サッカーのルールに詳しいわけではない。サッカーの試合も、テレビ観戦はW杯が開始してから、見る機会があれば見る程度で、Jリーグの試合をテレビ観戦することは皆無に近い。閏年並みの関心しかない。
W杯ブラジル大会C組予選で日本は最下位敗退、予選突破を果たすことができなかった。順位は端なくも世界ランキングと重なった。
世界ランキング
コロンビア 4位
ギリシア 15位
コートジボワール 17位
日本 44位
予選終了後の大方の総評は、「日本の実力」、「世界との実力の差」であった。2戦目で世界ランキング44位の日本が世界ランキング15位のギリシャと0-0で引き分けたのだから、よく戦ったと言えるが、ギリシャは前半38分のところで、ミッドフィルダーが2度目のイエローカードを突きつけられて退場。後半45分を11人対10人の有利な状況で目一杯戦いながら、1点もぎ取ることができなかった。
実力通りの結果と言うことなら、実力通りに素直に戦っても、勝てないと言うことになる。しかし、実力通りに戦って、実力通りの結果を得た。
サッカーは往々にして偶然に支配される機会が多い。ゴール前のこぼれ球一つで相手に点が入り、あるいは味方に点が入ることがある。オウンゴールで自チームに点が入るなどは偶然の典型であろう。
ペナルティーエリア内で相手チームの誰かが反則して得た自チームのペナルティーキックによって安々と手に入れた1点は反則という偶然が献上してくれたプレゼントのようなものだろう。
偶然はゴール前の混戦が最も生み出しやすい。と言うことは、ゴール前の混戦に持ち込めば、偶然を期待できることになる。
相手陣営にボールを持ち込んで攻撃する場合は、フォワード2人、ミッドフィルダー5人、デフェンス3人のうち8人を攻撃陣として、左右のサイドラインからサイドラインまで目一杯使って横にパスをつなぎながら前進、ペナルティエリアライン付近にボールを持ち込んだとしても、直接シュートしたりせず、あるいはオフサイドにならないようにペナルティエリア内に回り込んだ味方の選手にパスを通してシュートさせるといったこともせずに、ペナルティエリアかゴールエリア、いずれかのゴール近くの場所にボールを高く上げると、落下地点目がけて付近にいた両チームの選手が殺到することになって、相手チームの選手はヘディング、その他でボールを弾き返そうとし、味方選手はヘディングか、オーバーヘッドシュート、その他でゴールに押し込もうとする混戦を期待できることになる。
そこに味方選手の前にボールがこぼれるといった偶然が生じない保証はない。
但しヘディングの場合、一般的に外国選手は背が高く、身体能力も高いから、相手選手のヘディングでボールが弾き返される確率が高くても、身体がぶつかり合うことで相手選手を押しのけることができて、背が低く、跳躍力の低い日本人選手がボールを拾う可能性は決して捨てきれない。
例え相手選手のヘディングが優ってボールを弾き返されたとしても、過去の例からどのくらいの距離で弾き返されるか、その確率を前以て計算しておいて、8人のうちの3人ぐらいはそのことに備えて弾き返されたボールを待ち構える姿勢でいれば、再びボールを保持でる可能性を生むことができる。
そのことに成功した場合、機を見て直接シュートするか、再びボールを高く上げて偶然を狙うか、ボールをパスした上でシュートに持ち込むことを狙うか、その判断はその選手に任されることになる。
このように時には実力通りの正攻法で戦ったり、偶然をつくり出す作戦を利用したり、硬軟織り交ぜる。実力通りがダメなら、何かしら工夫しなければならない。実力通りの正攻法のみで戦って、なかなか点が入らないと、心理的に疲れてくる。心理的疲労は体力的疲労を加速させる。当然、決定力を欠く要因となる。
他チームと比較して実力で劣るということは即そのまま決定力が劣ることを意味する。決定力の劣ることが試合時間の経過と共に心理的疲労を招き、それが肉体的疲労を加速させるとしたら、ブラジルのような高温の場所での試合は90分を通して実力通りの試合運びも期待できないことになって、実力の差はなお広がることになる。
偶然を狙わなくても、偶然に恵まれることもあるが、今回の予選では、そういうことは一度もなかった。
硬軟織り交ぜた試合運びには実力が劣るチームにとって実力通りの試合運びでは期待できない大胆な荒々しさが必要となる。
日本のサポーターもそのことを期待して声援を送らなければならない。しかし6月15日の日本チームにとっての第1戦であるコートジボ ワール戦では、中には試合後、ゴミを拾う心の準備をしながら応援したサポーターも存在した。マスコミが注目することを期待していなかったろうか。もし期待していたなら、不純な虚栄心を動機としていたことになる。
実際にも世界のマスコミが注目することになった。1-2で日本が敗れた試合後のゴミ拾いは以下のような評価を得た。
「試合には負けたが、礼儀正しさで高得点を挙げた」
「日本は初戦を失ったが礼儀正しさの面では、多くのポイントを獲得した。日本人サポーターの行為はインターネット上で大いに称賛されている」
「日本のサポーターは、試合後の礼儀正しさを示した」
「市民の模範」
「日本のサポーターは雨のなか、ゴミ拾いをして気品を示した」
「尊敬に値する素晴らしいマ ナーだ」
「敗北したが、日本の応援団のカリスマ性はブラジル人の心を掴んだ」
「民度の高い国は尊敬に値する」等々――
もし日本チームがコートジボ ワールに勝っていたなら、勝利の誇らしい高揚感に加えて日本のサポーターに対する評価がなお一層の誇らしさを与える役割は果たして、2戦目以降の試合に実力にプラスアルファーの力を与え、モチベーションを高めていたかもしれない。
だが、試合は負けた。負けたとしても、サッカーの一部であり、心情的にも切っても切れない日本のサポーターに対する評価はチームにある種の満足感を与えなかったろうか。日本のマスコミやブラジルに出掛けない日本のサッカーファンは世界の評価に対して素晴らしいことだと満足し、流石(さすが)だと持て囃した。
脇役であるべきサポーターが主役となり、負けたチームを背景に退かせたのである。
予選C組の世界ランキングで実力が遥か最下位の日本チームは初戦に勝って勢いをつけなければならない大事な試合に負けた以上、どのような一かけらの満足もいっときでも心に紛れ込ませてはならなかった。
何かをプレーするとき、自身が頭に描いた巧みな動きが思うようにできなくて、あれ、おかしいなと思った瞬間から、こんなはずではないという余分な意識に囚われることになって、修正を試みても、修正できずに最後まで引きずってしまい、思った通りの力を発揮できずに終えてしまうことがあるが、満足という余分なものを紛れ込ませると、それが一かけらであり、いっときのことであったとしても、実力を上回る力を引き出す勝つという強い意志が必要でありながら、実力が実力だから、それを生み出すのがなかなか困難なところへ持ってきて、余計に困難となる。
芸術家が一作品を完成させたとしても、その出来栄えに満足してはならないと自身を戒めるのは、満足することの恐ろしさを知っているからだろう。
だが、日本のゴミ拾い活動をしたサポーターたちがその満足を日本のチームに与えたと私は見ている。