日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

国立映画アーカイヴ相模原分館、そして夕暮れのスイミング

2022年08月10日 | 日記

 立秋のあとに残暑が続く。首都圏で35度以上の猛暑を記録した日は14日に上り、観測史上最多を更新したそうだ。真夏日はもう、ふつうのことで驚くことがない。その一方で集中豪雨による水害も多発していて、地上温暖化はとどまることがなく、いったいどこまで進んでいくのだろう。

 午前中に母親の通院付き添いで皮膚科に付き添ったあとに、午後から国立映画アーカイヴ相模原分館へ「五辯の椿」(1963年、松竹)を観に行ってきた。年に一度の文化庁優秀映画鑑賞推進事業というお堅い名称の上映会で、地元にありながら、普段は立ち入る機会のない映画フイルム保存収蔵庫施設内の試写室が会場となるもの珍しさもあり、建物見物もかねて足を運ぶ。
 あまり便利な立地とはいえない場所だが、駐車スペースすら提供されていない。仕方なく正門でUターンしてお隣の市立博物館駐車場に車を置かせてもらい、ようやく会場へ。平日の午後なので、観客のほとんどはリタイア組の高齢者だ。もともと一般公開を想定していないのだろう、飲み物販売機も設置されておらず、まことに素っ気ない雰囲気だ。その反面、試写室は200席程度の立派なもので、スクリーンの位置は目線より高め、一昔前の映画館の仕様になっている。
 定刻の午後2時、肉声の注意事項のあとに予告編なしですぐに上映が始まる。三時間近い山本周五郎原作の文芸映画の大作、監督野村芳太郎、音楽は芥川也寸志、琵琶の音が効果的に使われている。
 主人公おしのを演じる若き日の岩下志麻は着物姿、情念を深く秘めた役どころで本当に美しい。小顔で意志の強そうな目、口元も秘密を抱えているかのようで、色白の首筋から肩のながれのしなやかさに惑わされる。濡れ場の行燈の灯かりに一瞬のこと、白く光った左の乳房がのぞく。カラーなのにモノクロの雰囲気で、憂いを帯びた表情と怨みを込めた表情の対比が迫力で、男女の濡れ場も人間の性を如実にあらわにして見せる。おしのに殺された男たちの傍らには、一輪の椿の花が残されているのはなぜか、最後のワンシーンで鮮やかに解き明かされる。ここで染まされる花の象徴性は、「椿の庭」(監督:上田義彦、2021年)と同様だろう。

 上映が終わって屋外へ出ると、まだ夕暮れには少し早い。通りの向こうは、宇宙航空研究開発機構JAXSAキャンパスである。敷地沿いの柵にずらり、探査機はやぶさ、はやぶさ2、あけぼのなどの画像と説明シートが横に長く掲げられている。ここは、相模原から信州佐久にあるパラボラアンテナを経由して、遠く宇宙空間へとつながっている場所だ。たったいま見たばかりの江戸時代の人間模様を描いた映像の世界から一転、現代の広大な宇宙探査の営みへと切り替える落差に戸惑う。

 駐車場へと戻り、車中すこし思案してから、こもれびの森とゴルフクラブの間の道を市営温水プールのある麻溝公園方面へと車を走らせた。
 この夏八月に入ってすぐに、義母が逝去してしまい、慌ただしく九州岡垣での葬儀に参列したりで、二週間ぶりとなってしまった夕涼みのスイミング。もう、夏休み中のこどもたちや家族つれは帰ってしまって、静かなプールが戻っている。
 
 泳ぎ終えた帰り、殆ど人の姿のいなくなった公園、周囲の木立のシルエットが浮かびだして、正面入り口前広場にある、ライトアップされた新宮晋の動く彫刻「飾の庭」が、風に吹かれて形の向きを変えながら生き物のように静かに佇んでいる。
 
