日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

名古屋ウイメンズマラソン2022観戦記

2022年03月15日 | 日記

 春の風に吹かれたのか、住まいの敷地通路一面にうす桃色の花びらが散っている。毎年初夏に向けて実をつける枝ぶりのいいスモモの木からと思われるが、まるで絨毯のはかない模様のようだ。その奥には少し濃い目のピンクのしだれ梅が、おおきな傘をひろげたかのように見事だ。

 ようやく三回目の新型コロナウイルスワクチン接種を終えることができた。コロナって?ウイルスってなんだっけ、といまさら聞けない用語も、市保健所からの通知封書に同時表記されている中国語表記だと、“新型冠状病毒疫苗”となり、その意味がよくわかるのだから面白い。
 今回集団会場の接種を選択すれば早かったのだが、周囲からいわゆるワクチンメーカー違いの交差接種だと、副作用が重めできついという話を聞かされていたものだから、近所の整形外科での日曜日午前中の接種を予約した。その日は接種後にすこし休んでから、午後の出勤となって何もなくすごせたものの、翌日の目覚めは珍しく37度台前半の発熱があり、右腕上腕の痛みと前身のけだるさを感じたため、仕事を休んでの様子見となった。

 午前中のこと、リヴィングに座って何気なくテレビをつけたら、画面にはマラソン中継が映し出されていた。その日は「名古屋ウイメンズマラソン2022」の開催にあたり、すでにナゴヤドームを出発して小一時間ほどが過ぎていたようだった。
 しばらくすると伏見あたりから繊維町入り口看板と公園大通りの名古屋テレビ塔を視界に入れながら、市街中心地を駆け抜けていく女性ランナーたちの姿が映っている。その映し出される都市風景を眺めながら、しだいに画面に引き込まれていた。名古屋市内には多少の地理感があるので、街を駆け抜けて疾走していく姿に都市風景と一体になった何とも言えない面白さを感じたのだ。
 レース解説は有森裕子、高橋尚子、野口みずき、福士加代子という豪華メンバーで、高橋さんが少し高いキーであるものの、一様にアルト声域帯なのがおもしろい。かつての四人のトップランナーの掛け合いのなかでも、やはり人生経験が豊かと思われる年長55歳の有森さんが一番好ましく感じる。
 名古屋の中心である栄交差点、オアシズ21の屋根、愛知芸術文化センターと都市景観が俯瞰される中、ランナーたちがただひたすらに、さっそうと駆けぬけてゆく姿が美しい。

 そのうちに画面が空撮風景に切り替わったかと思うと、金の鯱を載せた天守閣と名古屋城郭と周辺の街区画全体が画面いっぱいに映る。これぞ大都市マラソンの醍醐味だろうなとちょっとした興奮を感じるのだった。さらに驚いたのは、ランナーたちが名古屋能楽堂のある並木路の反対側にある明るいレンガ色の建物のすぐ脇を走って行ったときのこと。そう、ここの通りはたしかに実際に歩いていった記憶がある。そのレンガ色の建物はKKRホテルで、三年前の二月だったと思うけれどもここへ泊っって、翌日犬山方面へと出かけたことがあるのでよく覚えていたわけだ。官庁街の建物が並び、中日新聞社本社はすぐ隣だった。
 もしやと思いながら息をつめて画面を見つめていたら、KKRで泊まって過ごした部屋の窓も、一瞬のこと映ってくるではないか!その部屋の窓から夜景の中、そして明けきらぬ朝方に名古屋城天守閣を眺めていたことも鮮やかに蘇ってきた。あのときは確か、時間が惜しくて朝食も部屋の中ですませていたのだったろうか。しばらくが経過してしまったものの、その日の旅の満たされた記憶も風景も同時にフラッシュバックしてくるのが不思議だった。もう、名古屋を訪れる機会が失われて久しい。

