一生

人生観と死生観

いわゆる古田史学について

2010-11-24 15:39:00 | 歴史
11月24日 晴れ時に曇り
 古田氏は今までも主として『東日流外三郡誌』(和田家史料)の議論のときに取り上げた。この人は在野の古代史家として有名である。多くの古代史ファンがこの人のもとに集まり、古代史の講話を聞き、また身近なところで古代の研究をおこなっている。アマチュア主義の研究愛好家にとって格好の箱舟を提供しているように思われる。熱烈なフォロアーにかこまれた一種のカリスマのような人であるともみられている。
 私は古代史の素人であり、裁判までになった和田家文書の問題に詳しいわけではなく、はじめはこの文書の真偽論争に加わりたくなかった。しかし古田氏があまりにも不当に攻撃されていることに義憤を感じた。『三郡誌』を世に出した和田喜八郎という人物は地元であまり信用されていない人だったようだが、彼を擁護する古田氏の立場にはしっかりした基本的確信があるように思った。和田喜八郎は祖先の文書に現代の知識で加筆をしたり、絵を書き加えたり、困ったことをして、先祖の信用を落とす結果をもたらしたが、古田氏は江戸時代寛政期の原本の存在は確実と考えた。その考えは国際日本文化研究所の笠谷教授によって科学的に検討され、少なくとも検査史料については確かめられている。しかし偽書説はウィキペディアでもまだ優勢を保っている。これは状況としては大いに疑問である。
 偽書派が架空の人物のようにいっている秋田孝季が長崎で英人エドワード・トマスから宇宙・地球起原論の講義を聞いたことは、科学史の上からは興味あるものである。日蘭協会にオランダの史料を検討してもらったところ、秋田の長崎滞在は時期的にはまったく事実に合うということになった。秋田の実在性は確かであろう。偽書派の論理はあまりにも大雑把である。和田喜八郎は祖先の言いつけに従って部分的な修正をおこなったかもしれないし、またサービスとして絵を書き加えたりしたかもしれないが、学歴もない津軽の百姓に大きな改竄をするほどの知識は到底あるはずがない。直接和田に会い、古文書も見た古田氏らの言っていることは、そのような調査をしていない偽書派の人々の言い分に比べてはるかに信用できる。古田氏が『三郡誌』寛政原本を議論の原点に据えたことは原則的に正しいとすべきである。
 また古田氏は九州王朝説を唱える。中国の史書と対照して、非常に深い読み方をする。その学殖には通常の大学の研究者も到底及ばないほどである。私は古田氏の言うところは今後日本史を発展させるために当然取り上げるべきだと思うが、今のところ正統派の学者たちには無視されているそうである。惜しいことだ。私は古田氏の方法論は評価すべき点が多いと思うが、全面的に賛成しているわけではない。たとえば『魏志倭人伝』中「また裸国・黒歯国有り。・・・船行一年にして至るべし。」とあるところである。古田氏の言うように漂流して南北アメリカ大陸に至るのは事実であるが、生きてそこで上陸し、また帰って祖国にいたり報告することの困難さは言わずもがなである。アイデアとしては面白いが、証拠は十分でなければならない。通常学問的議論は(1)正しいこと(2)誤っていることのほか(3)その時点で十分な証拠がないため正誤の判断を差し控えるべきことの三区分があると思う。ところが古代史の関係者はしばしば真書か偽書かの黒白論争におちいる。(3)のようにまだ判断すべきでない領域があることを認めることが必要であると思う。これは自然科学の論法では50%くらいの信頼度しかないときには発表を差し控える、80%くらいで確からしいと言及する、95%以上でほぼ確実という、100%に限りなく近付いてはじめて断定する。そのような領域と考えるのである。自然科学は確からしさを白(100%)か黒(0%)かで評価せず、中間の%で考える習慣があり、私はそれに従いたい。