 駐車場上空を見上げた時にあと少しで満齢となる月が明るく輝いていた。また明日も暑くなるだろう。


清掃工場と温水プールの建物。「風の庭」銘板には、1983年11月とあり、設置されて39年がたつ。


薬師池公園の浄土世界 大賀ハス(2022.7.30 撮影)


いささか感傷的に 越後高田城下町

2022年07月01日 | 旅行

 信州から戻って約三週間後、こんどは越後高田へ実家の様子を確かめに帰省した。母はこちらの高齢者生活住宅へと移り住み、田舎の実家周辺は過疎化が進んでしまい、もはや住んでいる家族はいない。数年前からはまったくの空き家となってしまい、その管理に頭を悩ませていて、春から伸び切った家回りの草刈りを森林組合に依頼して、この度はその作業の立ち合いに帰ってきたというわけである。

 案の定というか、帰省前の当月14日に北陸東海地方の梅雨入りが発表されて、生憎のタイミングとなってしまった。それでも関越自動車道の湯沢インターを降りると夏の青空である。そのまま17号線をまっすぐ一走りして、ひと息つこうと石打の珈琲店「邪宗門」へ立ち寄る。ロードサイドに独特の書体で書かれた大きな看板が目印だ。

 白壁とレンガ造りのちいさな教会のような佇まいは、ヨーロッパの山岳地帯にでもありそうな雰囲気がする。三角屋根の頂点には凝った意匠の十字架が乗っかていて、その下の白壁にはカウベルを大きくしたような青銅色の鐘、その下には帯状の流し枠に「邪宗門」とある。店内入り口は、階段を四段上がった腰回りの高さの赤レンガとその上部分が漆喰で作られた小屋根付き門柱の木製外扉のさらに奥まったところ、年季の入った内扉の先になる。この凝ったつくりは、意匠よりも雪の季節を考えてのことだろう。



 気温が上がってきて少し雲の向こうに霞んではいるが、正面には八海山、駒ケ岳、中岳の越後三山が望めるし、建物の脇には田植えが済んだばかりの稲の若苗が揺れている。よく見ればオタマジャクシたちが浅い水面を泳ぎ回って、水中の泥を巻き上げたりしていた。すぐ横の国道を行きかう車は多くても、やはりここには、モンスーン地帯の懐かしい田園風景が広がっている。
 店内に入ってみると、古くて太い木材で組まれた柱と天井の梁が重厚でどっしりとしていて、木製のテーブルに椅子も調度も落ち着く。壁にはいくつものアンテーク時計が駆けられているが、すべて指し示す時間が異なっている。その中でどうやら動いているのは二台だけ、ここでは時間が重層的に流れていく。


  石打邪宗門。入り口階段脇に欅古木の幹。テッセンの蔓に花一輪

 魚沼丘陵を超えた十日町市街では、まだ真新しさのある越後妻有文化ホール「段十ろう」に立ち寄る。軒先が雁木通りのモチーフだ。そこから信濃川を渡り、頚城丘陵のいくつかのトンネルをひた走り、夕方になってようやく元小学校だった体験型宿泊施設、月影の郷近くの実家に到着した。

 翌日の早朝はあいにくの雨降りだったが、幸いにも草刈り作業が始まるころには、あがってくれた。家回りの草刈りは、ゆきぐに森林組合のふたりの作業員が昼過ぎまでかかって、きれいに仕上げてくれた。最後に刈った草をいくつかの山状に集めてようやくのこと、ほっとした。

 それから昼食を取ろうと高田市街まで小一時間ほどかけて出かける。途中の高田城三重櫓前通りを走っていると、なんとスターバックスコーヒーのドライブスルーができていたのにはびっくりした。大きなガラス張りの黒い平屋建て、広い駐車場つきで城址を望む絶好のロケーションである。ふるさとの町にも都会の標準的要素が浸食していることを感じた瞬間だった。