 そのうちにテレビ画面には、白川公園と円球体が印象的な市立科学館も映って、やはり都市マラソンは開催都市の情景を掬い取り印象付ける強力なアピール装置として作用している。
 マラソンレースそのものは、世界歴代四位の記録を持つケニア出身のテェブンゲティッチ選手が2時間17分18秒という、とんでもない大会新記録でナゴヤドームのヴィクトリーロードへと駆け込んで優勝し、2925万(25万ドル)の賞金を手にしたとのこと。日本人トップは、イスラエル人選手に次いで3位でフニッシュタイムは2時間22分22秒、四人いる解説者のだれかが「おう、ゾロ目できたか」と低く呟いていたのがなんとも可笑しかった。
 この日、北京パラリンピックも閉幕式を迎えたが、世界情勢が緊迫する中で、私にしては珍しくスポーツが印象に残る早春の一日だった。あとすこしで春分、日中が長くなってきている。


さよなら二月、コロナ禍の行き違い

2022年02月25日 | 日記

 この週末は、春の陽気だそうだ。長くて短かったような二月がともかくも過ぎてゆく。誕生月だというのに、年々寒さが苦手になっている。おまけについていないことが重なることが多く、昨年は信じられないことにすぐ近所で!交通違反切符を立て続けに切られてしまったし、一昨年などは人生初の軽い自責車両接触事故も起こしたりで踏んだり蹴ったり、まったくあっけにとられて呆然とさえしていた。

 案の定というべきか、今年の二月ものっけから楽しみにしていた予定が流れてしまい、そのやるせなさは共有時間を喪失した諦めのようなものへと変わっていく。この先気持ちを奮い起こすきっかけがなく、あてどない移り変わりの中、気持ちもからだの有り様もそれなりに変化していってしまうのが自然なのかもしれない。
 その自身の体調がイマイチとはいえ、共通の記憶を日々健康のバロメーター代わりにしているとしたら、哀しいかなあまりにも!矮小化された気がしてしまい落胆した。これまでの懸命な積み重ねがその程度のことと、想像されるのだろうか。もう仕方ないけれどコロナ禍の行き違いがあるようで、それぞれの思いが空回りしていてとても残念なこと。なんだろう、、この消えないわだかまりは。

 新型コロナ禍については、仕事上でも大きな影響があったが、再任用の身には大きな負担となることではないし、四月以降の公演企画に関してもできる範囲で粛々とすすめている、といった感じだ。たぶん、四月からは慌ただしさが増していくだろう。
 家族もウイルス感染に関してはいまのところは動揺もなく、無事なのは幸い。娘は職務上早々と三回目の接種をすませ、帰ってきたらすぐにお風呂に直行している。卒寿の母は、来月初めの訪問診療の際にしてもらうことが決まっていて、一番最後になってしまうのはどうやら私だ。

 ここひと月ほどは、住まいのマンション大規模修繕工事計画に関する大詰めのやりとりに神経をすり減らすことが多く、結構ギリギリのところまで根を詰めている羽目に陥っていた。基本的な認識をそろえるための過程と絡み合った課題をわかり易く整理して、関係者の合意形成に向けて調整する困難さを何度も痛感していた。それでもようやく苦労しながら、目指すところまでなんとかたどり着けそうか。とはいえ、まだ三月末の総会まではひと息つけない日々になりそうだ。やれやれ、頑張っていると思うけれど。
    その上厚木方面への通院付き添いなど、大幅な時間を取られるという意味でのいらだちの重なる日々をへて、ようやくの最終週末を迎えている。動揺してばかりのなんという情けない二月よ!

 それでも、機会を見つけての気分転換と楽しみを兼ねた外出と身体活動につながる“自助努力”は、たゆみなく?惜しみなく?マイペースで途絶えることなく続けていた。ひとりではつまらない気もするけれど、まあこれまでもあったことだから。
 先月末になるが、特別展覧公開にあわせて伊勢原の山中にある日向薬師を拝願してきた。ここの薬師如来本尊と十二神将立像は大小二組あって、それぞれ平安時代後期と鎌倉時代のものだ。宝物館で対面している薬師如来三尊と阿弥陀仏との取り合わせもなかなかの迫力があっていい。茅葺の宝城坊本堂や南北朝時代の鐘堂とともにすばらしい佇まいである。わざわざ久しぶりに山路の参道を歩いて、訪れたかいがあるものだった。鎌倉時代には、ここへはるばる源頼朝や北条政子も参詣していたというのだから、大河ドラマの今後の展開によっては話題になることだろう。

