河野洋平元衆院議長が東京都内での講演や月刊誌「世界」5月号インタビューで安倍晋三を批判、安倍晋三が6月9日午前の参院決算委員会で反論したという。
先ず5月29日の公演での河野発言は次の記事から。《「中国を仮想敵国にしている」河野氏が安倍外交を批判 談話検証には「冷静に結論を」》(MSN産経/2014.5.30 13:249)
河野洋平「(集団的自衛権の行使容認を目指していることについて)あからさまに中国が仮想敵国になっている。『わが国の平和と安全を守る』というより、外交的に隣国と話をすることが先で、その方が効果的だ。
(『地球儀外交』を引き合いに出して)世界中を飛んで歩いているのは尊敬するが、深刻な問題を抱える隣の国だけ行かないのは、いかがなものか。 島(尖閣諸島)の問題と歴史認識の問題をなんとかしないといけない」――
次の記事――《日中関係を巡り河野元衆院議長が首相を批判》日テレNEWS24/2014年5月30日 1:58)からも見てみる。
河野洋平「あれだけ地球儀を見ながら世界中を飛んで歩いている人が、隣の国だけ行かないとは一体どういうわけだと思う。しかも一番深刻な問題があり、一番求められている、問題を抱えている隣の国にだけ行かないというのは、ちょっといかがなものかと私は思わざるを得ない。
(集団的自衛権)あからさまに中国は仮想敵国となっている」――
月刊誌「世界」5月号インタビューでの批判は安倍晋三の国会答弁反論と次の一つ記事の中で取り扱っているが、河野インタビュー発言だけを取り上げて、安倍国会答弁は参議院インターネット審議中継から、その個所のみを文字に起こすことにする。
《「取り繕いは大きな禍根残す」 首相、河野氏の「上から目線」批判に強く反論》(MSN産経 /2014.6.9 13:03)
河野洋平インタビュー「(首相の国会答弁について)上から目線で接していることが少なくない。とりわけ 疑問に思うのは相手の議員によって言い方や姿勢を変えているように見えることだ。議員の背後にいる国民に著しく礼を失している。行政の責任者として非常に不適切だ。
(内閣法制局長官やNHK経営委員などの人事、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈見直しの動き、武器輸出三原則に代わる防衛装備移転三原則などの問題点を列挙。)日本がやるべき仕事は中国や韓国との関係改善だ。もっとバランスの取れた外交をすべきだ」――
江崎孝民主議員が「世界」5月号のインタビュー発言を参院決算委員会で取り上げて、「大先輩の指摘をどう思うか」かと質した。
安倍晋三「えー、私の不徳の致すところであります。我が党の大先輩からも厳しいご指摘を色々な場で頂いておりました。私も、えー、しっかりと受け止めていき、また、えー、拳々服膺(けんけんふくよう・人の教えや言葉などを心にしっかりと留めて決して忘れないこと)していく、必要があるだろうなぁと、このように思っております。
えー、河野元議長を今では知らない人はいない存在などと思っています。えー、敢えて申し上げればですね、えー、自分の、それぞれ信念を持って政治家になっている、わけでありますが、様々な議論を行う際にですね、その信念を、えー、少し丸めて、その場を取り繕ったとしてもですね、後々大きな禍根を残すこともあるわけでありまして、それは私は政治家としては不誠実ではないかというのが私の考えであります。
それはそれぞれ政治家が持っている信念でありますから、みんなが自分と同じ信念を持つという気持は私は毛頭ないわけであります。
このようなはご批判も、時には恐れずに、私は自分の信念を述べていくつもりあります」――
江崎議員は、最初は反省しているように見えたが、信念の件(くだり)で開き直りと受け取めて、今年1月29日の参議院代表質問で質問の最中に安倍晋三が両手を頭の後ろに当てて大きく背伸びをし、その両手をバンザイする形で上に上げた、どの新聞もその写真を撮って報道することはなかったが、その不誠実な態度と、しかも原稿通りに読まずに読み飛ばしたことを取り上げて、要するに河野洋平が「議員の背後にいる国民に著しく礼を失している」と批判したことに擬(なぞら)えてのことなのだろう、不誠実で傲慢な態度ではないかと追及。
特に「河野元議長を今では知らない人はいない存在などと思っています」は不遜な発言であろう。
安倍晋三の次の答弁は江崎議員の指摘通りであることを証明することになる。
安倍晋三「今、大切な決算の時間にですね、えー、かつての遣り取り。えー、私も多少人間ですからね。疲れているときもありますよ。当時は海外出張も重なっていましたから。
ええ、そういう声があれば、もしかしたら、申し訳ないと思いますよ。いちいち、それをここで取り上げてですね、もっと政策の議論をしましょうよ(失笑するような笑みを見せて)。それを国民が求めているんじゃないんですか。
私は厳しい反論をする場合もありますよ。厳しく反論すれば、不愉快かもしれませんが、それがこの委員会に於ける議論なんですよ。私はこれからも私の述べる点はしっかりと述べていきたいと、このように思います」――
確かに人間だから、疲れるときもある。だが、いくら疲れているからといって、質問者の質問の最中に両手を後頭部に当ててその頭を後ろにのけ反らせた上に、その手をバンザイの形で高々と上げるのは、質問者に対する小馬鹿にする態度であって、同じ人間であったとしても、性悪な人間としか見えないことになる。
それを「私も多少人間ですからね。疲れているときもありますよ」と言うのは開き直り以外の何ものでもない。人間としての誠実さが分かろうというものである。
しかも、「そういう声があれば、もしかしたら、申し訳ないと思いますよ」と、申し訳ないという気持を100%の反省とするのではなく、「もしかしたら」と、あるいはそう言うことかもしれないという推定に置き替えていることから、少なくとも言葉通りには申し訳ないと思っていないことになる。
