一生

人生観と死生観

ヤマタイ国は何処

2009-06-20 17:08:57 | 哲学
6月20日 曇り一時晴れ
 この前箸墓古墳の調査でこれがAD260-280に造られたという結果がでて魏誌倭人伝の卑弥呼の都は近畿説が九州説に対して有利になったというニュースが流れた。
近畿説はいろいろの難点があり、直ちに受け入れられないと九州説の論客は言う。副葬品の鏡や土器は九州から持ってくることもできる。それらを地元豪族に与えるというケースもありうる。卑弥呼のいた場所は倭人伝の記事では北九州の状況に一致するところが多い。神武東征の時期がAD280-300くらいとするとヤマタイ国は東遷したことになる(安本説)。古田説ではもっと古い時期に神武の近畿侵攻があったとする。いずれにしても箸墓は卑弥呼とは関係のない人物の墓になる。
 近畿説で大和地方に卑弥呼がいたとなると、初め九州にいた神武の祖先の天照大神に比定することはできない。シャーマンのような神がかりの女性が日本各地にいて、近畿の卑弥呼は神武と何の関係もないシャーマンとなる。それでもよいか。

稲の道と東北

2009-06-19 10:52:25 | 哲学
6月20日 曇り・薄日
 私は農学者ではないが、かって東北青森県津軽地方に弥生時代に水田稲作が行われていたとの驚くべきニュースを聞いて、東北の先進性に目を見張った。東北大学の伊東信雄教授の快挙だった。彼は田舎館村垂柳遺跡で水田跡を発見し、私の記憶が正しければ、水田に残された縄文人の足跡も見つけたのである。
 東北は気候が南に比べて寒冷だから稲は早稲の品種を捲き、早く収穫するのが成功の道であったと思われる。この高度な農業技術は西日本から徐々に伝わったのではなく朝鮮半島北部あるいは沿海州から直接伝わったものと推定される。
 東日流外三郡誌にはこれに対応する記事があって、到底和田喜八郎の頭ででっちあげたものと考えることはできない。流行作家が気楽に想像でものを書くのとは違った科学的意味がある事実が含まれているのである。
 佐々木広堂氏の「東北弥生稲作は朝鮮半島北部・ロシア沿海州から伝わった」(『古代に真実を求めて』明石書店、2006)にも詳細な検討が行われている。東北大学考古学教室には東北と沿海州との交流を示す多くの証拠品があるという。
これからしても東日流外三郡誌はでっちあげの偽作とすることは完全な行き過ぎであろう。物事は思慮深く慎重に考える必要があるのだ。

雨なら雨を楽しむ

2009-06-18 14:01:35 | 哲学
6月18日 雨
 雨に歌うという言葉は誰かの歌か詩にあったかもしれない。晴れに心躍り、雨もまた楽しむのはよいことである。心の持ちようで、日光の差し込まない雨の日も、しっとりと落ち着いたものとして受け止めることができる。
 広島で講演を頼まれている関係上、あまり余計なことをしている暇はない。私はいくつかのライフワークを抱えて苦闘の人生を送ったものだが、主流派の流れにのせられたことは少なく、アウトサイダー的存在であったことで、かえって自由な余生を送れと喜んでいるのだ。晴れなら晴れを楽しみ、雨なら雨を楽しむ。それでよいではないか。

太宰と三郡誌ー津軽人よ萎縮するな

2009-06-17 10:07:05 | 哲学
6月17日 曇り
 太宰治(本名津島修治)の生誕100年を迎えるに先立って、朝日新聞に関連記事が出た。なんと日本で夏目漱石についで読まれるのはこの人の小説だという。若い頃私も「走れメロス」その他愛読した。彼は塚本虎二の聖書講義に出席したこともあるキリスト教シンパである。弱い人間性をさらけ出した痛ましくも正直な人であった。
 『東日流(ツガルと読む)外三郡誌』は偽書とされて執拗な攻撃を受け、津軽の人さえもそれを信じている人が多いといわれる。偽書とする人は筆跡鑑定からおかしい、記事内容に現代人の科学用語が含まれている、福沢諭吉の言葉の盗用があるなどと言い立てる。真書派の人も負けていない。原本に帰れと。原本はある。原本は古い時代に作られていた。それは日本国際文化研究センターの笠谷教授によってほとんど確実に確かめられたと。
 それを偽書とするのは和田(金に困り、古代資料をタネに怪しげなことをやったとされる)という人物に強くこだわっているのだが、和田が自分の頭であの膨大な記録を全部作り出せるわけはない。筆跡など変わりうる。100%信頼できるとはいえない。私はアメリカ留学中、自分のサインが十分定まらないのでアメリカ人に疑われたこともある。私の知っている夫妻は何時の間にか奥さんの筆跡がご主人に似てきた。現代人の科学用語は変だが書き写しの間違い(または思い込み)ということもありうる。諭吉の言葉は彼自身別のところから引用したと見られる。
 偽書とする人たちの頭の中には無意識的にせよ東北人に対する差別意識がありはしないか。東奥日報記者が「偽書『東日流外三郡誌』事件」という本を書いたが、正義感に駆られた部分はあるにしても、基本的に学者の論争に対し新聞記者の守るべき不偏不党の精神から少し逸脱していないか。私はこの斎藤氏の本を鵜呑みにしてはいけないと思う。
 東日流外三郡誌は原本においては多分本物であろう。その中味は、古代に関する部分は、日本書紀や古事記と同様に単なる伝承を含むかもしれないが、読むものが判断すればよいことである。偽書、偽書といって騒ぐのは大人気ないことである。
 津軽の人はこのような書を持っていることを誇ってもよいはず、萎縮する必要はないと私は思う。