 その「鎌倉殿の十三人」ゆかりの近場旅では、今月初めに三浦半島横須賀芦名の浄楽寺にも足を延ばす。京急で終点の三崎口までゆき、三浦漁港魚市場からスタートして半島の西側134号線を貸し切りバスに乗って、葉山逗子経由で北上して鎌倉までを目指す観光協会のモニターコースに参加した。
 この浄楽寺には、驚いたことに鎌倉時代の仏師運慶の仏像が阿弥陀三尊、毘沙門天、不動明王とあわせて五体もある。実際に対面させていただくと表面の金箔もなまなましく輝いていて、ご住職の計らいで薄暗闇の中をろうそくの灯かりで拝願すればといっそう神秘的に見える。
 ここには明治維新の立役者で一円切手の肖像画、郵便制度の父として知られる前島密翁の別荘跡が隣接していて、ぜひ訪れてみたいと思っていた。境内裏手の高台にあるこの地で没した偉人夫妻のお墓は、正装した翁の小さな銅像がてっぺんにのっかり、全体が富士山をかたどった立派なものだった。越後高田を郷土として同じくするものとしては、じつに感激もの。
 前島密はそのほかの功績も含めて渋沢栄一や大隈重信にもつながり、もっと知られてもいい人物だろう。お寺の前の134号線沿いには、翁洋装姿胸像つき御影石の重厚な郵便ポストが設置されている。その台座には次のように記されていた「郵便は世界を結ぶ」。この立春4日は前島密187回目の誕生日と重なる。

 さて、歴史上の人物誕生日といえば、9日が夏目漱石生誕155年、17日は森鴎外生誕160年である。その間に北京オリンピックは人工雪の環境下で行われ、フィギアはもちろんジャンプもカーリングもさほど面白くないように感じていたら、ようやく20日にはやれやれの閉幕、そして23日の天皇誕生日と続く。

 忘備録的にごく私的な変化を付け加えておきたい。怠慢な我が家リヴィングのテレビ環境ももようやくケーブル契約に変わった。この先、そんなに視聴するための時間がはたして残されているのだろうかと疑問に思っていたけれど、まあいいか。
 すべての通信手段である固定電話・モバイル電話とインターネットプロバイダ契約もこの機会にすべて変えてしまった。遅ればせながら、スマートフォン本体もすこし小ぶりの「iPhone SE」を戸惑いながらの使用開始だ。ようやくの小さな?コペルニクス的大転換のなかで、ひたすら我慢と忍耐の二月が過ぎてゆく。

 気持ちを切り替えようと思い立ち、車を走らせる。国境の三輪里山周辺を歩けば、ニホンスイセンの可憐さ、紅白梅の清浄さ、それぞれに咲き出してあたりに馥郁した芳香を漂わせている。あとすこしで三月か、春の兆しはもうすぐに来ている。どうか運気が向上していきますように、丹沢の夕陽にむかって合掌。

成瀬山吹緑地から町田市街を望む。2014年の12月暮れも眺めた風景。
丹沢大山への日没は17時15分すぎ(2022.02.25)


江の島サムエル・コッキング苑

2021年12月18日 | 旅行

 湘南モノレールは、大船駅を起点に湘南江の島まで八駅を結ぶ6.6㌔mの単線懸垂式、その浮遊感といったら、まるで遊園地のゴースターに乗ったみたいでたまらない気分になる。鎌倉の山襞を縫うようにときに曲がりくねりながら上り下りして、途中トンネル潜りもあり、スリリングなことこの上ない。
 その特色はなんといっても高架ならではの眺望の良さ。冬の快晴の時期、車窓からは冠雪を纏った富士山の姿が見え隠れして思わず歓声を上げたくなる。基本は沿線住民の生活をささえる通勤通学路線なのだけれど、それだけにとどめているにはもったいないくらい。首都圏において面白さ抜群のローカル線である。

