風薫る令和元年皐月の立夏、かねてから計画していた箱根旅行へでかけた。その日は、米寿を迎えた母と叔母の誕生日であり(つまり、この姉妹は、三年違いで同じ日に生まれている!)、当日が大安吉日とあればまったく申し分のない日取りである。従妹夫妻も誘って、総勢6名の一泊旅行だったが、好天にも恵まれてとてもいい旅となった。従妹の連れ合いは、単身赴任先の神戸からわざわざ駆け付けてくれて、翌日の朝食時には大学生の娘も合流し、和室での記念撮影と相成った。
ひさしぶりの箱根湯本だったけれど、にぎやかな駅前通りをぬけて箱根見番のある一本裏側のとおりにはいると、早川にかかる湯本橋から先に見えてきた風景は、湯のまちらしい風情であまり変わることなくほっとさせられる。橋のたもとには、自然薯つなぎの元祖とうたう「はつ花そば」店舗があって、その向かい木造三階建ての「知客茶屋」もほぼそのままのたたずまい。とおりの突き当たりも、雰囲気のある木造三階建て旅館である。
そこから左に折れた通りの右側一帯がその日の宿「吉池」だ。ひろい玄関前の木製看板が老舗らしく、手水鉢に自家源泉湯がひかれている。一見なんの変哲もない普通の鉄筋コンクリート造りのやや年数の経た旅館にしかみえないが、なかにはいってみると印象がかわる。ロビーが思いのほか広く、正面ガラスの向こうには、植栽の茂る背後の庭からの流れが岩石組を伝わって、錦鯉のゆうゆうと泳ぐ池に落ちていた。
宿の創業は、昭和八年にさかのぼるそうで、初代オーナーは新潟県松之山の出身、いまもその一族が経営を担っている。母の思い出話によると、その伝手をたよったのか、かつてはふるさとの実家によく出入りしていた人の親族が働いていたこともあったという。そんなこともひとつの縁かもしれないと思い、この機会に泊まってみようということになったのだった。
もうひとつの大きな理由は、この旅館の一万坪あまりの広大な庭園敷地の由来に興味をひかれたからである。なんと明治大正昭和初期をとおして、旧三菱財閥の岩崎家三代(弥之助、弥太郎、小弥太)別邸であったこと。明治三十五年(1902)に建てられた木造家屋(平成十年に国登録文化財)が当時の雰囲気をそのまま伝えている。
造営当時の設計は三菱お抱えの建築技師清水仁三郎で、棟梁は柳木政斉、大工は鳥羽からわざわざ呼び寄せたとある。工期が長期にわたったためか、その子孫はこちらの気候が気に入って、いまも江之浦にすみついているという。建物そばの山サクラの大木が咲くころの写真をみると本当に絵になる、という言葉がぴったりだ。あとから移築された德川家ゆかりの茶室真光庵も付属していて、興味はつきない。
庭の中央の芝生広場の大きなヒマラヤ杉のすぐ隣には、ジョナイア・コンドル設計のレンガ造り洋館もあって、当時の様子を映したモノクロ写真がフロント背後の壁面に掲げてある。この洋館が関東大震災で倒壊していなかったら、東京台東区湯島にある旧岩崎庭園の洋館和館と対をなしていただろうにと思うと残念でならない。こちらは江戸時代、越後高田藩主榊原氏の屋敷を当時の新興財閥であった岩崎家が所有したわけだから、箱根湯本の岩崎別邸とはちょうど逆の経緯をたどっており、そこが歴史の偶然の面白いところ。岩崎家と越後高田は、意外なところでつながりがあるものだ。
箱根湯本 岩崎別邸洋館の面影(J.コンドル設計、1909年)
幾多の変遷を経た庭園と歴史的な建物、箱根の山中から引き入れた豊かな渓流に緑鮮やかな植栽。
旧岩崎庭園の新旧を同じアングルから偶然にも撮っていた! 木造平屋の別荘建築は、往年の姿を遺す。
建物右側、屋根をおおうような緑は、みごとな山桜の大木。池の端の灯籠も当時のままで、大きく茂った植栽がながい年月を語る。
それにしても、ロビーに入ってからその先に広がる庭園のいわく有りそうな雰囲気は、やはりそれ相応なものであったということか。あまり(まったく)大きく宣伝されていないおかげで、ゆったり思いのままに池泉回遊式の由緒ある庭園を存分に味わうことができるのだ。
広大な庭を縦横に流れる豊かな渓流は、本館から和館の脇をぬけてさらに奥にある庭園の先へとさかのぼり、須雲川からひきいれたもので、初夏には蛍も飛び舞うらしい。この時期は、水芭蕉によく似たカラーの真っ白な花が咲き誇っていた。