  城址公園の先の青田川ほとりのタイ風料理店、その名も「Cafe かわのほとり」へ到着。こじんまりといい佇まいだ。出されたランチセットは、エスニック風味を田舎向けにアレンジしていてやさしい味わいだ。
 すこし周辺を歩いてみる。この総構堀にあたる青田川周辺までが、かつての侍屋敷であったところなのだろうが、いまは静かな住宅地が並び、川沿いはソメイヨシノ並木の遊歩道となっている。
 いまの高田駅がある旧信越本線、いまの妙高はねうまラインに並行して大町通(北国街道)、本町通、仲町通りと三つの主要街道が南北にぬけ、鉄道のむこうは浄土真宗本山のひとつである浄興寺や東本願寺別院など六十を超える寺社が並ぶ独特の雰囲気のある表寺町、裏寺町通だ。
 旧信越線を渡って浄興寺山門どおりの入り口に佇んでいるのが、落ち着いた黒塀に囲まれた格子のある建物が割烹旅館長養館で惹かれる。奥まった建物とよく手入れされたお庭が広がっていて、ここにはいつかゆっくりと泊まってみたいと思っている。そのちかくの天ぷら五郎で夕食の天丼をいただく。

 高田の城下町は、南北の主要道と東西にぬける道が碁盤の目状に町割りされて全体ができている。その城下町のはじまりは1614年、徳川家康の六男松平忠輝の代から輝かしく始まる、はずだった。
 ところが大阪冬・夏の陣をはさんで、天下普請で築上された高田城の開城後わずか二年の1616年七月、改易流罪されてしまう。忠輝は伊勢、高山と流転を続け、最終的には諏訪高島藩に幽閉の身となって、当時としては驚異的な長寿の92歳で現地に没している。晩年は比較的自由な身となり、達観して諏訪湖での釣りや趣味三昧の日々であったという。
 そもそもの始まりでケチが付き躓いてしまった高田藩の命運は、四代松平光長の時代にようやく繁栄を迎えたものの、その後もお家騒動による懲罰や雪と地震による飢饉災害などが相次ぎ、北陸街道や北前船寄港地に近い要という地勢的有利さを活かしきれないままに、不運としかいいようのない悲哀を帯びた変遷をたどってしまう。
 1685年に小田原から稲葉正通氏が入封してからは、小藩ながらやや持ち直し、松尾芭蕉が「おくの細道」の途中で立ち寄っている。財政的に厳しかった戸田氏、桑名から入封の松平氏の時代、最後は姫路から榊原氏が移って政治的には安定したものの、頻発する災害に苦しめられながら忍耐の130年間で、最後は反新政府軍側として敗戦側となり、同じく降伏側会津藩士を預かって激動の明治維新を迎えた。幕末には、十返舎一九が来高していて一文を残し、そのゆかりの飴やがいまでも存続している。
 と、ここまでくるとまったく踏んだり蹴ったり、貧乏くじを引いてばかりのように見えるだろう。おそらくその命運のなかで高田藩士と城下庶民の身に染みたのは、表立っての主張を控えて本意は腹の奥底にしまい込んで、なかば諦めも混じった“忍耐の精神”ではなかったか。地に足をつける、といったら格好はよいが、まあ仕方がないし、なるようにしかならない、といった心情はなんとも歯がゆい気もするが、さまざまな出来事に拘束される中で選ばざるを得なかった“叡智”なのかもしれない、と納得しよう。

 敗者の論理が身に染みている分、城下町の街並みと人情は慎ましやかであり、口調もどこかおだやかで優しい。城址も伊達政宗などによる天下普請とはいえ、天守閣も石垣もなくわずか本丸に土塁を残すのみである。それでも本丸三重櫓を望める内堀にかかる太鼓橋の名称は“極楽橋“という。春になるとソメイヨシノが濠の夜景に浮かんで見事らしい。ふるさとなのに、サクラの夜景はじっくりと見たことがないのだ。