 始発の大船から乗車するのは久しぶりで、こどものようにワクワクしてしまう。乗車して約三十分足らずで、終点の湘南江の島駅に到着する。ビル五階にあるホームは改札を出ると、海岸方面に開けた展望スペースがあり、その先真正面にはもうこれでもかというばかりに堂々とした富士山が構える。あまりのストレートさが潔すぎて、なんだかあっけにとられるくらいだ。
 一階に降りて江ノ電踏切をわたり、まっすぐ洲鼻通りを江の島へと向かう。鄙びた雰囲気のあったこの昔ながらの通りも、ここ数年は新しいショップが次々とできて新旧混じったにぎやかな明るい感じである。
 通りをすすんで、国道134号線をくぐると江の島弁天橋につながっていく。この日は海風が強く吹いていて、さめるような快晴の青空に冬の太陽が眩しかった。橋を進む途中白い幾重もの波頭のむこうに丹沢大山、そして富士山が眺められる。この解放感と気持ちの良さは、何度来てみても素晴らしく代えがたいものがある。

 橋を渡り切ったら青銅の鳥居をくぐり、両側がにぎやかな商店街の参道をすすむ。正面に赤い大鳥、階段を上ると竜宮城のような端心門。そのまま石段を上れば辺津宮に至るが、この日はバリアフリーコース?を選択して、昭和レトロ気分満載の江の島エスカーを乗り継ぐことにした。このエスカーは、なんと昭和34年7月(1959年)に開業していて、以来六十年余りにわたって参拝観光客を運び続けていることになる。
 二回の乗り継ぎを経て、あっという間に山頂広場にたどりつく。サムエルコッキング苑は、明治初頭期イギリス人貿易商コッキング氏が作った別邸庭園跡とレンガ造り温室の遺構だ。南洋諸島原産の珍しい植物が残っている回遊式の園内は、近年新たにバラ園や椿園が整えられ、藤沢市との友好都市アメリカ・マイアミ、カナダ・ウインザー、韓国保寧、中国昆明ゆかりの四つの広場が設けられている。関東大震災などで倒壊してしまったレンガ積基礎の温室は、完成当時石炭燃焼により発生させた蒸気で温める仕組みの配管や、地中トンネル通路、雨水利用の循環施設もあったというからスゴイ。
 11月にコッキング氏の年表や写真画像ほか資料を展示したスペースがオープンしたばかり。彼の来日後における国内外での商業活動や日本人妻と結婚した暮らしぶり、最後は横浜平沼に骨を埋めたという生涯には興味を惹かれた。生き方は全く異なるが、同じ異邦人小泉八雲の生涯を連想してしまう。

 せっかくだから江の島展望台に昇ってみることに。今風シーキャンドルという愛称の塔は、正式な灯台であり、展望施設も兼ねているというのが正しい。夕暮れ時間には早いが、展望台に上がってみればまたまた相模湾ごしの白波、冠雪富士の雄大な姿。周囲三百六十度の眺望でまことに爽快、と言いたいところだが、あいにくのものすごい強風で、ゆっくりと不気味な揺れが伝わってくる。この空中浮遊感はあまり快適にあらず思わずすくんでいると、その腰の引けた様子をみて同行者がニヤニヤしているのがう~ん、恨めしい。

 そこそこに下界におり、石段を登り下ろして奥津宮への参道を進み、洒落た感じのカフェMaduでひと休み。ここの窓辺からも相模湾沿いの辻堂・茅ヶ崎・平塚の街と湘南平大磯、背後に丹沢箱根の山並み、植栽に隠れてしまっている富士山頂の白い部分だけが見えている。
 それぞれが注文したパスタ料理、思いのほか野菜とソースが調和しておいしかったのは、程よい疲れと空腹感、眺めの良さだけでなく、ともに過ごした時間の堆積もあったからなのだろうか。
 あとで調べたら、ここは東京北青山が一号店でどうやらその二号店らしい。イタリアンと海鮮丼ものが混じったメニュー、若者カップルむけの店内雰囲気は、そのあたりからきているのかな。

