鈴木都議の対女性都議女性蔑視のヤジ騒動は様々な教訓を含み、実名教材にすれば、小中高生の教育に役立つ

2014-06-24 08:08:27 | Weblog



 6月18日の東京都議会で独身35歳の女性都議が質問中に、「早く結婚した方がいいんじゃないか」、「産めないのか?」などと男性都議が飛ばした女性蔑視ヤジの犯人探しは、疑われた自民党自身の所属議員全員に対する聞き取り調査等を経て、自民党大田区選出の鈴木章浩議員が自身の発言であることを認めたことで一応の決着を見た。

 一応というのは、「早く結婚した方がいいんじゃないか」というヤジのみを認めて、他のヤジは自分ではないと否定しているからなのは断るまでもない。

 6月22日のフジテレビ「新報道2001」 の犯人探しのインタビューでは鈴木章浩議員は次のように発言していた。 
 
 鈴木章浩自民党都議「分からないと思いますよ、きっと。ヤジなんていちいち聞いている人いないですから」

 いちいち聞いている人はいないから、誰がヤジを飛ばしたの分からないと言っていた。自分自身がヤジを飛ばした一人でありながら、これ程巧妙なウソはない。

 番組がインタビューした他の二人の自民党都議もウソをついていたことになる。

 来代勝彦自民党都議 (きたしろ かつひこ)「いやー、私は・・・・、そんな、ヤジは聞いていないですよ。聞こえなかったですね」

 小磯明自民党都議「私も、はっきりとした、何を言っている、明確にこうね。あのー、内容的な、パッとね、聞こえてこなかったことがあるんですよ」

 独身35歳の女性都議に聞こえて不快な思いをさせたということはヤジの意味を解したからに他ならない。議員席からヤジに同調する笑いが起きたということにしても、同じくヤジの意味を解したからである。聞こえなかったなら、意味を解することはできない。当然、同調の笑いを見せることもできない。

 同調して笑ったということは、ヤジが意味するところを肯定する意識があったから、笑うことができたということであり、ヤジの内容に否定、もしくは反発する意識があったなら、笑うことはできなかったはずだ。

 みんなが笑ったから、自分も笑ったというのでは余りにも主体性を欠くことになる。主体性のない都議会議員とい 倒錯は許されない。

 今回のヤジと犯人探しの騒動、その果ての犯人の一人が名乗り出た一連のドラマには様々な教訓が含まれている。人間の在るべきではない否定的な 姿を映し出しているがゆえの、そのことを反面教師としなければならない教訓である。

 反面教師とすることによって人間の在るべき肯定的な姿を教えることが可能となる。この教訓は学校教育に利用する価値が十分にある。

 ヤジを認めた鈴木章浩自民党都議が6月23日、都庁で釈明の記者会見を開いたが、その発言もいくつかの教訓を含んでいる。《ヤ ジ謝罪の自民・鈴木章浩都議  会見での主なやりとり》asahi.com/2014 年6月24日00時35分)全文を無断拝借することにする。

 記者「なぜこのような発言をしたのか」

 鈴木自民党都議「少子化、晩婚化が問題となる中で、早く結婚していただきたいという思いがあり、あのような発言になった。したくても結婚できない方への配慮が足りず、深く反省している」

 記者「当初はヤジを否定していた」

 鈴木自民党都議 「『子どもを産めないのか』など私以外の発言も報道される中で、謝罪する機会を逸してしまった。党会派の聞き取りにはウソをついた」

 記者「出産にまつわるヤジは誰が言ったのか」

 鈴木自民党都議「他の発言は確認していない。騒がしかったとは思っている」

 記者「20日には、ヤジは議員辞職に匹敵するとの考えを示していた」

 鈴木自民党都議「そのような発言をしたか記憶にない。初心に戻って都議としてがんばりたい」

 記 者「国際的な批判も起きている」

 鈴木自民党都議「6年後に五輪を控え、正常化のためにがんばらなければいけない」

 記 者「今後もヤジを飛ばすか」

 鈴木自民党都議「すべてのヤジをしないほうがいいとは思っていません」

 記 者「ほ かのヤジ発言をした人はどうするべきか」

 鈴木自民党都議「ヤジを発したのが事実なら、その人は承知しているはずなので名乗り出て謝罪してほしい」(以上)

 以上の顛末から教訓を拾い出してみる。

 先ずはヤジが飛ばした本人は単なる冷やかしと思ったかもしれないが、この女性蔑視のヤジは、実体は男尊女卑に根ざした女性の人権軽視から発した「言葉の攻撃」であるという教訓を見なければならない。

 子どものイジメにしても、そ の多くが相手の人権や人格を無視した「言葉の攻撃」によって成り立っている。「キモイ」、「死ね」、「臭い」等々、言葉を使った攻撃で相手の自分らしく生きようとする人間としての自然な姿を歪め、追いつめ、相手から本来持っているその自分らしさを奪っていく。