 そしてこの初夏に時期に外堀には、もともとは維新後の困窮対策として窮余の策で植えられたという蓮根が泥中から地上天国に茎をのばす。そうして緑の皿のようにおおきな円形の葉の連なりと、もうすぐうす紅白色のハスの花々が辺り一面に埋め尽くされて、それはそれは見事だ。
 どちらも哀愁の城下町には、この時期だけひときわ華やかでもあり清々してふさわしい情景と思える。その花々の情景に、城下町が抱えてきた様々な出来事への鎮魂の意味も含めて。
(2022.6.29 書き始め、7.1 初稿了)


皐月から水無月を跨いで 信州松本城下町  

2022年06月27日 | 旅行

 今月六日に梅雨入りした関東甲信地方だが、もう梅雨明けの本格的な真夏のような、ここ数日の急激な暑さと言ったらどうしたことだろうか。

 梅雨入り前の信州松本と、14日に梅雨入りした越後高田とふたつの城下町を旅してきた。隣接した県にありながら、対照的とも思えるふたつの城下町を訪れて歩いて巡ったこと見たこと、感じたことを思いのままに記してみる。まずは、先月末日からの月跨ぎ信州路の旅のあれこれから。

 信州松本を訪れるのは、2018年11月25日以来四度目になる。もうあれから四年が過ぎている。それが遠い前のことのようにも思えるし、あっという間の出来事のようにも思い返される。
 八王子からのあずさ5号が松本に到着したのは午前十時半過ぎ、駅前に降りてタクシーに乗り、車中の高揚感とともに不思議に安堵感を覚えるのは、そのときと同じ友が同行していてくれるからなのだろうか。以前泊まったことのある同じ松本ホテル花月に到着した時の懐かしい気持ち、また戻ってきましたよ、と語りかけたいくらいだった。荷物を預けたら、別館一階の「八十六温館」でのワンプレートランチでひと休み、松本に滞在するんだという気持ちにじわじわと馴染んでいく感じだ。

 このカフェのすぐ脇、本館とのあいだには豊かな水路が流れている。それはおそらく松本盆地を流れる伏流水がもとで、そのすぐさきの女鳥羽川に注いでいるのだろうけれど、涼やかである種の生命感を与えてくれている。そうして水路をはさんだ本館も別館も正面入口はお城側をむいていて、建物本体はすこし段差の下がった位置に高低差を正面口の高さにあわせて建てられているようだ。水路が流れているあいだの細い通路は外堀小路と呼ばれているらしく、いまは両側に建物の背後で挟まれていて、通りぬける人もいない。
 宿の隣、かつてにぎわいの名残りが感じられる鄙びた上土通りの角には、ちょっとした植え込みの中に東門の井戸が残っていた。女鳥羽川沿いの縄手通りにでる手前にも、辰巳の庭公園というところがあって、古い家屋に囲まれたいい感じの水路と植栽が整備されている。

 このあたりは観光客もちらほらと見かけるくらいで、落ち着いて滞在し散歩するにはもってこいのところだ。ここからは松本城公園も、女鳥羽川のむこうの老舗店が軒を連ねる中町通りへも、のんびりと歩いて行けるし、もうすこし足を延ばせば住宅地やお寺をぬけて、松本市美術館やまつもと市民芸術館、その先の旧制松本高校跡地、ヒマラヤ杉並木が立派で伝統を感じさせる、あがたの森公園までも行ける。翌日の街めぐりの散歩コースとなった。

 初日昼食後は、バスに乗り郊外にある漆塗作家の器工房を尋ねた。思いがけず、帰りは松本城のすぐ正面の市役所前まで送っていただくことに。車から降りたあとに、せっかくだからと市役所展望台から天守閣と対面を果たすことにした。築五十年超えると思えるようなレトロ感のある市役所に入って、最上階から階段で昇っていくと、四方がガラス張りの展望室になっている。そこは天守閣を望む特等席、松本城のその向こうには冠雪を残した北アルプスの山々が一望できる。岳都ならではの雄大な風景と八万石城下町のいまのすがたを堪能した。

