一生

人生観と死生観

白か黒か

2009-06-06 12:10:57 | 哲学
6月6日 雨のち曇り
 世の中白か黒かで物事を決めるしきたりの中で困ったことも起こる。東京高検は足利事件(幼女が殺害された)で服役中の菅家利和さんの釈放に踏み切った。血液のDNA鑑定によって有罪とされたのだが、再鑑定の結果、前の鑑定が間違いであった可能性が高いことが分かったからである。誤った鑑定のために一人の人間の人生を17年間も奪うとはとんでもないことだが、DNA鑑定の精度が上がって今では4兆分の1の誤差しかないという段階になり、前の鑑定は取り消されることになったのだ。
 科学のデータは常に誤差が伴う。ところが社会の多くの問題では、白か黒かで決める。100%正しいか、100%誤っているかの2者択一である。そうでないと物事を前に進めることが出来ないという理由である。裁判ではしばしば白と黒の間の灰色というケースが出てくる。そのため疑わしきは被告人の利益、すなわち処罰しないという原則がある。ただし黒に近い灰色は黒と判断するのが実際だ。
 科学的データを採用したはずの裁判でこんなことになったのは科学データにあまりよりかかることも時にはうまくないという反省をもたらす。前の鑑定はデータの精度の問題だけでなく何か別の原因が混じっていた可能性もあると私は見る。
 歴史や考古学でも似たようなことはある。筆跡鑑定のような個人わざにたよるやり方の精度はあまり良くないだろう。しかし精度の高い科学的方法も万能ではないのも事実だ。良識による判断は最終段階の課題であろう。
 東日流外三郡誌を偽書とするのは筆跡鑑定が主になっている。後代の人の写本が悪意の産物だと断定する白黒論議である。それに対してこの本の寛政原本が出て電子顕微鏡鑑定を行った結果本物である可能性が高いとするのは科学的であって、これは白黒論議を戒めるものと理解してよいだろう。国際日本文化センター笠谷教授が冷静な判断を求めるのは当然で、これを基礎に判断が前進することを私は望む。