 ここまで来ると表通りはがらんとしている。帰りの裏道は甘いものが頬張りたくなって、出桁造り中村屋羊羹店舗の奥で湯気をあげていた二色のひと口饅頭を求める。
 饅頭を口にしながら山側民家の細い路地をぬけて進むと、しばらくして海側の木立が途切れたさきに、またしてもの富士山、空気が凛として澄んだこの時期の姿は、とりわけ素晴らしい。北斎富嶽三十六景には及ばないにしても、島内道中折々そのさまざまな変化の眺めは見飽きることがないだろう。


冠雪芙蓉三昧 横浜三渓園

2021年12月14日 | 旅行

 翌日、しばらくのあいだ温もりと戯れながら目覚めると冬の青空の光がまぶしい。まだ気だるさが残る朝を入浴で気持ちを切り替えて、九時過ぎに一階の白ヤギ珈琲店で遅いモーニング食をとる。ゆっくりとした冬の朝、人々の日常は動いているなかで、きょうの予定を話し合う。

 JR根岸線で大船から6駅、根岸まで行く。駅前からはタクシーで本牧通りを10分ほど、三渓園正門前へ到着する。ここは通俗的な呼び名をしてしまうと、ミナト横浜における小京都の世界だ。もとは明治期横浜の大経済人にして文化方面に造詣の深かった原富太郎(号三渓)の私邸跡と庭園であり、明治39年(1906)から一般公開されている。
 いまの紅葉の季節、日本各地から集められた伝統的建築物とよく手入れされた回遊式庭園美の調和を愛でるにはもってこいの場所、いまならメセナ大賞もの、はるばる訪れるだけの価値がある。
 正門をくぐってまず対面するのが大池越しの丘に建つ、京都木津川から大正時代に移された旧燈明寺、室町時代三重塔の立ち上がった姿。この庭園は、この塔の眺めを中心に配置が考えられているといっていい。まずは大池の脇路を移動しながら、その姿の眺めの変化を愉しむことだ。


 すぐ右手に原三渓本宅だった鶴翔閣の茅葺大屋根が迫ってくる。平成元年に竣工した三渓記念館の横をぬけて、内苑にはいると池の対岸に端正な姿を映すのは、紀州徳川家書院造り別荘を移築した臨春閣。もとあった和歌山紀ノ川のイメージを彷彿とさせる。これも風景の見立てのようなものか。
 池に流れる渓流の先は二手に分かれ、月華殿(元は京都伏見)と天授院(元は北鎌倉の地蔵堂)の先と聴秋閣(元は京都二城内)側となり、ここはイロハモミジの紅葉が歴史建造物と相まって絵になるように計算されて植えられている、その遊歩道を一巡り。途中で立ち止まれば、塔楼屋根と鮮やかな紅葉越しに決まった三重塔が望めた。この季節の三渓園におけるハイライトシーン、なかなかスマホ画像では構図をはじめ、逆光になったりで、うまく取れない。

 

 せっかくだから、その三重塔の近くまで行こう。小高い丘に向かって坂を上って、根岸湾を望める松風閣へと進む。行ってみてはっとした、ここからは石油精製コンビナート越しの冠雪富士と丹沢の山並みが望める。かつて眼下の先は埋め立てられる前の磯子湾だったはず。変わらぬ悠久な自然と現代の人工物の対比が面白く、見入ってしまうことに。石油タンクと煙突の間の富士山、東海道新幹線で富士川あたりを通過するシーンの遠景版のようだ。あの葛飾北斎もびっくりの現代ならではの情景だろう。
 

 下り路の脇には、大正時代末に起きた関東大震災で倒壊してしまった旧松風閣のレンガ壁遺構が残されている。ここのがれき跡こそ、かつてインドから来日した詩人タゴールがしばらくのあいだ滞在していた場所だと思えば、自然災害の迫力とその時の流れの無常さがいっそう感慨深い。