 両日とも夕食は、まちに繰り出していただく。初日、宿から歩いて近くの民芸居酒屋「しづか」にて、ここは焼き鳥とおでんが看板なのだそうだ。二日目は、松本民芸館からの帰り路に立ち寄った川のほとりの古いビルにある自称時代遅れの洋食屋「おきな堂」で卓を挟みながら。店内に入って席に着けば、室内の様子から地元に愛されている雰囲気が伝わってくる。若くてきびびきびした看板娘?さんが、丁寧な説明付きで給仕をしてくれていて気持ちよかった。
 帰り際のこと、レジ横の壁には数年前に来店した日付がある小澤征爾のサイン色紙が飾られていた。

 ローカルで落ち着いた松本のまちの雰囲気が感じられる絶好のロケーションで、二泊過ごせることの幸運を想う。月跨ぎの信州松本の夜は長い。


大場芳郎漆部(松本市岡田)2022.5.31


 市役所展望室から松本城と街並み、その向こうの北アルプスを望む(2022.5.30)

 翌日、松本から長野まで篠ノ井線で善光寺平を往復して、新装なった長野県立美術館と東山魁夷館をめぐる。美術館本館は昨2021年四月に新装なったばかりのぴかぴか。設計は宮崎浩/プランツアソシエイツ、隣接する東山魁夷館とブリッジで結ばれていて、建築的にもよく調和がとれている(2022年度の建築学会賞を受賞した)。間の段差のある人工池の流れには、一日三回定時になると中谷芙美子の霧の彫刻が出現する仕掛けとなっていた。ちょうどその午後の回に遭遇することができた。
 美術館屋上テラスに出てみると、目の前に国宝善光寺本堂の大屋根が望める。暑いくらいの陽気に恵まれて、ここからの大きく開けた風景は雄大で気持ちがいい。
 東山魁夷館は、ロビーを抜けた人工池を取り込んだ内庭とアルミパネル壁の建築と切り取られた周囲の風景と天空のがすばらしい。展示室棟ロビーからの人工池ごしの眺めもなかなかのものだ。
 美術館のあとに立ち寄った善光寺境内は、一年遅れの前立ご本尊御開扉でにぎわっていた。私たちもお参りを果たして、急ぎ足で帰路に着く。


 東山魁夷館内庭より。設計谷口吉生/竣工1990年、2019年改修(撮影:2022.6.2)


センダンは薄紫の花

2022年05月16日 | 日記

 雨模様の月曜日、町田市成瀬にある堂之坂公苑へセンダン(栴檀)の花を見に行く。こじんまりした園内、センダンは樹皮が漢方薬用となる落葉高木で、このあたりで見かけることは珍しい。花の季語は、初夏のころで、西日本を中心とした山地に自生しているとのことだから、こちらでは知っているひとはあまり多くないだろう。

 何年か前、都内根津美術館をふらりと訪れたときのこと。もうカキツバタの花の見ごろが過ぎたころだった。すこし残念に思いながら庭園をめぐっていて、最も園内の低地にある細長い池の端に大きく張った枝枝の先、薄く煙ったような薄紫の花のような姿を見つけた。何だろうと近くによってみると、樹木に添えられた説明版の記載で、その名称が“センダン”あることを知った。

「これがセンダン?」ひとつひとつの花自体は小さく、それが集合して大きな花房になっていっせいに咲くために、遠目にはまるで霧が煙っているかのように見えるのだった。その咲き始めは薄紫で咲き終わって落下すると、紫色は消えてクリーム色になっている。カキツバタの代わりに紫つながりの花を知って、得をしたような気分になれた。美術館案内のパンフレットにも記載されていないのだから。