理想と現実

2009-06-16 17:05:04 | 哲学
6月16日 曇り一時晴れ
 社会問題・政治問題は科学や数学の問題と違って、簡単には割り切れない。人間の情念も絡み、複雑さはとてもじゃないが想像に余る。そこで政治家は言うのだ。永田町の未来については一寸先は闇と。そうだ、監督権のある鳩山総務大臣が監督される立場の西川社長をくびにできず、自分が辞任する破目になった。社長の粘り勝ちであり、鳩山の正義感は青臭さを露呈したのだ。国民の目線から考えると称した鳩山だが、それはその通りかもしれないが、われわれ何となく宙に浮いた印象しかもてなかった。正義われにありという鳩山だったが、ついに自滅。悔しそうな顔であった。政治家の理想を実現するのはむずかしい。理想と現実のはざまで悩む人たちは多いようだ。

子どもの遊び場

2009-06-15 20:18:26 | 哲学
6月15日 晴れ
 宮城県は児童館を廃止し、跡地を半分は児童公園化するという方向で進めているようだ(半分は売ると言うことか)。莫大な金を投じて自動車産業を誘致することにしたのに、この経済不況に直撃されて、トヨタは工場を新設する余裕がない。まったく知事の誤算だろう。教育福祉を犠牲にして金儲けばかりに集中していてこの有様だ。子どもの遊び場は年々減ってゆく。児童館の変容はやはり嘆かわしいことだ。子どもがよい遊びを覚えることは成長発達にプラスすることを思い、大人の責務を痛感する。

八千草薫登場

2009-06-12 08:56:21 | 哲学
6月12日 晴れ
 八千草薫、何時か昔の日、憧れの女優さん。NHKテレビに登場。ああ、大変年とったな。若い日は輝くばかりの美貌。それが今は品のいいばかりのおばあさん。枯れてしまって昔を思わせるものは少ないが。
 経る年月には抗えない。私も他の人から見れば同じことだろう。元気も知恵も若いときと比べるべくもない。しかし変わらずにいたいものがある。心の奥の願いがある。母恋と、この天地を造りたまうた神のみ前にすべてを許され、赤子のようにやすらうこと。

古事記の登場人物の使った言葉

2009-06-11 15:02:13 | 哲学
6月11日 雨のち曇り
 奇妙に思うかもしれないが古代史神代のころを想像してみる。いわゆる天下りした人たちは地元の人と話すのに何語を使っていたかと言う疑問が湧いてきた。神話だから何語でも自由自在と思いきや、何だか言葉がさっぱり通じないのではないかという気配が見て取れる。ニニギの命は恐らく朝鮮語のようなものを使い、地元九州の猿田彦(出雲語のようなもの?を使う人たちの一員か)は目をギラギラさせてことあれば迎え撃つ姿勢だったに違いない。そこに登場するのがウズメの命。女性の神がストリップ・ショウまがいの格好であらわれ、猿田彦を色仕掛けで誘惑した。ここでは言葉などあまり必要でない。猿田彦はウズメと夫婦になり、のちに伊勢神宮の一角に祭られる。こんな日本神話は遠い昔のかすかな記憶を残しているかもしれないが、信憑性があるかといえば、まずない。古代史はあまりカリカリと真偽を論じても仕方がないのだ。想像を楽しむという程度から大きく逸脱しても仕様もない気がする。

遠くを見る人

2009-06-10 20:49:05 | 哲学
6月10日 曇り
 近いところしか見ないで物事を処理するーこれがふだんの私たちのやり口である。このことの結果がどんな影響をもたらすか、それは分からないがとにかくやって見るほかない、こうして私たちは実行し、そして失敗し、後悔もするであろう。しかしそれはすべて良い経験と思う人は、次の機会に誤ることはないであろう。まあ、1回くらいで分からず何回か失敗して初めて気がつくということもあるであろう。そして遂に遠くを見るということを学ぶのだ。遠くを見ることを学んだ人はあまりこせついて怒らない人である。近くを見て判断し、怒る人は勇ましく見えるのだが、本当の知恵に恵まれた人とはいえないだろう。日本の政治や社会の現象を見ていると、本当に必要なことに怒っている人は少ない。つまらぬことに腹を立てても仕方がない。度胸が必要なのだ。

五木ひろしの世界と運

2009-06-09 16:39:08 | 哲学
6月9日 曇り
 今朝NHK総合テレビを見ていたら、国民的演歌歌手と言われる五木ひろしが登場し、座談の間に歌曲も披露する番組みであった。母親が女手で4人の子どもを育てたとか、末っ子のひろしは母親に楽をさせたい思いで、一生懸命努力したそうで、還暦を過ぎた今、4人の女性に深く感謝するとのことであった。その語り口は彼の純な人柄を表すもので、最後の末娘の手紙の読まれた後は思わず涙を拭いていた。
 才能ある人でも運がつかないと出世はできない。ある時まで売れない歌手として下積みだった彼が、一躍大歌手に成長するきっかけを掴んだ。こうした運というものは一見不思議な装いをして突然やってくるものらしい。歌手だけではない。ノーベル賞を貰うような科学者にもそういうことはあるようだ。運を馬鹿にしてはいけない。