜の家の居間のソファーに腰掛け、微笑んでいた父。
その父とちっとも変わらない様子で語りかけてくる父。
その父がもうじき永遠の眠りについてしまうやなんて。。。 神さん、殺生やあ。
嗚咽が止まりませんでした。
最後の私の番が終わり、皆で一斉にじいちゃん最後のお礼を言いました。
「じいちゃん、ありがとう」
「じいちゃん、もう眠ってもええでえ」
父は静かに眼を閉じ、眠りにつきました。
その一日後、父は静かに息を引き取りました。
この正月に満94歳の誕生日を迎えたばかりでした。
正月明けには運転免許証更新のための検査を無事パスして、自慢気にスカイプで報告してきた父。
元気に小豆島中を飛び回っていたあの父の突然の死。
すぐには受け入れ難いのですが、最後の病室での父とのあのひととき、忘れられません。
じいちゃんは最後の最後にも子、孫、ひ孫に素晴らしい思い出を残してくれました。
病室でのあの情景を思い出すたび、不覚にも涙が溢れてきてしまいます。
父はこのブログを本当に生き甲斐にしていました。
もともと好奇心旺盛ではありましたが、ブログを始めた後のこの10年は、以前にも増して元気で活動的になっていました。
皆さんからコメントを戴けるのが、ものすごく励みになっていたようです。
6年前に妻を亡くしからは一人暮らしになりましたが、父方はもとより母方の甥や姪にも「おっちゃん、おっちゃん」と慕われ、気にかけてもらい、大事にされ、父は果報者でした。
岡山の姉や私もしばしば小豆島に帰り、父の近所に住んでいる姉、そして孫、ひ孫とともに、父と一緒に穏やかに過ごす時間をいっぱい持てたこと、私達は幸せでした。
私ども家族だけでなく小豆島の地元の方々も、死の直前までの元気だった父の姿が記憶に残ったままだろうと思います。
老齢の父を地域の方々はずっと見守ってくれていました。
「浜ちゃんの小豆島写真日記」は地元でもすっかり有名になっていたようです。
「じいちゃんのブログ見とったでえ」、父の死後、あちこちで声を掛けられました。
素晴らしい父、素晴らしいじいちゃんでした。
読者の皆様、小豆島のみなさま、本当に有難うございました。
2016年2月1日
大阪の次男坊
岡山の娘
小豆島の娘
父の思い出、宝であるこのブログはいつか私、大阪の次男坊が2代目浜ちゃんとして、きっと再開することをお約束します。