 それからしばらくして訪れた自宅近くの堂之坂公苑の片隅でも、その特徴のある樹形を発見した。こちらのほうも根津美術館以上に立派な大木に成長していて、ここにもあったなあと感心して見上げたものだ。周囲には、咲き終わって落下したたくさんの小さな花弁が、まるで灰をまいたように一面に広がっていた。
 その記憶から五月の連休明けの梅雨入り前次期になると、まるで秘密事のようにはるばる根津美術館庭園か、ここ堂之坂公苑へと、センダンの花に会うために訪れることが習慣になってきている。

 そうしているうちにちょっと面白い偶然と発見があった。駅から自宅と向かう通路の途中、街路樹として西洋ハナミズキが植えられているなかに一か所だけ特徴ある若木が植わっている。きっと、誰かが枯れたハナミズキの代わりに植えたものだろうか、随分と元気で成長が早いなあと思っていたら、なんと大きく茂った葉陰のもと、この初夏に見覚えのある薄紫色の花をつけているではないか。

 近寄って背伸びして花を近くで確かめてみると、なんとセンダンが咲かせたあの花であることがわかってひとり嬉しくなった。その玉状に集まった花房を顔に寄せてみると、ほのかに落ち着く香りがする。はじめて知ったその香りに、このままタイムトラベラーになって時空を超えていくような不思議な既視感さえ覚えた。これって「時をかける少年」ならぬ「時にたたずむ熟年」か?

 ときは夕暮れ、何本かの花房をそっと家に持ち帰り、小さなガラス容器にさして居間のテーブル卓上に置いてしばらくしてからのこと。ひとつひとつはとても数ミリの小さくて薄紫の可憐な花なのに、室内に控えめで上品な芳香がひろがって、なんとも幸せな気分になれた。


白い花弁は五枚まれに六枚、おしべを含む筒状は薄紫。

追記)その後市内にある道保川公園内にも、センダンの大木があると知り、さっそく見物にでかけた。

 園内を進んでしばらく、鬱蒼とした北側斜面の森の崖から幾過ぎかの湧水が集まってできた池のほとりのベランダの先、そのセンダンはこれから咲こうとするたくさんの紫色の蕾をつけていた。
 薄曇りその空の下の池のほとり、橋のかかるそばにかすかに薄い紫がかった色合いの枝を延ばした中央の樹木がセンダン。ここではもう少しさきのひと月ほどすると、こんどはヘイケボタルの舞うほのかな光の筋を眺めることができる。コロナ禍の今年も見ることができるのだろうか。

(2022.0519 撮影 道保川公園)

 

 


四月の出来事 帰省と三島行

2022年04月30日 | 日記

 ここのところ、新緑の季節の陽光がまぶしい。つい先日一泊二日のとんぼ返りで、新潟への帰省を済ませてきたばかり。空き家となっている実家の羽目板外しと風通しをして、墓参と庭の草むしり、冬の間の雪下ろし代金の支払いなど。往きの道中、山桜が山中のうすみどりに混じってパッチワークのようで美しかった。

 魚沼丘陵を超えていくときに、道脇の北側の斜面や山の谷底には残雪があって、沢には雪解け水が滔々と流れだしていた。遠くの山並みにはまだら模様の冠雪が白く光って、大雪だったにもかからわず四月に入ってからの雪解けは早かったようだ。

 曇天、田植え前の棚田、水面鏡の淡い山桜。国道253号線から十日町儀明。
 (2022.04.26 撮影)

 この四月卯月を振り返ってみる。ようやく実現した中旬の伊豆三島行きのこと。

 待ち合わせの三島駅は、うす青緑色の緩いカーブを描いた三角の屋根に白壁のじつにノーブルな佇まい。そのむこうに富士山がそびえている。
 まずは駅前広場から路地裏通りを抜け藍染坂をくだって、白滝不動のある公園までぶらぶらと歩く。新緑の欅の木陰のせせらぎが涼やかだ。
 古いかばん屋の角を曲がると楽寿園の裏手沿いの道へと誘われる。楽寿園の中から流れでる源兵衛川の水源は、自然湧水ではなくて人工的に企業工場などからの冷却水を導いたもの。それでも街中に涼やかな水辺環境を復活させることはとてもいいことだ。