ここの最大の愉しみは、庭園の緑の木々に囲まれた源泉かけ流しの温泉露天風呂。その湯質は単純泉であって、透明でさらさらといつまでも浸かっていてもよく、すばらしく開放的で申し分がない。この時期は、早朝の明けたばかりの陽光が水面に反射するゆらぎのなかで、湯気のなかに静かに身を横たえて深呼吸、手足を伸ばしたり縮めたりしながらゆったりと浸かっていると、浮世の出来事から遠ざかって天国にのぼったような気分になってくるのだ。
ひさしぶりの箱根湯本だったけれど、にぎやかな駅前通りをぬけて箱根見番のある一本裏側のとおりにはいると、早川にかかる湯本橋から先に見えてきた風景は、湯のまちらしい風情であまり変わることなくほっとさせられる。橋のたもとには、自然薯つなぎの元祖とうたう「はつ花そば」店舗があって、その向かい木造三階建ての「知客茶屋」もほぼそのままのたたずまい。とおりの突き当たりも、雰囲気のある木造三階建て旅館である。
そこから左に折れた通りの右側一帯がその日の宿「吉池」だ。ひろい玄関前の木製看板が老舗らしく、手水鉢に自家源泉湯がひかれている。一見なんの変哲もない普通の鉄筋コンクリート造りのやや年数の経た旅館にしかみえないが、なかにはいってみると印象がかわる。ロビーが思いのほか広く、正面ガラスの向こうには、植栽の茂る背後の庭からの流れが岩石組を伝わって、錦鯉のゆうゆうと泳ぐ池に落ちていた。
宿の創業は、昭和八年にさかのぼるそうで、初代オーナーは新潟県松之山の出身、いまもその一族が経営を担っている。母の思い出話によると、その伝手をたよったのか、かつてはふるさとの実家によく出入りしていた人の親族が働いていたこともあったという。そんなこともひとつの縁かもしれないと思い、この機会に泊まってみようということになったのだった。
もうひとつの大きな理由は、この旅館の一万坪あまりの広大な庭園敷地の由来に興味をひかれたからである。なんと明治大正昭和初期をとおして、旧三菱財閥の岩崎家三代(弥之助、弥太郎、小弥太)別邸であったこと。明治三十五年(1902)に建てられた木造家屋(平成十年に国登録文化財)が当時の雰囲気をそのまま伝えている。
造営当時の設計は三菱お抱えの建築技師清水仁三郎で、棟梁は柳木政斉、大工は鳥羽からわざわざ呼び寄せたとある。工期が長期にわたったためか、その子孫はこちらの気候が気に入って、いまも江之浦にすみついているという。建物そばの山サクラの大木が咲くころの写真をみると本当に絵になる、という言葉がぴったりだ。あとから移築された德川家ゆかりの茶室真光庵も付属していて、興味はつきない。
庭の中央の芝生広場の大きなヒマラヤ杉のすぐ隣には、ジョナイア・コンドル設計のレンガ造り洋館もあって、当時の様子を映したモノクロ写真がフロント背後の壁面に掲げてある。この洋館が関東大震災で倒壊していなかったら、東京台東区湯島にある旧岩崎庭園の洋館和館と対をなしていただろうにと思うと残念でならない。こちらは江戸時代、越後高田藩主榊原氏の屋敷を当時の新興財閥であった岩崎家が所有したわけだから、箱根湯本の岩崎別邸とはちょうど逆の経緯をたどっており、そこが歴史の偶然の面白いところ。岩崎家と越後高田は、意外なところでつながりがあるものだ。
箱根湯本 岩崎別邸洋館の面影(J.コンドル設計、1909年)
幾多の変遷を経た庭園と歴史的な建物、箱根の山中から引き入れた豊かな渓流に緑鮮やかな植栽。
旧岩崎庭園の新旧を同じアングルから偶然にも撮っていた! 木造平屋の別荘建築は、往年の姿を遺す。
建物右側、屋根をおおうような緑は、みごとな山桜の大木。池の端の灯籠も当時のままで、大きく茂った植栽がながい年月を語る。
それにしても、ロビーに入ってからその先に広がる庭園のいわく有りそうな雰囲気は、やはりそれ相応なものであったということか。あまり(まったく)大きく宣伝されていないおかげで、ゆったり思いのままに池泉回遊式の由緒ある庭園を存分に味わうことができるのだ。
広大な庭を縦横に流れる豊かな渓流は、本館から和館の脇をぬけてさらに奥にある庭園の先へとさかのぼり、須雲川からひきいれたもので、初夏には蛍も飛び舞うらしい。この時期は、水芭蕉によく似たカラーの真っ白な花が咲き誇っていた。
ここの最大の愉しみは、庭園の緑の木々に囲まれた源泉かけ流しの温泉露天風呂。その湯質は単純泉であって、透明でさらさらといつまでも浸かっていてもよく、すばらしく開放的で申し分がない。この時期は、早朝の明けたばかりの陽光が水面に反射するゆらぎのなかで、湯気のなかに静かに身を横たえて深呼吸、手足を伸ばしたり縮めたりしながらゆったりと浸かっていると、浮世の出来事から遠ざかって天国にのぼったような気分になってくるのだ。