 尾根路を進んで旧燈明寺三重塔の真下にたつ。ここからは園内大池を見下ろし、本牧マンション群が一望のもとだ。階段を下って小川を渡り、白川郷合掌造り住宅に立ち寄ってから、待春軒で一休み。旧燈明寺本堂の横をやり過ごして、最後に大江宏の遺作設計でもある近代モダン建築書院造りの三渓記念館を訪れる。入ってすぐのロビーから、内池のまわりの隠れた紅葉が愉しめる。原三渓の生涯を記した年表・資料とゆかりの美術品を眺めて、半日に渡った三渓園めぐりは締めくくり。
 本牧通りからバスに乗り磯子まで行き、JR根岸線にて大船まで戻ったのが夕方四時だった。駅ビルで買いだして、夕食は部屋でのお寿司をつまみながらのワインの乾杯!夜更かしは禁物なのに、密林の迷宮に誘われて気がつけばいつ頃眠りについたのだろう?


冠雪の芙蓉三昧 鎌倉山檑亭

2021年12月13日 | 旅行

 師走に入ってすぐ、二泊三泊の近場旅をしてきた。幸い天候に恵まれ続けて、大船をベースに鎌倉山、横浜三渓園、江の島サムエルコッキング苑と展望台を巡る旅。共通していたのは、初冬快晴の青空と対照的に真っ白な冠雪を抱いた富士山の姿がいたるところで望めた。それは清々しく霊峰不二の尊称に相応しい。

 初日は大船から路線バスに乗り込み、モノレール高架の下を伝うようにして鎌倉山住宅の入り口まで行く。そこには小さなロータリーがあって、中央の植え込みには「鎌倉山」と刻まれた由緒あり石柱が建っている。昭和初期に分譲された都市近郊別荘地という歴史と風格を感じさせる佇まいだ。
 上り坂を進んでいくと早くも高台の緑の相模湾の向こう、あちこちの住宅の切れ目から富士山が秀麗な姿をのぞかせている。吐く息はあがってきているけれど、もうそれだけで気分は上々、視線もすこしづつ広がってくる。しばらく進んですこし平坦なところに差し掛かると、それらしき瓦屋根の門構えが檑亭の入り口である。ここから望める斜面に高低差がある回遊庭園が広がる。一番眺望が良い道路側に立つ古民家が蕎麦どころとなっている本館だ。ちょうどお昼時、かつての豪農の旧宅を移築した個人別荘だったという店内のあがりで、蕎麦に天ぷら、ビールの杯を重ねる。
 余談になるが、檑亭の“檑”って雷のなにかと思っていたら、実は“すりこぎ”のことなんだそうだ。もともとこの地には山椒の木々が生えていて、そこからの命名だと知る。山椒の幹で作られたすりこぎは最上のものだから、この料亭にふさわしい名前であるに違いない。

 食事の後は、もう一度店先の平石のまえに立ち、じっくり富士山と対面だ。絵になるという月並みな表現がぴったり、ここの庭先から眺める森のさきの白霊富士の姿は素晴らしい。梅や桜の時期なら空と海に映えて息をのむようだろう。よく晴れた遠い視線のさきには、こんもりと深い緑の杜が続いている。足元の庭の陽だまりには、もうニホンスイセンが咲きだしてほのかに香しい。たたずんでいると相模湾ごしの風もさわやかに気持ちがふっとぬけていくようだ。
 ゆっくりと庭園の道なりを下って散策すれば、植え込みに石塔・灯籠と石仏の数々、朽ちかけた茶室、夢殿を模した八角堂。竹林をぬけて羅漢群、石造十王像のなかには閻魔大王の姿もある。銀杏の大木は、すっかり全体が黄金色となって、落葉が地面を染めている。庭園全体はすこしすさんだ雰囲気もあって、さまざまな変化に富んで、われら新参者を飽きさせない。

 帰りは裏門を通してもらって「高砂」というバス停から西鎌倉駅までゆき、湘南モノレールに乗る。山肌を縫うようにして走る懸垂式モノレールは、その浮遊感がたまらない。途中のトンネル潜りもスリリングであり、まるで遊園地みたいだ。車窓から富士山との対面を愉しみながらいると、あっという間に大船に戻ってきてしまった。
 わずか半日なのにひと旅して帰ってきたような満足気分に浸ることができ、そしてようやくの再会にほっとした。あとはこれからゆっくりと過ごす時間が待っていてくれることが嬉しい。