秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

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最後の晩餐、最後の審判を現地で観る

2019-03-01 | 旅・イタリア


2003年1月、もう16年も前に訪れたイタリア旅行の記録です。
ルネッサンスの最高の芸術作品を現地で観るというツアーでした。

世間は米朝会談の怪談でもちきりかもしれないけど、お気楽に旅の記録を綴ります。


旅立つ前夜、猫かわいがりしてたギズモが、ベランダで近所のボス猫に噛み付かれ大騒動。
屋内に逃げ込んだそのトラ猫は、ビビりまくってオシッコあちこち振り撒いて逃げた。
その掃除が大変だった。

そして旅の初日、関空に8:10am 集合。
もうすっかり心は旅モードに切り替わった写真から。

※昔の写真って、どれもこれも建物や景色の前に立ちはだかってるのばっかり。
もう時効だからいいかとアップすることに。
ブログ始めてずいぶんアングルが変わってたのを実感しました。




フランクフルト乗り換えでミラノに着いたのは夕方17:25
なんで時間まで分かるかというと、
旅の栞リーフレットもアルバムファイルに保存してるから。

旅の2日目、ベローナまで170km行って観光してまたミラノに戻る。
ベローナはいい街でした。
ロミオとジュリエットのあの有名な街です。


レイナルド ダ ヴィンチの最後の晩餐は完全予約制で、予約ないと見学できないのです。
サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会のなかの昔修道院食堂だった場所に描かれています。



どんな具合だったかほとんど忘れてるので調べてみた。

「最後の晩餐」の見学はグループごとになっており、
1グループ30人ほどが15分交代で見学するしくみになっている。
入口からこの食堂までは4,5枚のガラス戸で仕切られていて2,3分おきに新しいドアが開き、
徐々に「最後の晩餐」へと向かってゆくことになる。
次々とドアが開くたびに少しずつ緊張感が高まってゆく。・・・
続きはこちらで



ミラノからベネツィア近郊のメストレの街のホテルで宿泊。

次の3日目は午前中にベネツィア観光。
ここの教会は、サン・マルコ
外の浸水で心動かされ、中で何を見たか記憶ない。

昼食後、フィレンツェまでの途中にあるラベンナへ。
サン・ヴィターレ教会のモザイク画は素晴らしかった。

フィレンツェで連泊し、
旅の4日目まずはピサの斜塔は補修中で上に上がれなかった。
でも教会そのものも立派なのが想定外だった。


午後には走行距離110kmで シエナの街へ。



行くまで全く知らない街だった。
フィレンツェと対峙してた大きな街なだけあり歴史の重層が興味深かった。

旅の5日目、フィレンツェ花の聖母教会(サンタ・マリア大聖堂
ツアー40人はいたと思うけど、塔に上がったのはうちら2名の他1名。



友達が登ってる途中で酸欠でか気分悪くなってヒヤヒヤ。

ウフィツィ美術館でボッティチェリのヴィーナスの誕生とか春とか、ラファエロの多くの作品とか、短い時間ゆえ駆け足見学。


午後、また175km走ってアッシジへ。
サン・フランチェスコ教会のフラスコ画も圧巻だった。

またまた181km走ってローマへ。


だいたいイタリアの街は200kmまでで次の大きな街に行けます。
ローマ帝国だけでなく、いろんな時代の〇〇帝国の首都とかがあちこちにあって、京都と奈良がすぐ近いような感じ。

スペインやトルコの周遊と違って、数時間もかからずに次の観光地に着きます。
午前と午後で違う街を見て、教会行って、どこがどこやったか、教会の名前すら❓

毎晩ホテルで眠りにつく前に、
「今日はどこ行ったでしょうか」の確認テストしてました。
それでも16年も過ぎればほとんど忘却の彼方です。




ローマでは、ちょっと有名なサボイホテル連泊だった。



旅の6日目、ヴァチカン市国



大きな壁画ミケランジェロの最後の審判、これも現地行かないと見れませんものね。
天井画を手鏡に写して見てる現地の若いシスター見ました、なるほど〜

どっと疲れて外へ出て記念撮影。
後ろに花嫁さん写ってるのに今にして発見。

ローマ市内定番観光地、トレビの泉コロッセオ、そしてスペイン広場



ツアー代金底値の冬は、空は灰色で気温も低くて寒い。
そこへ雨降ったら最悪。
引ったくりに遭わないようバッグをしっかり小脇に挟んでめっちゃ肩凝ったし。


イタリアは情報も見学するものもいっぱい溢れてます。
さらにユーロに変わって間もない頃で、頭いっぱい目一杯の旅だった。

この機会にそんなこんなを懐かしく思い出せて、またしばらくは記憶に残ると思います。


*書き上げて画像見たら、「ここ行って来ました!」と言わんばかりの写真ばっかりでウンザリ。
被写体になるということは、撮影者はガイドさんや知り合いだけでなく、行きずり通りすがりだったりするわけで。
でもこれもあの時代の生き様だったんだと思い直し記録残しておきます。
アングルなんてどうでもよくて、行ったよ〜という証明写真を良しとする価値観を持ってたということですね。