要するに言葉と思いに乖離がある。
いずれにしても安倍晋三は信念を少し丸めてその場を取り繕い、後々に大きな禍根を残すといったことは一切しない誠実な政治家だと、自己評価した。
2012年9月16日の自民党総裁選討論会。
安倍晋三「河野洋平官房長官談話によって、強制的に軍が家に入り込み女性を人さらいのように連れていって慰安婦にしたという不名誉を日本は背負っている。安倍政権のときに強制性はなかったという閣議決定をしたが、多くの人たちは知らない。河野談話を修正したことをもう一度確定する必要がある。孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」――
2013年4月22日、参議院予算委員会。
安倍晋三「安倍内閣として、いわば村山談話をそのまま継承しているというわけではありません。いわば、これは50年に村山談話が出され、そして60年に小泉談話が出されたわけでありまして、これから70年をいわば迎えた段階において安倍政権としての談話をそのときに、そのときのいわば未来志向のアジアに向けた談話を出したいと今既に考えているところでございます」――
2014年3月14日の参院予算委員会での河野談話を巡る遣り取り。
安倍晋三「まず私から、安倍内閣のいわば歴史認識についての立場について述べさせていただきたいと思います。
歴史認識につきましては、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されています。安倍内閣としては、これらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいます。
慰安婦問題については、筆舌に尽くし難いつらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛みます。この点についての思いは私も歴代総理と変わりはありません。この問題については、いわゆる河野談話があります。 この談話は官房長官の談話ではありますが、菅官房長官が記者会見で述べているとおり、安倍内閣でそれを見直すことは考えていないわけであります。
先ほども申し上げましたように、歴史に対して我々は謙虚でなければならないと考えております。歴史問題は政治・外交問題化されるべきものではありません。歴史の研究は有識者や、そして専門家の手に委ねるべきであると、このように考えております」――
河野談話を「孫の代までの不名誉」だと言って、見直す方針を示しながら、異なる場面では安倍内閣では見直すことは考えていないし、村山談話と同様に歴代内閣の立場を安倍内閣しても全体として引き継いでいくとの立場を示しながら、さらに異なる場面では、「村山談話をそのまま継承しているというわけではありません」と違ったことを言う。
このことを以って、信念を少し丸めてその場、その場を取り繕っていることにならないだろうか。
2012年9月26日投票の自民党総裁選立候補者共同記者会見。
安倍晋三「国の指導者が参拝し、英霊に尊崇の念を表するのは当然だ。(第1次安倍内閣の)首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極みだ。(参拝は)今言ったことから考えてほしい」(MSN産経)――
そして第2次安倍内閣1年目となる2013年12月26日、靖国参拝を果たして、「痛恨の極み」を晴らす。
安倍晋三「もとより韓国、中国の人々の気持ちを傷つけるつもりは毛頭ない。母を残し、愛する妻や子を残し、戦争で散った英霊のご冥福をお祈りし、リーダーとして手を合わせるのは、世界共通のリーダーの姿勢ではないか。それ以外のなにものでもないと理解していただく努力を続けていく」(NHK NEWS WEB)――
安倍晋三は靖国神社参拝を国のリーダーの務めとすることを自らの固い信念としている。だからこそ、1年続いた安倍第1次内閣のその1年の間に靖国参拝を見送ったことを「痛恨の極み」だとした。
だが、第2次安倍内閣発足翌年の昨年2013年、春と秋の例大祭では参拝を見送り、真榊を奉納しただけで済ませた。敗戦の日である8月15日こそ、国のリーダーの務めとして靖国参拝の信念を示すべきを、参拝せずに自民党総裁の立場で、いわば国のリーダーの立場ではなく、私費で玉串料を納めて国のリーダーの務めに替えた。
2013年12月26日には靖国参拝の信念を果たしたものの、今年の春の例大祭には国のリーダーとしての信念を示さずに、再び真榊奉納に替えた。
マスコミは中韓とオバマ大統領に対する配慮を理由としているが、どのような理由があれ、信念を少し丸めてその場を取り繕ったことにならないだろうか。
もし安倍晋三が信念を押し通したなら、より大きな禍根を残すことになるから、信念を少し丸めたと自己正当化するとしたら、それは信念と言うことはできなくなる。
信念は丸めたり曲げたりするものではないし、悪しき結果を招くと予想される場合にのみに使う表現であって、実際に丸めたり曲げたりしている人間には「信念」という言葉は使う資格はない。
安倍晋三は時と場合に応じて都合よく信念を丸めたり、曲げたりしていながら、「信念を、えー、少し丸めて、その場を取り繕ったとしてもですね、 後々大きな禍根を残すこともあるわけでありまして、それは私は政治家としては不誠実ではないかというのが私の考えであります」と口先では立派なことを言って、実際行動とは異なる自己評価を自省心もなく提示した。
国民の多くがこのことを気づいていないだけで、もし気づくことになったなら、裏表のあった政治家、ウソつきだったといった評価が下される禍根を残すことになるに違いない。