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《6月20日(金)小沢一郎生活の党代表 両院議員総会挨拶要旨》
『小沢代表、安倍政権の傲慢さ、強引さを許したのは野党にも大いに原因がある』
麻生太郎が6月21日の自民党栃木県連会合で集団的自衛権に言及した際、イジメを譬えに持ち出して説明したという。
麻生太郎「学校で一番イジメられるヤツはどんなヤツかと言えば、喧嘩は弱い、勉強もできない、しかも貧しい家の子と、三つ揃ったら先ず無視。イジメの対象になりません。しかし、勉強はできない、喧嘩は弱い、だけど金持ちの子、これが一番やられる。
日本は間違いなく軍事力がある。しかしきちっと外から見えてない。金はあるということは分かってる。いちばん集中攻撃されやすい国が日本。
抑止力は基本的に力がないとできない。その力を使うという国民的合意がいる」――
多くのマスコミがイジメが問題化して「いじめ防止対策推進法」が昨年9月に施行され、各自治体がイジメ対策を進めている中で、特定条件の子どもをイジメに遭いやすいタイプだと無批判に発言した姿勢が問われるといった論調の批判を加えていた。
だが、麻生太郎が持ち出したそれぞれのタイプに論理的な根拠は見出し難い。「喧嘩は弱い、勉強もできない、しかも貧しい」と三拍子揃った子は無視されるタイプで、「イジメの対象になりません」と決めつけているが、会社で上司に叱られてばかりいる夫がそのイライラの発散を家に帰って妻に言葉の暴力やときには身体的暴力の八つ当たりで代償させる例は、妻を弱い立場に立たすことができることで比較対照的に自分を強い立場に立たすことが可能とする反撃される恐れのない安心感からの不満解消であるように、三拍子揃った子は反撃される恐れのない安心感を最も与えやすい弱い立場に立たされがちなタイプであって、その安心感からいつイジメの対象とされかねず、決して「イジメの対象になりません」と決めつけることはできない。
また、「勉強はできない、喧嘩は弱い、だけど金持ちの子、これが一番やられる」と言って、一番イジメの対象となりやすいタイプであるかのように言っているが、金持ちの子がカネの力で仲間を集めて構成した集団を力として、自身は直接喧嘩はしなくても、集団全体で自分たちを強い立場に立たせることでより弱い立場の子を安心して攻撃する力を持った場合、一番イジメの対象となりやすいタイプであるどころか、変じて一番イジメを働きやすいタイプとならない保証はないし、そういった例があることは決して否定できない。
あるいは集団の中で自身を力関係でトップか上位に置いていた場合、最も弱い立場の子を安心して攻撃できる対象としてイジメ等の攻撃を働かない保証もない。
金持ちの子に仲間が集まる例はよく見かけることである。
イジメは常に固定されるとは限らない、時に応じて変り得る上下の力関係の中で上に位置する力から下に位置する力に向けて攻撃の形を取る。
麻生太郎のイジメ対象のタイプ分けは単細胞でなければできないタイプ分けとなっている。大体が一国の安全保障をイジメのタイプに譬えること自体が単細胞でなければできない。
一番イジメを受けやすいタイプとして、「勉強はできない、喧嘩は弱い、だけど金持ちの子」を挙げた。
それが現在の安全保障下の日本だと言っている。
確かに日本を金持ちの子に譬えることはできる。
だが、「日本は間違いなく軍事力がある」と言いながら、「喧嘩は弱い」子に譬えることができるのだろうか。軍事力があるばかりではない。日米安全保障条約によって米軍に守られてもいる。
また、高度な技術力に基づいて築き上げ、今日の経済力を有することとなった日本を「勉強はできない」子に譬えることができるのだろうか。
集団的自衛権憲法解釈行使容認に向けて無理矢理こじつけているに過ぎない論理破綻しか見えてこない。これが一国の副総理であり、財務大臣だと言うから、安倍晋三の任命責任を問わなければならない。
麻生発言はあくまでも集団的自衛権行使容認の必要性から、国の安全保障の譬えにイジメのタイプを持ち出した。だが、国政を担う政治家として、更には国政の運営に直接携わっている閣僚として、国の安全保障のみを専門の政策的視野としていいわけはない。例え専門外であっても、政策全般に亘る視野を備えていなければならないはずだ。
だから、現在は財務大臣で、財政全般に亘る政策を専門としているにも関わらず、専門外の集団的自衛権にまで発言することができるのであり、集団的自衛権行使容認の必要性からイジメ問題を譬えに持ち出した以上、例え前者にメインの言及を置いていたとしても、イジメ問題に関わる政策的視野にしてもそれなりの見識を備えていなければならない。
それなりの見識を備えずに譬えに出したとすると、論理的な整合性を失うことになる。
だが、イジメのタイプの分析がそれなりの見識を備えていない単細胞なものとなっていることも問題だが、集団的自衛権行使容認の必要性への言及は国を守る思いから発した政治家としての、あるいは閣僚としての一見識であるはずだが、イジメを譬えに出した以上、譬え自体に論理的整合性を欠いているものの、国を守る見識を示したことに対してイジメから子どもを守る見識を対置させて初めて平等な政策的視野とすることができるはずだが、単にイジメのタイプを示しただけで終わっていることを何よりも問題としなければならない点であるはずだ。
いわば麻生太郎は国政を担う政治家として、あるいは閣僚として政策全般に亘る視野を備えていなければならないにも関わらず、国を守るそれなりの見識を披露することができたとしても、イジメられる子を守るそれなりの見識にまで配慮を示さない片手落ちを犯した。
菅官房長官は6月23日の記者会見で、今回の麻生発言を、「麻生氏にいじめを許容し正当化する意図は全くなかった」(47NEWS)と擁護しているが、問題がどこにあるのか気づいていない発言に過ぎない。
確かに麻生太郎はイジメを許容し正当化してはいない。国を守る見識を示しながら、イジメから子どもを守る見識を示さなかった不平等な政策的視野が問題なのである。国だけのことを考えていた。これを国家主義と言う。
安倍晋三が任命した麻生太郎だけのことはある。