 人は自分が自分でなくなったとき、自分ではない自分を維持するのが苦しくなって、その混乱から時として自分で自分を死へと誘(いざな)うこともある。

 言葉が相手の心を傷つけ、苦しめる攻撃の武器となるのは言葉を無自覚に使うからではあるが、その無自覚さは自身の精神性から来ているはずである。いわば無自覚さと精神性は相互に対応し合っている。

 女性蔑視のヤジを飛ばした都議の精神性自体が男尊女卑に基づいた女性蔑視を糧としていた。それがヤジの形を取った言葉の攻撃となって現れた。
 
 糧としていなければ、女性の人権や人格に関わる発言は無自覚さを免れることができたはずだ。

 ヤジった都議は今後同じ失敗を繰返さないために女性に関係する言葉の使い方に自覚的になるだろうが、精神性の糧としている女性蔑視を払拭できずに心に残している限り、言葉で装うだけの女性の人権尊重、あるいは人格尊重とならざるを得ないということも、小中高生の教訓として教えることができる。

 心にもないことを言うとはこのことであると。

 不正直とは、犯人探しのときに言葉で繕って自分ではないように装う類いのことを言うだけではなく、自分自身の思想や精神としていないことを、さも思想や精神としているかのように言葉を繕って装うことも不正直のうちに入るとする教訓とし得る。

 そして政治家だからと言って、常に正直であるとは限らないこと、正直さの代償は経歴に栄誉を与えもするが、不正直さの代償は経歴を傷つけ、時には職そのものを失うことがあることを教える教訓とすることが可能となる。

 釈明記者会見について言うと、自身の精神性から出た男尊女卑に基づいた女性蔑視ヤジ以外の何もでもないから、このことを認めて謝罪する以外、釈明自体が綻びることになる。

 記者に発言の動機を聞かれて、「少子化、晩婚化が問題となる中で、早く結婚していただきたいという思いがあり、あのような発言になった。したくても結婚できない方への配慮が足りず、深く反省している」と釈明している。

 鈴木都議が個人として特定の未婚女性を対象に向き合っていたのなら、未婚女性を一人でも減らしたい、子どもを一人でも増やしたいという思いから発することもあり得る「早く結婚した方がいいん じゃないか」という言葉は成り立たせることができる。

 だが、そういった関係からの言葉ではなく、地方政治家として都議会という政治の場で質問者個人と向き合っていたのであり、当然、両者の背後には多くの都民・有権者が存在しているのだから、「少子化、晩婚化のなかで早く結婚していただきたいという思い」は結婚していない、あるいは結婚していても自身の、あるいは男女の意志的選択として子どもを産まない(非意志的選択としての産めないではない)不特定多数の女性を対象に練る政策を通して問いかけるものであって、質問者個人に向ける思いとすることは決してできない。

 大体からして少子化・晩婚化対策の政策を滔々と述べる中で未婚女性は「早く結婚した方がいいんじゃないか」という一節を加えることを考えると、この言葉の妥当性ははっきりと分かる。

 あくまでも個人が個人として女性個人に向ける言葉である以上、元々女性差別意識を持っていたことからの女性蔑視ヤジであることを誤魔化すために尤もらしい理由づけの次なるウソを必要とした、「少子化、晩婚化が問題となる中で、早く結婚していただきたいという思いがあり、あのような発言になった」ということでなければならない。

 一度ついたウソに対して謝罪以外に正当化できる言葉は存在しない。自身の精神性の何が動機となった発言だったのかという謝罪を省いて正当化だけを考えるから、次なるウソを必要とすることになる。

 その典型例を鈴木都議の釈明記者会見の発言として挙げることも学校教育に於ける小中高生の教訓とすることができるはずだ。

 20日にはヤジは議員辞職に匹敵するとの考えを示していながら、「そのような発言をしたか記憶にない。初心に戻って都議としてがんばりたい」と、記憶にないを口実に前言を翻している発言にしても、報道を検証すれば確認できることなのだから、本人の記憶は問題ではなくなる。にも関わらず、自身の記憶を条件として辞職を撤回する不正直さを破廉恥にも曝している。

 都議自身の精神性の一つとしていた男尊女卑に基づいた女性蔑視ヤジが国内外に広げた騒動に自身は関係していないかのように装ったウソ・不正直を自身の精神性を改もせずに取り繕おうとして新たなウソ・不正直を必要とし、その連鎖にハマり込んでいって、ついには自らが築いてきた経歴と信用を傷つけることとなった。

 この身から出た錆・自業自得の経緯には今まで記してきた、あるいはそれ以上の教訓を見ることができるはずだ。これらの教訓は人間、如何に在るべきかの、学校教育に於ける小中高生の教育とすることが十二分にできる。

 是非、実名の教材とすべきだ。

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