 川沿いにあるお寺の境内を通り抜けたら、伊豆箱根鉄道三島広小路駅に出る。そこから少しだけ迷ってしまったけれど、予約しておいた鰻の名店、創業安政三年という桜屋はすぐだった。木造三階建ての風情ある佇まい。すぐ脇の川沿い、時の鐘がある三石神社の隣というロケーションは、やっぱり絵になる。
 階段を上がって二階の広間に案内される。平日とはいえ、お昼時はなかなかの繁盛ぶり。うな重をふたつ注文し、しばし寛いで待つことに。ここは白洲次郎・正子夫妻がひいきにしていたと聞いていたし、司馬遼太郎が訪れたさいの色紙もさりげなく飾ってある。鰻のほうは辛口のたれで香ばしく、さすがに評判通りの結構な味わい。ここで食したことで三十数年ぶりの目的のひとつがようやく達成された。

 店を出てすぐの神社境内さきを頭上すれすれの鉄道線路が川を渡っている。その下をくぐっていく際に二両編成のイズッパコがガタゴトと頭上を走る抜けていくさまはなかなかの迫力もので、川の浅瀬の飛び石に立ったまま歓声をあげて見送る。閑静な住宅地のなかの川下りをすすめて、佐野美術館がある隆泉苑へと向かう。こじんまりとはしているけれど、池を中心によく手入れのされた回遊式庭園だ。ここも三十数年前にひとり訪れた記憶が蘇る。
 三島梅花藻の里に立ち寄ると、繁殖のための保護池の水流のなかで可憐な小さな白い五弁の花が揺れて咲いていた。そのさきの三島田町駅にでる。途中手前の通りから眺めていたよりも駅舎は立派なつくりで、反対側のホームには地下通路を渡ることにちょっと驚かされた。
 ここからは電車に乗って二駅さきの三島駅まで戻ることに。見慣れぬまちでの電車乗車は、清水からの静岡鉄道や掛川から浜松までの遠州鉄道、昨年暮れの湘南モノレールもそうだったけれど、長短にかかわらず子供にもどったかのような高揚感があって愉しい気持ちになるものだ。
 
 滞在先にもどったのは午後三時過ぎ、あたらしくできたばかりのところだ。名称の頭に“富士山”がつくところだけあって、ロビーの大きなガラス窓からは、駅ホームを挟んだ街並みのはるかむこう、山頂に冠雪を抱いた稜線が緩やかにひろがる姿に圧倒され向き合うことになる。
 ようやくのこと、ここで寛いで過ごすことができると思うとたまらなく嬉しくなってくる。しばらくは、静かなゆっくりとした時間のままにひとしきり展望風呂に浸かってから、まちに繰り出して夕食をとることにしよう。

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 翌朝二度寝して温もりを残して目覚めた部屋からは、富士の山容も素晴らしい。シャワーを浴び、着替えてあとに遅めの朝食をとりながらぼんやりと思うであろうことは、チェッククアウトしたら荷物を預けて、すぐ目の前の楽寿園を散策して小動物園でアルパカとカビバラと与那国馬をのんびり眺め、一万年まえに流出した溶岩がむき出しになった池を巡り、南出口からさきの桜川沿いをてくてく散歩しながら、約四十年ぶり二度目となる三嶋大社へと参拝を果たしてみたいというささやかな願い。
 境内神池周辺の咲き残っている枝垂れ桜を眺めて歩きながら、門前の通りの向いの町中華屋のある古い二階建てを改装した「IWASE-coffee」に入って、この度の旅の余韻を惜しもう。そこにおいてある店の案内ハガキには、つぎのような一節が書かれているはず。

「この世が変わろうとも、ここに変わることのない場所が存在している」

 これからいろいろとあって何年かがすぎていつかまた三島を訪れた時には、大宮町1丁目11のカフェ・カウンターから、神社の杜を眺めてみたいと思う。